175.閉じ込められた女
宰相補佐エメリヤンの部屋には、誰も見当たらなかった。
執務机には書類が無造作に置かれており、本棚には魔術や神話のようなもの、それに政治経済についてなど様々な本が並んでいる。
声がしたのは、どこからだったのだろう……
ヴィクトルが、部屋の壁に手を当てて、撫でるように探っている。
「……これか」
気になった壁のところへ両手をかざし、壁に埋め込まれているらしき術を解除する。
術が消えて壁に空間が現れ、中から出てきたのは。
「……アネータ殿!
アネータ殿、どうなさったのです!?」
ヴィーカが驚愕する。
目隠し、猿ぐつわをされ、後ろ手に縛られ脚も縛られた侍女の服を着た女が、部屋に倒れ込んだのだった。
…………
…………
アネータというこの侍女が、レギーナ付きの侍女だとヴィーカが言った。
なぜ、レギーナの婚約者と名乗る男の部屋、しかも壁の中に、こんな姿で閉じ込められていたのか。
息は、ある。
全ての拘束を急いで解くも、その目は虚ろで、もはや正気を保てていないように見えた。
「アネータ殿。分かりますか」
ヴィーカが問いかけるも、アネータはヴィーカを認識しておらず、返事をしない。
よく見れば服は胸元も乱れ、スカート部分はしわが寄っている。
エメリヤンに、乱暴をされでもしたのだろうか。
「……確かに、男が触れた形跡がある」
ヴィクトルが、声を落として言った。
「それから一日も経っていないだろう」
「……レギーナ王の婚約者とか言っときながら、強姦したってのか?
クソにもほどがあるじゃねーか」
ナターリヤが怒りを露わにした。
「レギーナが手を出されなかったのが奇跡的なほどだ……
他人をどれだけ傷つけようが殺そうが平気な奴だ、おそらく」
サーシャは、ふと何か呼ばれた気がして、アネータの側に寄った。
「……?」
何か、アネータから妙な気配を感じる。
「……みんな、ちょっと離れたほうがいいかも」
「念の為、結界を……」
ヴィクトルがアネータを結界で覆うそのとき、突然サーシャの腕に、強烈な痛みが走った。
「ーー姫さまっ!」
アネータから伸びた黒い針のようなものが、サーシャの腕に突き刺さったのだ。
血が流れ落ちてくる。
ヴィクトルが回復魔法をかけ、イーゴリが旋律を針に巻き付ける。
だが針には旋律が効かず、消える様子がない。
焦ったイーゴリが引き抜こうとしたのだがーー
「だめ、この針に触ったらだめ!」
サーシャは叫んで拒否する。
普通の黒いものと様子が違うから、イーゴリに取り憑いてほしくない。
その場に倒れているアネータは、意識を失ったのか、命を失っているのかは分からない。
いつものように黒いものの宿主が取り込まれなかったのは、初めてだ。
この黒い針はなんなのか。
ズキズキとする痛みとともに、何かぞわっと気色の悪いものが、体を巡った。
全身に鳥肌がたち、思わず身を抱えた。
目の前が黒く霞んできて、壁にもたれかかって座り込んだ、
みんなの声が聞こえるけど、私に触っちゃだめ。
「だめ、近づかないで、きっとすぐ収まるから……」
必死にそれだけ言って、サーシャはその場に倒れ込んだ。
* * *
暗い空間に映し出されたのはアネータと、あの男ーー宰相補佐エメリヤンだ。
これは、アネータの記憶か。
エメリヤンが彼女に近づいて、何が行われているのかーー
断片的な情報しかないが、わかってきてしまった。
この男……アネータと、何度も関係を持ってる。
しかも、アネータは別に乱暴されていたのではないのを、感じた。
むしろエメリヤンを喜んで受け入れているのだ。
どういうことだ。
アネータの声のようなものが、辺りに響く。
『エメリヤン様が私を見てくださるのなら。
私はレギーナ様を裏切ってでも……』
『エメリヤン様に、渾身の一報を差し上げることができたわ。レギーナ様の不貞と純潔の喪失……』
『エメリヤン様は、事実上の国王になられるためにレギーナ様と結婚されるけれど、本当に愛しているのは私だと言ってくださったわ。なんでもいい、お側にいられるのなら』
レギーナの軟禁に手を貸していたのは、この侍女……?
『激しく抱いて苦しめたと謝ってくださった。私は大丈夫なのに。あの方はどこまでも優しいわ。楽になれると術をかけてくださって、それからーー』
サーシャの目の前には、アネータが向き合っていた。
『ここは、どこ。貴女は、誰?』
「私はアレクサンドラ。黒い神となる資格を持つ者。
初めまして、アネータ嬢。
貴女の意識は、この黒いものに取り込まれてしまったようです。
あの男の持つ、変質した黒いものだ。
貴女を用済みと判断したんだろう」
『なぜ。どうして。あの人が、そんなことをするわけがない』
「あの男に愛されるために、レギーナ王の情報を渡しましたね。
惚れたものは仕方がないので、私は別に咎めませんが。
ただ、この黒いものは、私に返してほしいのです。私が元の形に還す者だから」
『嫌よ。あの人からもらった、大切な力だもの』
「……そう言うと、予想はしてましたよ。
楽になるとかけた術は、彼の持つ黒いものを、貴女の中へ宿らせ、貴女の意識を取り込むこと。
確かに、楽でしょうね、いや貴女には、幸せでさえあるかな、
黒いものの中にいれば、ずっと彼を感じることができるみたいだから。
それを奪おうとは思いません。
でも、彼にはもう、会わなくていいんですか?」
『嫌、会いたいに決まってる』
「私が連れていってあげましょうか?
