34.兄と妹
しばらくの沈黙。
サーシャは兄の方をときどき見るが、
兄ヴィクトルはそっぽを向いたままだった。
父に言われて残ったが……
この兄に何をしろと?
やる気がないのに教えろと言われても、無理がある。
だが、
この兄が立ち去ろうとしていないのは……
何か思うところはあるということか。
「お兄様。お母さまに会ったことはあったんでしたっけ?」
サーシャは尋ねてみた。
そっぽを向いていたヴィクトルが、サーシャの方に顔を向けた。
「まあな」
「お母さまに会ったのは、何回くらい?」
「……今まで数回程度だ」
またサーシャに背を向けるが、意外に素直に答えてくれる。
「お母さまは、お兄様から見て、どうだった?」
ヴィクトルは少し考え込んだ、窓際へと歩き、外を見る。
「……母上は……どこまでも広く、深いお心を持っていらっしゃった……
女神とはこういう者のことかと……思ったな、物心ついて、初めてお会いしたときには……
衝撃的だった。
……だが我が国でそんな態度は見せられん」
「……なぜですか?」
「国の連中を見れば分かるだろ」
「お兄様が最強なんでしょ?なぜあの連中に遠慮することが?」
「俺は奴らの上であらねばならん。弱みなど見せてはいけないんだ。
父上が気弱でいらっしゃるから……軍の連中が虎視眈々と権力の座を狙うのだ。
祖父のように、連中を支配しておかなければならないんだよ」
「どこもそういうもんか」
「ん?」
「うちでも王配の座を狙う奴がいたりしたみたい」
「……そうなのか」
ヴィクトルはサーシャの方に少し体を向けた。
「互いに大変だな」
「そうだね」
「「大事なのは頂点に立つことじゃない、維持することなのに」」
サーシャとヴィクトルの言葉が、見事に重なった。
二人は驚いて、顔を見合わせーー
笑い出した。
尊大に振る舞ってはいるが、この兄は王としてあるべき本質は理解している。
そして絶対的に持ち上げられているようで、それには安心してなどいないことも。
ーーヤロスラフのときもだったが、人を見抜く目はまだまだだなと、サーシャは思った。
「気に食わないがなかなかのものだな、我が妹よ」
「お兄様こそ」
「なんだと?生意気な」
そう言いながら、ヴィクトルの顔は笑っている。
「……アレクサンドラ。母上は……なぜ、出陣なさったのだ?」
笑顔をやめ、ヴィクトルが尋ねてきた。
そういえば、まだ父王にしか話していなかった。
サーシャは、成人の儀に行く途中で現場にはおらず、イーゴリに聞いたことだと前置きして、母の最後の行動を話した。
ヴィクトルは窓の外を見ながら聞いていた。
サーシャの話が終わっても、黙ったままだった。
サーシャも何も言わなかった。
だが目を伏せながらもそっとヴィクトルの様子を伺うーー
肩が震えていた。
サーシャは兄の側に寄り、腕をとった。
「……お兄様。お辛かったのでしょう?」
「……っ……よせ」
ヴィクトルの腕が少しだけ、抵抗する。
片方の腕を窓にあて、そこに顔を押し付けている、
だがサーシャには分かっている、ヴィクトルが泣いていることを。
「……お母さまのために……泣いてください。
私も泣きながら旅をしてきました。
昨日、ここに着いて、お母さまの肖像画を見て、また泣きました……
ナターシャも、イーゴリも……そうでした……
昨日お一人でしか、泣けなかったでしょう?
私がいますから……
もう我慢などしないで、泣いてください」
サーシャはヴィクトルの腕を、胸に抱き締めた。
「……っく……母上……」
サーシャはヴィクトルの肩に、顔を寄せた。
* * *
サーシャはヴィクトルの私室に案内された。
立派な書斎に、王の私室と同様のソファーや家具。
書斎についていると、ヴィクトルは実に立派にみえ、王の貫禄さえ感じられる。
もう旋律の教授は終えている、部屋にきて早速旋律を試し、
ヴィクトルはあっという間に習得してしまった。
しかも、かなりの量まで旋律を紡ぐことができる、これならばかなり希望が持てる。
ヴィクトルは本音で話してくれている。
父王に対抗するように振る舞っていること、
それでいて実際は父王の方針に沿うように持っていっていること、
サーシャには家臣の手前、挑発的な態度を取ったが、剣を交えたとしても引き分けに持ち込む予定であったこと、
自分を持ち上げる家臣は信用していないこと、など……
「……母上もそうだったのではないかな。
あえて、その3将軍を御自ら連れ出したのかもしれん」
サーシャは考え込んだ。
「母上の強さは確かにすごかった。
我が国に親交でいらしたとき、模範試合もしてくださったのだ、国の連中など歯牙にもかけぬ強さだったのだ。
父上との試合は圧巻だったな、神々の血をひくとはこういうことかと……
俺にもその血が続いていると思うと、不覚にも震えが止まらなかったのを覚えている。
……その母上の国が滅ぶなどと……
この世界には何かが起こっているとしか考えられん。
俺だけが特に力が使えるのも、そういうことかと思っていてな。
だがこの力では何かが足りんということなのだ、
現に俺は黒いものの発生を止められていないのだからな、それはわかっている」
ヴィクトルはサーシャを見つめた。
「お前にも、特別な力があるんだろ?
でなきゃいくらイーゴリと近衛隊長がいても……ここまで来るには無理がある。
お前は出涸らしだと言っていたが……それにしちゃ貫禄があるぞ?」
兄は、黒いものを取り込んだことを信じるだろうか?
