8.辿り着いたは国を分かつ大河
エルメース王国
大陸の東を治める大国。国土の大半が半島にあたるため海岸線が広く、それを守る精強な海軍を擁する海洋国家。現在はリブロン家が王位に就いているが、諸侯が度重なる内部闘争の中で集合を繰り返して勢力を増しており、近頃その王位を脅かしつつある。
イレーナが目を覚ましたのは、パチパチと枯れ枝が爆ぜる音を聞いたからだった。朝露に濡れた頬を拭き、彼女はそっと身を起こす。見れば、メリーは既に身を起こし、焚き火で何かを焼いていた。
「何よ、それ」
「ウサギだよ。寝る前に罠を仕掛けておいたんだ。上手くいってよかった」
メリーは鼻歌交えながら枯れ枝を短剣で削り、細い串を作ると肉を火にくべていく。赤身ばかりで脂は無いが、それでも肉の焼ける匂いは香ばしい。匂いを嗅いだイレーナのお腹が小さく鳴いた。彼女はさっと頬を赤らめ、慌ててお腹を押さえる。メリーはくすりと笑うと、狐色に焼けた肉をイレーナへと差し出した。
「お腹空いたんだね。食べなよ。ウサギはよく捌いてたし、美味しくないってことはないはずさ」
「……お人好しね、貴方も」
イレーナは串を受け取ると、小さな口を開けて肉を頬張る。その時、ほんの少しだけ目元が緩んだ。どうやら口に召したらしい。メリーもにやりと笑うと、イレーナはハッとして口を尖らす。
「何なのよ、いきなりいやらしい顔して」
「別にいやらしくないよ。口に合ったようで良かったと思っただけさ」
「……何だか釈然としないわね」
ぶつぶつ不平を言い募っても、食欲には勝てないらしい。早速イレーナは二本目の串を取って食べ始めた。そんな彼女の様子を眺めながら、メリーはおずおずと尋ねる。
「君は、ラティニア帝国から来たんだよね」
「そうよ。それがどうかしたの?」
三本目の串に手を伸ばしながらイレーナは頷く。相変わらずその声色は冬に吹く風のようだが、空腹が満たされて来たせいか、眉間の谷は少々穏やかになっていた。
「そして、あの器械の騎士は帝国で作られていたものだったんだよね」
イレーナは億劫そうに頷く。どこからどう見ても疎ましげだったが、メリーはそれでも自分の中に湧き上がった疑問や好奇心を蔑ろにはしておけなかった。メリーは食べ終わった串をくるくる弄びながら、こわごわと切り出した。
「昔の帝国で、一体何があったんだい?」
彼女の顔がきっと強張る。串を草むらに突き立てて、イレーナはメリーを睨んだ。
「どうして貴方にそれを話さないとならないわけ?」
「……いや、話したくないならいいんだ。ただ俺が気になっただけだから」
まだまだ気は許してくれないらしい。それを悟ってメリーは肩を落とす。イレーナはふんと鼻を鳴らすと、串を折って焚き火の燃えさしへと放り込む。
「別に私に聞く必要は無いんじゃないの? 帝国がどうなったかくらい、今にも伝わってるでしょうに」
「……それがわからないんだよ。誰にも」
メリーが首を振ると、イレーナは初めて目をぱちくりさせた。気を張るのも忘れるほどに意外だったらしい。
「どうして。あの帝国には、あの帝国の過ぎ越し方を逐一記録してるような物好きがごまんといたわ。それなのに、どうして帝国のことがわからないなんてことになるの」
「跡形もなくなっちゃったからだよ」
メリーは旅嚢から羊皮紙を一巻き取り出す。平たい石の上に開くと、それは粗末な絵だった。二つの同心円を東西南北の四つに切り分けただけの絵である。そこにミミズがのたくったような字が書き添えられていた。イレーナはずいと身を乗り出してそれを眺め、怪訝に顔をしかめる。
「何よこれ」