今のままでは、会えないでしょう?」
『会わせて、くれるの?』
「貴女が私のもとに来てくれるならね」
『連れて行って。ここへ隠れてと言われていたけれど、ずっと暗くて狭くて、あの人を待っていたの』
サーシャは、片手を前に差し出した。
アネータの意識が、その手を取るようにして。
サーシャに、流れ込む。
「アネータ殿。これで、彼の居場所が分かりました。
今から、連れていってあげますね。
貴女はただ、彼を思っていればいいんです」
辺りの黒い空間が次第に消えていき、視界がぼやけた。
眠気に襲われ、目を閉じて、意識を手放した。
* * *
「……サーシャ」
ナターリヤの声がする。
夢から醒めた時のように、目を開けた。
「サーシャ!大丈夫か?」
「ん……針は?」
「見当たらない。傷は治したよ。痛みはないか?」
「うん……」
ふと気がつくと、一人で倒れ込んだはずだったが、今はイーゴリの腕の中だった。
意識を失う前、体がぞわぞわしていた感じが、イーゴリの温かさで引いていく気がする。
「私、どうなってたの?黒い針はどうなった?」
「針を中心に黒いものが広がって、サーシャを覆っちゃったんだ。旋律も効かなかった。
でもいつもほど長時間じゃない、数分で、サーシャに染み込むみたいに消えていったよ、針も一緒に」
「そっか。
……この侍女についてわかったこと、話すよ。
この肉体も、黒と白に分けていくから、それをしながら」
サーシャはイーゴリから離れ、アネータの体ーー意識が取り込まれて、抜け殻になり生命活動を終えていたーーの前に来る。
以前、殉職したユーリに施したように、サーシャはアネータに手をかざした。
たちまちサーシャの体から黒い光が立ち上り、次第にアネータの肉体は、端から消えていく。
アネータはエメリヤンに恋し、彼の気を惹くためにレギーナとフェオフォン王との逢瀬ーーアネータだけが知り得た情報ーーを彼に知らせたこと。
彼が国王代理の権限を得るためにレギーナと結婚すると決めても、本当に愛しているのは自分だと囁かれ、それを信じていた。
黒いものの感覚からすると、レギーナの王配の立場を手に入れようとエメリヤンは探り、アネータに目をつけたようだった。アネータを口説いて自分の言うことを聞くようにさせ、肉欲までもアネータで発散していたようだ。
レギーナが脱出した今、アネータの存在は不要になったのだろう。
アネータに、変異した黒いものを植え付け、証拠隠滅のため壁の中に閉じ込めた。
アネータの精神は黒いものに取り込まれ、精神と肉体は乖離し、じわじわと黒いものの中で精神は飲み込まれて消える予定にされていて、
そして肉体の生も消えたとき、植わった黒いものが侵食し取り込むようになっていたのだ。
サーシャを突き刺した黒い針は、エメリヤンによって変質させられた黒いもの。
変質しているが故に、サーシャに取り込まれることに反発した。
今までの黒いもののように、大人しく取り込まれてはくれないようだ。
サーシャがしたのは、黒いものと同化していたアネータの思いに寄り添ったこと。
正確には、寄り添うふりをしたこと。
嘘はついていない。
黒いものは返さなくていいと言い、エメリヤンに会いたいのなら連れて行ってあげると誘い、彼のことだけ考えていればいいと助言しただけだ。
サーシャの思惑は、この黒いものを手にして、エメリヤンの居所を探ること。
その思惑通りにサーシャの元に来た黒いものは、今サーシャの中で、想い人と会えることを期待しながら、ゆっくりと取り込まれているところだ。
もとはエメリヤンの黒いものだから、この黒いものを持つことで、エメリヤンの居所も分かった。
「居場所は神殿だ。
急いだ方がいいね」
「神殿で、奴は何をしようってんだ」
「ジアーナに干渉するかもしれない。外は宰相方の兵が囲んでたっけ。
非常通路に急ごう」
「おう。お前は大丈夫か?」
「人ひとりくらいなら問題ない」
アネータの肉体は、サーシャによって完全に黒と白の要素に分かれ、姿を消した。
サーシャは、手のひらから立ち登る最後の黒い光を見送り、笑みを浮かべる。
この侍女が、なかなかに、美味だと思ったのだ。
味覚とは違うから、美味という表現は妙だけれど。
以前にはなかった感覚だ。オレグの言った次の段階、だからだろうか。
人はこの女の生を憐れむかもしれない、
男のために主君を売る罪を犯し、その極悪な男に翻弄され命まで失ったと。
あるいは責めて軽蔑するだろう。
だが、
いいね。
濃い感情でみなぎってる。
他人がどう思おうと、この女は満たされていて、いい生を全うしたのだ。
しかも、これがヴァシリーサやイヴァンなどの、サーシャに直接降りかからないところで起こったからこそ、美味いのだ。
苦汁を飲まされたレギーナやフョードルにしてみればたまったものではなかっただろうが。
自分のところや肉親のところで起こったら面倒に決まっている。
サーシャにとって全くの他人事だから、こんなふうに感じてしまえるのだ。
もういろいろとヤバいくらい黒いなと一人思いながら、サーシャは皆と部屋を後にした。