光の御子とか言われているが、黒いものを取り込んだ自分を、認めるだろうか。
「私は……ほんとに出涸らしなんだよ。
力はない。
イーゴリやナターシャがいなきゃ、何もできないよ。
あるとすれば、ハッタリと指揮の才能かな」
「ハッタリかよ」
「そうじゃん?私はイーゴリにもナターシャにも敵わないよ。
お兄様に喧嘩売られたとき、勝てるなんて思ってなんかなかったよ、
でもまぁ、ほんとに勝負になったら、なんとかするつもりだったけどね?」
「それだよ、お前の読めないところは。そう言うやつが一番油断ならないんだ。
そういうのを特別な力って言うんだぜ」
ヴィクトルは少し間を置きーー
「お前に腕を抱かれたとき、感じたんだ……
とても深い、何か……そう、それこそ特別な力……
いや力ではないな。深く深く包み込む、まるで……母の胎内とでも言おうか……
……確かに俺とは正反対だ。
俺は力を膨大に出せる。
だがお前は……力こそ出さないが、膨大に受け止め包むことができる……違うか?」
「……違わない」
サーシャもヴィクトルを見据えて答えた。
兄は、自分の至らなかった考えにまで進んでいる。
成功が確実に見えない状態で手を打つのは危険だとイーゴリから耳にタコができるほど教わっているが、今はーー
「私が無事だったのは、黒いものを取り込めたから。
あれは荒れ狂う感情の塊。
私だけがそう感じることができるらしい。
お兄様が光の御子だとしたら……私は闇の御子、とか?
どの辺が御子なのかさっぱりわかんないけど、
そう考えるといろいろとしっくり来る気がする」
兄に、黒いものを取り込んだことを、話した。
ヴィクトルは、表情を変えることなく。
じっと、サーシャの話に耳を傾けている。
「でもコシチェイってのは知らなかった。
それと、私の感じる闇は……悪じゃない。
暖かく包む、優しい闇。
……私は、この城下町の、見捨てられたと思ってる人たちの恨みを……
受け止めてきた。
お兄様、あなたの光は、強制的に浄化するとお父さまが言っていたけど、
あれは一時的に黒いものをその場から掃討するもの。
そのものは、消えないんだ。
どこかへ押し込められて、いつか反撃してくる……しかも、前より力を増して。
今度こそ、吹き飛ばすんじゃなく、受け止めないと、この城は飲み込まれる」
ヴィクトルは厳しい顔になり、目線を下に向けた。
サーシャは油断なく、兄の様子を伺う。
ややあって、ヴィクトルは顔を上げて言った。
「お前、出涸らしって言うの、やめろよな」
意外な一言だった。
「それってな、力がないんじゃねぇよ。
確かに普通に言う力はないんだろうが、お前のできることって、とんでもねぇぞ?
それこそ、俺が光の神の何とかって言われるのと真逆でさ。
光と闇ならば、
相反するとも言えるけど……」
「「補い合う」」
また、サーシャとヴィクトルの声が重なった。
またかよ、とヴィクトルは苦笑してソファーにもたれかかった。
「俺たち、世界獲れるんじゃね?」
「だな」
また、二人とも笑い出した。
「ヴィーシャって呼べよ。……サーシャ」
サーシャは兄の顔を見た、
腹を割って話したせいもあるのか、昨日とは随分違って見える。
穏やかで落ち着いていた。
「うらやましいな、お前をサーシャと呼ぶ部下がいるとは」
ナターシャのことか?
「俺は誰も信用せずにきたんだ……信用するなと祖父に言われて育ったんだ。
部下も、国民のことも……
そのうち王妃を迎えねばならなくなるだろうが、きっと王妃のことも信用できないんだろうと思ってた、祖父のようにな……
サーシャ、お前は不思議な奴だな、そんな俺の心の中に入ってくるとは」
「私は信用しなきゃやってこれなかったんだよ。
仮にイーゴリが私を裏切ったりしたら、もうそこで私は終わりだ。
あの人には、私の全てを預けているようなもんだからな。
裏切られたらもう絶望しかないな、そしたら潔く黒いものに飲み込まれてやる」
「フン、確かに潔い、大したものだ。
しかしイーゴリもすごいな、そこまで頼られているとは」
「だいぶ当たってきたけどね……」
「この国では考えられんな」
「だろうね」
「だがそれは、お前がイーゴリを信頼している証だろ?
うちに、そんな信頼感が見えることは、ほぼない」
ヴィクトルはため息をつく。
「ならこれから始めるだけだろ」
「そう……だな、祖父の遺産は……終わりにすべきときなのかもしれないな。
勇士イヴァンは女神ヴァシリーサの抱擁により力を発揮する。
お前がここにいるということは、そういうことかもしれん。今なら父上のおっしゃることが現実として考えられる。
……本当に、ヴァシリーサに助けられたのだな、我々は……」
「戦いはこれからだよ、ヴィーシャ」
「わかっている。だがお前がいれば大丈夫だと思えるんだ。
……今までは一人で戦っていた。お前の言った通り……軍の奴らは俺に全てを任せている。
俺に力があったからそうせざるを得ないのだが、果たしてお前の部下のように、俺を庇って黒いものに飲み込まれることができる奴がいるかどうか。
……惨めなものだな、信頼し合っていないというのは」
「私がいる。受け止めてやるよ」
「随分と大口叩くんだな」
「いや、ハッタリだから」
「なんだよそれ」
二人は笑い合った。
「サーシャ、手合わせでもどうだ?」
「私じゃ話にならないだろ」
「そうじゃない。お前の戦い方を知っておきたい。
これからの相手は黒いものだけとは限らないからな」
「相手しよう。でもほんとに期待しないでよ?」
「そんな心配はいらん。
他の連中に見られる必要はない。……屋上にでも行くか」
ヴィクトルは剣をとり、サーシャを招いた。