「地図だけど」
「こんなバカな地図がある? 測量くらいちゃんとしなさいよ」
「俺に言われたって知らないよ。昔の帝国の地図がどれだけのものだったかは知らないけど、今ある地図は大体こんなもんだよ」
「これだけでよくわかったわ。本当に帝国の遺産は受け継がれなかったわけね」
イレーナは憐みの眼差しをメリーへ向けた。メリーは肩を竦め、地図にそっと指を伸ばす。
「まあ君に言って聞かせるくらいならこれでも十分さ。見なよ。ここが俺たちの国、ブリギッド王国」
大陸の南を指差す。そのままメリーは東へと指を伸ばした。
「で、こっちが今から向かうエルメース王国、そこから北に進めば目的地のマグナス諸侯領、ついでに西はホイレーカ帝国さ」
メリーは地図上でぐるりと指を一周させた。イレーナは円の中心を指差す。
「で、ここは?」
「ホロウ海。ここに昔ラティニア帝国の帝都や色々な都市があったって聞いてるよ」
「海?」
「正確には大きな湖だけどね。でも海のように大きくて、ずっと霧がかかってるからまともに航海も出来ない。だから『空虚な(ホロウ)海』って呼ばれてる」
「海ね……」
イレーナはふと力なく呟き、遠い目をして北の彼方を見つめた。帝都があったであろう地平線の彼方を。
「どうしたんだい?」
「別に。昔のことを思い出しただけよ」
さらりと言い捨てると、イレーナは立ち上がってローブの裾を払う。
「もう兎肉は十分。行くんならさっさと行くわよ」
「……そうだね」
何か気にかかることがあったのだろう。メリーも悟ったが、今は聞かないことにしておいた。
腹ごしらえをした二人は街道をさらに北上し、やがて大河の前に辿り着いた。その名はレンヌ河。ブリギッド王国の勢力圏とエルメース王国の勢力圏を分かつ境目である。岸から岸まではあまりに遠く、水底は海のように深い。そのおかげで橋は一つも掛かっていない。イレーナはそんな景色を見つめて溜め息を零した。
「この河も随分と様子が変わったわね。昔は流れは早いけどもう少し狭かったのに。橋も何本か掛かってたわよ」
「ホロウ海が出来た影響なんだろうね。まあ流れは緩やかだから、その気になれば泳いで渡れるよ」
メリーの言葉に、イレーナはぶるりと震えた。
「わざわざずぶ濡れになるなんてごめんよ。渡し船はあるんでしょうね?」
「もちろん。この河の岸辺にある町は、船渡しを商売にしてる人も結構いるんだよ」
「ふうん。町は近いの?」
「この岸辺に沿って歩けばすぐさ」
メリーは上流の方角へ目を向ける。地平線の向こう側で、白い煙が細く立ち上っているのが見えた。見上げた彼は呑気におおと声を上げる。
「何か催し事でもしてるかな」
「催し事ね。別におめでたいことがあるような日にも思えないけど。収穫の時期でもないんだし」
「何にしてもいい機会さ。タダでパンやら分けてくれるかもしれないし。早く行こう」
メリーはさっさと歩き出し、イレーナの方へ振り返る。イレーナは小さく首を振った。
「さもしいというか、なんというか……」
軽い足取りのメリーと、その後をのろのろとついて行くイレーナ。少年が期待を膨らませる姿を、少女は気怠げに眺めていた。
しかし町が近づくにつれ、次第に様子が変わってくる。町の広場から上がっていると見えた白煙は、町全体から立ち昇っていた。家が燃えているのである。それを消し止めようとする人の姿も見えない。メリーはそんな光景を遠目に、はたと足を止めた。
「これって……」
イレーナは既に動き出していた。メリーを追い抜き、岸辺を息も切らさず一直線に駆け抜けると、町の中へと飛び込んでいった。