表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヴァシリーサの指輪  作者: タバチナ
第二章 旅の始まり
23/201

23.母の面影

婚外恋愛の内容あり。



「顔を上げてくだされ、ヤーコフ殿。

ナターシャのこと、立派に育て上げてくださり、お礼申し上げますぞ」

イーゴリは膝をつき、父親に優しく話しかけた。


「坊っちゃま……いえ、イーゴリ様……ナターシャを導き育てて下さったと聞き及んでおります。

私の非にもかかわらず……ナターシャを大事にして下さったそうで……なんとお礼を申し上げてよいか」


「全ては我が母の不徳の致したところ。貴方に非はありませぬ。母に代わって謝罪致す」


「滅相もござりませぬ、私さえいなければ……ご主人様にも奥様にもご迷惑をおかけすることはなかったのでございます。

私が己の誘惑に負けたせいで……

ナターシャを立派に育てあげることを贖罪と考え、今日まで生きながらえさせていただいておるのです」


「……もうよいでしょう。ナターシャは立派に姫さまの近衛を務めております。

貴方にも妻子がおられる。もう我が家のことからは自由になってくだされ。奥方と娘御のためにお過ごしなされよ」


「イーゴリ様……ありがたきお言葉にございます。

ですがどうか、お母上様をお恨みくださいますな、私の非でございますゆえ」


「……何を申される?」


「イーゴリ様はあのとき、まだ10歳にもなられぬ幼子でいらっしゃったはずです。

ですから、ご主人様のおっしゃることを信じられているかと存じます。

ですが私も娘を育て、家庭を持ち、年を重ね……あの時のお母上様の苦しみが、今になってわかるのです……

お母上様は、ご主人様に愛されたかったのでございます」


イーゴリがいつになく険しい顔をしている。

だが、父親ーーヤーコフの言うことに口を挟む様子はない。


ナターリヤは押し黙っている。

母親が、お茶の準備をして参ります、とその場を立った。

ここでは何ですから、と、ヤーコフは部屋にイーゴリ達を招き入れた。


* * *


イーゴリの父は、家柄や地位こそ低かったものの、ヤーコフ曰く大変立派な人物であった。

息子イーゴリの教育にも熱心で、とにかく真面目に城の文官として勤めていた。

妻にも優しかったが、従順で貞淑、清楚であることーー修道女のようなーーを望んでおり、

一方家柄のある貴族の家で育った妻は、優雅に美しく過ごし、愛されることを望んでいたのである。


妻の振る舞いを、イーゴリの父は時に厳しく叱責した。

そして息子イーゴリも、父に直接教育を受けていたことから、父の味方だったのである。


奥様があまりにもお可哀想で、つい、お声をかけたのです、とヤーコフは語った。


妻の心の隙間に入り込んでしまったヤーコフが、親しくなるのに時間はかからなかった。

妻が身ごもってしまいーー主人の子とごまかそうにも、主人と関係に至れなかったーー、お腹が目立つ頃、ヤーコフと妻は行く当てもないまま駆け落ちを目論んだ。

世間知らずの貴族の奥方と二十歳前後の年端もいかない若造では、成功するはずもなく、あっけなく見つかって主人の館に連れ戻されたのである。


ヤーコフは出産まで牢に入れられ、子が生まれると、子とともに故郷であるこの村に帰された。

子をお国の役に立つ者に育て上げてみせよ、と主人の命を受けて。


ナターリヤが6歳のとき、ヤーコフは元主人の命を守り、娘を王立学校へ入れるために王都まで連れて来た。

まだ今の妻とは結婚していなかったヤーコフは、ナターリヤの母が元気でいるかだけ確認しようと思ったのだが、

彼女の行方は既に分からなくなっていた。


風の噂で、どこかの感化院に追放されたらしいということだけ、耳にした。


…………

…………


「……そんな……それって……誰も悪くないじゃない」

ナターリヤが青ざめていた。

「……大将……お母様に全て非があるとおっしゃいましたね?

今の話を聞いてもまだそうお思いですか?」

ナターリヤは、イーゴリを睨みつけた。


「……母が年端もいかぬ真面目な若者を誘惑したんだ。母はそういう女だった」

「子どもだった貴方に何が分かるんですか!?」

ナターリヤが激昂して立ち上がる。


「ナターシャ、やめなさい」

ヤーコフがナターリヤをとどめ、座らせた。


「やめません。強いて言うなら、全員悪かったんです。

大将のお父様は、お母様の求めていることを汲まなかった。

お母様は、止むに止まれぬ形でお父様を裏切ってしまった。

私の父は、お母様の心に入り込んでしまった、そういうことでしょう?

お母様だけが悪くなんて、ないはずです!

私も一応女ですから、お母様の寂しさが分かりますよ、やり方はよくなかったけれど、愛されることを求めて何が悪いんですか!!

……私のお母様です。そんなに悪く言わないでよ……」


感情が振り切れたナターリヤの頬に涙が落ち、

ナターリヤは腕で顔を擦りながら、尚もイーゴリを睨みつけた。


「お前は母のことを知らん。

俺は……あの女によくしてもらったことなんかない」


イーゴリが、抑えに抑えた声で吐き出すように言った。


「機嫌の悪い顔しか覚えていない。話しかけることもままならなかった……

我が子を放っておいて、自分が寂しいとは何様だ?

