2.天から少女が降ってくる
メレディス
オスティア伯領出身の見習い錬成士。周囲からはメリーと呼ばれることが多い。生まれて間もなく母を亡くしたため、長らく父と二人で過ごしてきた。気難しい職人肌の父とは違い、彼は陽気で人当たりがよく、好奇心も非常に旺盛である。
明くる朝、今日もメリーは天来の集まる泉を訪れていた。炎の魔法によってあらゆる金属を鋳潰し、見事な武器や農具へと作り変えるのが彼の仕事であったが、特に天来はその素材として優秀なのだ。錆びて朽ちてしまっているが、それはメイルストロムのどんな炉でさえ達成できない純度の鋼鉄で出来ている。メリーが少し手を加えてやれば、どんな兵士も英雄に変える最高の武器へと生まれ変わった。
背負った革袋の口を開くと、早速メリーは目の前に落ちていた槍を拾い上げる。柄に塗り込まれた紫色の塗装は殆ど剥げていないし、穂先も多少刃こぼれしてはいるが、敵を突いて殺すくらいは出来そうだ。メリーは肩を竦めると、穂先を外して革袋の中へ放り込む。
「神様もこんないいものを落とすなんて。もっと物を大切にしないと」
一人冗談めかして呟いていたメリーだったが、泉の側に落ちていたあるものに気付いて、彼は思わず手を止める。彼は首を傾げると、小走りで駆け寄り、そっと拾い上げる。
「歯車?」
彼が拾い上げたのは、ごく小さな歯車であった。それは水車や都市にある時計の歯車よりもずっと小さく、そして複雑に溝が切られていた。こんなものは今まで見たことがない。メリーは眉根を寄せて、泉へと目を向けた。虹色に染まった毒々しい水面に、何かが突き出している。メリーは放り出したばかりの槍の柄を掴み取ると、器用に振ってそれを岸辺まで掻き寄せた。泉の底から露になったものを見て、彼は息を呑む。
それは重装騎士の身に纏う籠手のようにも見えた。しかしその中には大量の歯車や見慣れぬ構造体が詰まっている。肉と骨を、そっくり鉄に入れ替えられてしまったかのようだ。
「機械で出来た、腕……」
ならば足や体もどこかにあるのではないか。そう思ったメリーは、槍を泉の中に突き入れて掻き混ぜる。何か固いものに触れた。メリーが必死に引き寄せようとしたとき、不意に空が唸りを上げた。
「まさか!」
雷は天来の訪れる証。空を見上げると、昨日と同じ雲一つない青空。しかし、すでに斧で扉を叩き割ったような、歪な裂け目が開いていた。それはあまりにも近く、その裂け目に魅入られた少年は、足をその場に縫い付けられたように動けない。
来る。そう思って身構えた時、裂け目から光が溢れ、中からほっそりとした影が滑り出した。その影は滑らかに揺れ、地面に落ちてくる。
メリーの体は自然に動いていた。慌ててその影へ飛びつき、己の腕の中に抱き留める。猫のように丸くなったそれは、彼の腕のうちにすっぽりと収まった。
「……女の、子」
メリーは茫然と呟く。どんな糸より滑らかな金色の髪が、そよ風に吹かれてさらりと揺れた。濡れた睫毛や引き締まった唇が、メリーに艶を感じさせた。ほっそりと整えられた少女の美貌に思わず見入った少年は、身体の平衡を崩し、そのまま地面に倒れ込んでしまった。
「ご、ごめん! 大丈夫かい?」
地面にぐったりと倒れ込んだ少女に慌てて這いより、メリーはその肩に手を掛け尋ねる。しかし、彼女は深く目を閉ざしたまま、目を覚ます気配はない。けれども胸元は僅かに上下している。生きているのは間違いなかった。
「参ったな」
大柄な体格のブリギッド人の中でも、この村に住まう住民は特に屈強として知られてきたが、残念ながらメリーはそうではなかった。目の前の少女は華奢だが、背は高い。少なくともメリーと同じくらいの背丈はある。そんな少女を抱えて歩き回るなんて芸当は出来ない。
「待ってて。今、ローディを呼んで……」
しかし、メリーは足を止めた。普段、力仕事はローディに丸ごと押し付けてきた彼だったが、この時ばかりは躊躇した。毒水の沁み込んだこの土地に獣が近寄ることはないだろう。だがそんな汚れた土地に、白雪のように美しい少女を放って置くのは、とても惨いことのように感じられた。しばらく立ち尽くしていたメリーだったが、彼はようやく決意すると、倒れた少女の脇に手を差し入れて抱え上げ、どうにか彼女を背中に担ぐ。
