19.器の大きさ
雨上がりの、まだ湿った空気のにおいがする。
サーシャとイーゴリは、ヤロスラフの好意で旅の準備を十分に整えさせてもらった。
防御力の高い旅用の服、持ち物を保管できる石のついたベルト、野宿に必要な道具一式、等々……
さすがはこの国随一の領土を持つ公家である、何でも揃うし、至れり尽くせりであった。
ついて行きたい気持ちを抑えて、ヤロスラフは代わりにと書物をくれた。
抱擁の旋律が記されている。
習得は簡単ではないが、使えれば、サーシャだけが危険を冒して黒いものに立ち向かうこともない。
「離れていても、殿下を少しでもお守りできれば」
ヤロスラフはどことなく照れたように言った。
「殿下、閣下、今一度、お礼を述べさせてください。
戦う意志を下さったのは、お二方です。
同時に、公家の当主となる覚悟も持てたように思います、全て殿下と閣下が私を導いてくださったからこそで、感謝してもし切れません……
私はこの地を守り、殿下が国を復興なさる折には、何をおいても馳せ参じます」
初めてあった時とは見違えるような、頼もしい新当主ヤロスラフの表情である。
「わしからも、深く御礼申し上げます。どうあっても父親に反抗できなかったこの子が、あそこまで戦えるとは、まさに女神ヴァシリーサのお力……
あの黒いものを退治したら、妻の後を追うつもりじゃったが……この子を一人前の領主にする仕事がまだ残っております、そうもいかなくなりましたわい」
「な、なんてことを、お祖父様!」
「それに、殿下の即位も拝見せねばなりませんからな。閣下……いや、イーゴリよ、頼んだぞ」
「ボリスラフ殿。全身全霊をかけて姫さまはお守りします。即位のときにまたお会いいたそう」
ボリスラフは満足そうに頷いた。
「これから、どちらへ?」
「父の国へ向けていく。何か聞いているか?」
「……彼の国も襲われたらしいと噂がございます。くれぐれも、お気をつけて」
「黒いものはまだどこに出てくるかわからん。うちの城の方はあれに覆い尽くされているからな。こっちでも気をつけろよ」
「はい、殿下。……あの」
「なんだ?」
「……いえ、何でもありません。……ご武運をお祈りしております」
…………
…………
サーシャとイーゴリの姿が見えなくなっても、ヤロスラフは二人が去っていった方を見つめていた。
「スラヴシュカ、いつまでそこにおる」
ボリスラフが孫の背に声をかける。ヤロスラフを家族ーーといってもボリスラフとレーナ、そしてヤロスラフの亡き母のみーーが呼ぶときの呼称である。
「お前、殿下に何を申し上げようとした?」
ヤロスラフはやっと振り返って、城の方へ戻っていく。
「……何でもありません」
ボリスラフはため息をついた。
「お前……あの父親みてぇなことは言いたかねぇが……
さすがに、無理じゃぞ」
「……」
「惚れてんだろう?王女さんに」
ヤロスラフは立ち止まった。
「……だから、何も言ってないでしょう?お祖父様」
「……見ただろ?あの黒いもんを身に取り憑かせて、受け入れることのできるお人だ。
ヴァシリーサの末裔ならではの力かもしれんが……
強い攻撃や強い癒しの力、そういう相手に作用を及ぼすのと、真逆のことだ。
器の大きさが、尋常じゃねぇ。
……それよりも深い器を持つ者じゃなきゃ……王女さんをまるごと受け入れることができる者じゃなきゃ、あのお方のお相手は務まらねぇ」
「……わかってます。そんなんじゃ……ありませんから。
僕はただ……殿下に受け入れてもらっただけなんです。父の影に怯える僕を。
赤ん坊のように、自力で立てなかった僕を、一人で歩けるようにしてくださったんです。
だから生涯かけて、ご恩をお返しするだけです」
ヤロスラフはそのまま、城へ入っていった。
ボリスラフはその背中を見て、首を振りつつ、笑みを浮かべていた。
* * *
予定外に日にちが過ぎてしまったが、父の国はあと数日というところだ。
ヤロスラフにもらった地図には、国境近くに宿場町と、すぐ近くに小さな村が記されている。
この辺りが無事かどうかわからないが、ひとまずここを目指して行くことにした。1日ちょっとあれば着くだろう。
ヤロスラフは立派な馬を用意してくれた。
旅はだいぶ楽になるだろう。
…………
…………
馬を軽く走らせたり、歩かせたりして、少し経った頃。
「姫さま。今回のことですが」
無言だったイーゴリが、唐突に口を開いた。
イーゴリがこう前置きするときは、高い確率で説教になる。
「正体の分からぬ、確実な対処法が分からぬものにあのように向かうのは、非常に危険な賭けです。
結果がよかったから、で済んでいますが、もし思っていた通りにいかなかったら、どうなっていたか。
何度もお教えしているはずです」
黒いものに身一つで対峙して、黒い力を受けたときのことだ。
イーゴリのいうことは尤もで、反論の余地はない。だが、
「あれに関してはさ……あれ以外に方法がなくない?結界で閉じ込めはできるけど、攻撃は防戦にしかならないし、ヤロスラフの術を上回って黒いものが出てきたんだし。
前回取り込めてるから、勝機はあったでしょ」
「前回と同様にいかなかったら、どうするおつもりですか?