……だから女ってやつは信用できないんだ」


感情を滅多に出さないイーゴリには珍しく、声に怒りがこもっている。

答えたのは、ヤーコフだった。


「……イーゴリ様。お怒りはごもっともでございます。

確かにお母上様は……母であるよりも、女でありたいと思っていらっしゃる方でした。

……ですがお母上様に限らず、子を産んだからといって完璧に母になれる者ばかりではございません。それを言ってしまいますと、父となった男のどれだけが父親の役割を果たせておるでしょうか?」


イーゴリは顔をしかめて黙っている。


「お母上様は……信じていただけないかもしれませんが、貴方様を気にかけておいででした。

お父上様と同様に大変真面目に育たれていた貴方様と、どのように関わったらよいか、わからなかっただけなのです。

ですが、貴方様が立派に育ってほしい、でもそれよりも、優しいお人に育ってほしいと、常日頃おっしゃっておいででした。

……お母上様のなされたことと矛盾しているとお思いかもしれませんが、

確かに、貴方様を思われる一面もあったのでございます……


お母上様をすぐに許して差しあげろなどと申すつもりは毛頭ございません。

ですが大人になられた今ならば、お母上様のご事情を少しでも汲んでいただけましたら、

お母上様も少しは浮かばれましょう……

こう申し上げることが、私の最後の想いでございます。

これ限りで、私はお母上様……マルガリータ様のことは、一切墓場まで持っていく所存でございます」


ナターリヤは、顔を伏せて、肩を震わせて泣いていた。

ヤーコフは、その背をやさしくさする。


「ナターシャ。一度だけ、お前の本当の母さんの話をしよう。

……母さんは、お前が元気に生まれ、幸せに育つことだけを望んでいたよ。

お前の名前は、母さんがつけたものだ。

イーゴリ様のお父上から聞いたのだ。

母さんは、お前と別れなくてはならないことは分かっていたけれど……お前を腕に抱けるのを、心待ちにしていたよ」


ナターリヤは、声を上げて泣くのをこらえられていなかった。

ヤーコフは改めてイーゴリのまえに平伏する。


「……イーゴリ様、出立前にこのようなことになりましたこと、深くお詫び申し上げます。

アレクサンドラ様。我が罪でお耳を汚しましたこと、どうかお許しくださりませ。

……どうかナターリヤを、よろしくお願い申し上げます」


イーゴリは険しい顔のまま、無言で立ち上がった。


「……一度だけ」


扉の方に歩き出し、止まって呟いた。


「母が、お茶をしようと誘ってきた。

……だが俺は……あのとき母が嫌いだった……拒絶したのを覚えている。

……ヤーコフ、貴方がその隙間を埋めてくれていたのだな。

母のこと……感謝する」


イーゴリは、部屋を出て行った。


* * *


サーシャは、ヤーコフにナターリヤを任せ、外に出た。

村の入り口近くで、イーゴリが切り株に座り込んでいた。


いつもの、頼もしい武人のイーゴリが姿を消している。


サーシャが様子を見ながら近づくと、イーゴリは顔を上げ、立ち上がった。

「……姫さま。お恥ずかしいところをお見せしました」

「いいから。……座りなよ」


珍しくサーシャの前でイーゴリが座る。

……なんと言葉をかけていいのか、わからない。


「ナターシャ、連れていくだろ?」

「……ナターシャが来るならば。かなり私に怒っていましたが」


「……まぁ、あれだ。私のことは、信用できるんだっけ?」

「もちろんでございます」

「ならさ、とりあえず、お母様のことは……置いときなよ。

許せないなら許せないで、今どうしようもないだろ。

私についてくることだけ考えてな。迷うなら、私だけ見てればいい」


ただのハッタリなのだが。

イーゴリがなんだか小さく見えて、偉そうなことを言ってしまった。

私についてきたって何にもならんがなと自分で自分に突っ込む。


「……姫さまには、救われてばかりですな。情けない限りでございます」

ハッタリなのに、真面目に答えられてしまった。


「まー私なら、私のやり方を受け入れる気のない男の元なんて出ていくけど。

武闘派王女として育ったからこそ言えることなんだろうな。

……貴方の母上は、一人で生きるすべを持たれていなかったんだ。

置かれた状況から自力ではどうすることもできなかった。

あの男に愛されて、ひと時でも幸せだったろうよ、ナターシャも言ってたが、気持ちだけはわかる。

別に貴方に理解しろなんて言わないけどな、女心ってやつだよ」


「姫さまにも女心がおありでしたか?」

「イーゴリ、今なんつった?冗談か?本気か?」

「冗談ですよ」


ずっと険しかったイーゴリの顔に、わずかに笑みが浮かんでいた。

サーシャもつられて、微笑んだ。


「女心がなんですって?」


声に振り返ると、ナターリヤがこちらに来ていた。

「大将ったら、ほんっとに無骨者なんだから!妹を泣かせて何とも思わないんですか?」

「ナ、ナターシャ……その、すまなかった。

今姫さまにもお叱りを受けていたところだ」

「まぁ、お母様のことは今は置いといてあげます、

夕方になっちゃいますからとりあえず出発しましょう。

で、大将、どうせ貴方のことだから、道中何も喋らずにいたんでしょ?姫さまに気の利いたお言葉一つかけられないなんて、私が女心の何たるやをキッチリ教えて差し上げます!」

「お前に女心があるのか?初耳だが。

俺は姫さまのことだけわかっていればいいんだ、女心などどうでもいい」

「だからその辺が鈍感にも程があるんです!

女心は一枚岩じゃないんですから、そんなことじゃ姫さまのお心なんてわかりませんから」

「お前、俺が兄妹だとわかってから、ますます遠慮がなくなってないか……?」


何やら言い争う兄妹の向こうに、ヤーコフ、ナターリヤの母、妹が頭を下げるのが見えた。

村の者も数人、同様に見送ってくれている。


サーシャは手を振って応え、村を後にした。


ナターシャが 仲間に加わった!

次回、第二章ラストです。小話です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