「重い!」
村の友人をふざけて背負うのとはわけが違う。相手は気を失って、全ての体重をまるっきり自らに被せてくるのだ。メリーの一歩目は早速ふらついた。何とか踏ん張り、村へ向かって一歩また一歩と歩を進めていく。
「一体、何が起きてるんだ……」
人々がパンを焼く煙が村のかまどから高く立ち昇り始めた頃、何とかメリーは少女を背負って村まで戻ってきた。パンが一杯に詰まった籠を両腕に一つずつ抱えて歩いていたローディは、そんな友人の姿に気付いて駆け寄ってくる。
「おーい、メリー! 今日の収穫は……」
明朗快活な笑みを浮かべていたローディだったが、彼が背負っている少女に気付くと、さっと顔色を変える。彼は少女の身なりや横顔を覗き込み、メリーに尋ねる。
「野盗に襲われた、って感じでもなさそうだな。どうしたんだ」
「この子は天来なんだ」
「天来だって!」
ローディは思わず素っ頓狂な声を上げた。
「まさか。人間が空から降ってくるなんて聞いたことねえよ」
「俺だってなかったよ。でもこの目で見たんだ。いきなり空が裂けたと思ったら、中からこの子が飛び出してきた。それでもって眺めても肩を叩いても一向に目を覚まさないから、こうやって村まで連れてきたんだ。とりあえず休ませないと」
「代わるか?」
ローディは側にいた少年少女に抱えていたパンの籠を手渡し、メリーの背中の少女を抱えようとする。しかしメリーは首を振った。
「いいよ。ここまで来たんだ。最後まで俺が運ぶ」
意地を張る彼に、思わずローディは頬を緩めた。
「はあん。メリー、さては一目惚れか。ま、王都の方にもこんな別嬪めったに――」
「そんなんじゃない! 俺は、ただ……」
「ただ?」
ローディはここぞとばかりにメリーをやり込めようとする。メリーは頬を膨らませると、身体に鞭打って歩き始める。
「こっち見るな! 顔がうるさいぞ、ローディ!」
「はあ? 顔がうるさいってどういう意味だよ、メリー!」
面食らったローディは、目を白黒させながら彼の後を追いかけたのであった。
家に帰ったメリーは、どうにか少女を自分のベッドに横たえた。美しい少女が村に連れられてきたという話は矢のように村中を飛び抜けて、子供から大の大人まで、寄ってたかって少女の顔を見ようと窓から覗き込んだり、メリーの家へ押し入ろうとしていた。
「おい、何だってんだ、メリー。こんなことだと仕事にならだろうが」
メリーの父、アロンは煩そうに村人達を仕事場の外へ追いやり、眉をしかめる。メリーは肩を縮めた。
「だって放っておけないじゃないか。いきなり空から女の子が落っこちて来たら」
「女の子が落ちてきた、か。厄介なことにならなきゃいいけどな」
アロンは殊更呆れたように呟く。親子のやり取りを間に立って眺めていたローディは、固く腕組みをしてアロンを見遣る。
「別にいいじゃねえですか、アロンさん。メリーの言う通りですよ」
「それを悪いとは言わん。だがお前らも少しは気を引き締めろ。近頃は何かがおかしいんだ」
「何かがおかしい?」
若い二人が声を揃えると、アロンは口髭を撫でつけながら頷く。
「ああ。お前らは天来が当たり前のもんだと思ってるが、昔はひと月に一度、二度あるかないかの出来事だったんだ。こんな風に、雷が鳴る度に起こるようなもんじゃなかった」
窓辺に立ったアロンは、目の前に立っていた少年達を手で追い払い、空を見上げる。
「お前らが生まれたくらいから、随分とひどくなったんだよ。まあ、この辺の天来は大方あの泉に落ちるから、害を被ることも多くはないが……ブリギッドの西の方じゃ、天来に家や畑を押しつぶされて無くなった村だってある。そんなところに、空が割れて人間が降ってきたんだ」
眉を顰め、彼は二人に振り返った。
「これは前触れだ。災いが起きる」
「災い……」
メリーは唇を噛み、少女に振り返る。睫の濡れた彼女は、まるで声も無く泣いているように見えた。拳を握りしめたメリーは、絞り出すように呟く。
「そんな言い方、無いじゃないか」
精一杯に言ってみる。だが、メリーの中にもまた、不安が芽生えようとしていた。