取り込めずにそのまま飲み込まれてしまったら?
それは油断というものです。
それに……姫さまはあの黒いものを取り込んできていらっしゃいますが……
それによって、後になって姫さまに悪い影響が出ないとも限りますまい。事は慎重に運ばねば……半分程度の勝機では、負けるとお心得ください」
「うーん……」
サーシャは考えこむ。
というか、わかっている感覚があるのだが……
それは、
「なんかさ……私自身が、あの黒いものを欲してる感じがあるんだよね。
思い当たる理由は何もないけど……」
「欲している、とは……
あの黒い力を浴びたとき、どんな状態なのですか」
「そうな……
感情を、全身に感じてる、かな。
負の感情がほとんどみたい。
そういう感情だから、感じるのはしんどいけど、
今回は、その感情たちが”助けて”って思ってた」
「……」
「うん、そりゃ信じられないでしょうよ」
「いえ、そういうわけでは。
私も、この目で見たのですから、黒いものが姫さまに吸い込まれ、黒い……何というか、光の粒が姫さまから出ていくのを。
何か、姫さまの中で変換などされているのでしょうか?」
「浄化、みたいなものかな。
私の中で浄化されてんのかな?
泣いてすっきりした後、って感じ。あの後一日、頭が痛かったけど。
泣いた後ってそんな感じじゃん、溜まった感情が浄化される」
イーゴリはため息をついた。
「……これからはあの旋律がありますから、少しでも助けになりましょう。
ですからどうか、身を呈するようなことはおやめください。……姫さまが攻撃を受けるお姿を、我々が平気で見ていられるとでもお思いですか?」
「そう言われてもな」
正直、ヤロスラフは高等魔術まで使える力の持ち主だから、あそこまで黒いものに太刀打ちできたのだが。
魔法は一般並のイーゴリと、出涸らしの自分では、旋律の力を使ってもそこまで威力が出るわけがないのである。
「この前のは、まともに受けるだけだったけど、今回は前より冷静だったんだよ。
いろんな感情たちがあって……お祖母様の感情も残ってた」
サーシャは、ボリスラフの肉体が残った理由を説明した。
「自惚れが危険なのは言わずもがなだけど、試していかないと、道は開けないのもわかるだろ?
私に可能性があるのなら、私がしないと。
今までの戦いとは、種類が違うんだよ。
……だからイーゴリ、貴方にサポートを頼みたい」
「……姫さまも、なかなか頑固でいらっしゃいますな」
「貴方の直伝だ」
「おっしゃいますな……
よろしいでしょう、姫さまのお望みのために尽くすのが私の役目、これ以上は申しませぬ」
……何とも、懐の深い男だ。
「それと……もしも、の話なんだけど」
サーシャの声は少し細くなる。
「もしも……私が、黒いものの主みたいな存在になったら、どうする?」
イーゴリは少しだけサーシャを振り返ると、再び前を向いた。
「……ご無礼を承知で申し上げます。
……もし自我を乗っ取られておられるようならば……なんとか手立ては見つけますが、最悪、もしもどうにもならなくなったら、刺し違えることも辞さない覚悟でございます……
……もし姫さまがご自身の信念に基づいて行動されているのならば……たとえそれが悪であろうとも、私は姫さまに従います」
サーシャはイーゴリの言葉を噛み締めていた。
……ここまで受け入れるって、すごいな。
イーゴリは、少しでもできないと思えば、決してするとは言わない男である。
もはや感心するしかないくらいだ。
どこまで、懐の深い人なんだろう?
いつでも、そうだった。
できない私でも、受け入れてくれていた。
思えば5年くらい前、どうにも苛立っていた時期があって、イーゴリに八つ当たりしたこともあったっけ。厄介な年代の子どものすることだったとはいえ……
それも……全部、受け止めてくれた。
「ありがとう。イーゴリ」
それ以外に、言葉が見つからなかった。
「姫さまの御心のままに」
イーゴリらしい、生真面目な返事であった。
本章あと数話続きます。