17.仮面の女は剛腕で大樹をへし折る
東方由来の陶器の仮面。白磁に描かれた女の顔は、不気味でならない。
「いざ、覚悟」
彼女は後頭部に纏め上げた栗色の髪を背中に流しながら、細身の剣を構えて襲い掛かってくる。メリーは咄嗟に結界の術符を取り出し、突き出された切っ先を受け止めた。
「待って。俺達は泥棒なんてしてないよ」
「ならばそこに転がっている者達は何だというのです」
彼女は語気を強めて言い放つ。メリーは男達を見た。鼻血を流してひっくり返っている。一人は白目まで剥いていた。これでは不意打ちを受けたようにしか見えない。腕を縮め、彼女は仮面で覆った顔をぐいとメリーの目の前まで突き出してきた。
「その黒い瞳。あなたはマグナス人でしょう。旅をするためここまでやってきて、路銀に困って目についた者へ襲い掛かった。というところでしょうか」
「残念。俺はこれでもブリギッド人さ。マグナスの血は確かに入ってるけどね。旅に出たばっかりなもんで、まだまだお金には困ってないよ」
メリーは懐からもう一枚術符を取り出すと、小さな火の玉を次々とばら撒いた。女は蒼いドレスの裾を振り回し、素早く後退りして剣を構え直す。針のような切っ先が閃いた。
「ならばなぜこの者達を襲ったのです」
「襲ってない。こいつらが私の事を襲おうとしたから返り討ちにしてやっただけよ。あなただって、その場に出くわしたらきっとなりふり構っていられなかったわ」
イレーナはメリーと入れ替わるように身を乗り出し、仮面の女目掛けて右手を突き出す。閃光と共に荒れ狂う風が女の周りを取り囲み、その脚を封じる。半身に構えたまま黙り込んでいる仮面の女の目の前に、イレーナは金貨銀貨でぱんぱんの財布を突き出した。
「でもって、調べてみたらこんな身なりにはとても似合わない大金を持ってたから、これは盗人だったに違いないと思って、こいつらの仕事の成果を取り上げてやったのよ。このままこいつらに持たせておくのも癪だし」
「取り上げた? あなた達はただの旅人です。この国の官吏ではありません。もし仮にこの者達があなたの言う通りに強盗だったとして、あなたを手籠めにしようとしたとして、それを理由にあなた達がこの者達から何かを取り上げてよいという理屈にはなりません。勝手にモノへ手を付けず、しかるべき形で統治者の下へ突き出すべきなのですよ。何人であっても、その所業を詳らかにし、それから然るべき裁きを与えなければ、国の秩序は成り立ちません」
仮面のせいでくぐもっていたが、それでも女の声は森奥を流れる清水のように美しく響いた。イレーナは片手で財布を弄びながら、風に縛られ身動きの取れない彼女の横顔をじっと窺う。
「あったま固いわねえ。私達二人だけで、大の男四人をどう街まで運べっていうのよ。それに、そうしてやるだけの価値がこいつらにあるとも思えないわ」
イレーナは早口で吐き捨てる。挑発的に振舞う彼女に対して、女は努めて冷静だった。
「ともかく、これは私からの忠告です。財布を戻し、私達に従ってください。これ以上刃を交えるのは本意ではありませんが、あくまで勝手に振舞うつもりならば、貴方達も纏めて捕らえますよ」
「ふうん! 身動き取れないくせに言ってくれるじゃない? どこの誰かもわかんないような奴の言う事を聞くなんてまっぴらごめんよ。あんたの方こそ、国の秩序とやらに私を従わせたいなら、もう少し言葉遣いに気をつけたらどう? 命じるんじゃなくて、丁寧にお願いしなさいよ」
全く動じる様子を見せない女にじりじりして、イレーナは乱暴に毒づいた。女は仮面の奥で翡翠の瞳をきらりと輝かせ、イレーナを真っ直ぐに視線で射貫く。
「挑発して貴方の有利に事を運ぼうとしているのなら、その試みは全く無駄というものです」
女が言うや否や、激しい暴風が枝や藪を巻き込みながら押し寄せた。イレーナが咄嗟に身を庇った瞬間、暴風は仮面の女を取り巻く風の枷を打ち砕いてしまった。メリーが風上へ目を向けると、太い幹の陰に身を隠した青年の姿がちらりと見える。彼もまた陶製の仮面で顔を覆っていた。メリーは深々と溜め息をつく。
「伏兵まで置いてたんですね」
「ええ。無策で仕掛けるほど、私は愚かではありませんよ」
女は頷くと、剣を左手に持ち替え、いきなり右の拳を固める。ドレスに縫い込まれた白百合の刺繍が、いきなり蒼い光を帯びる。
「さて、旅のお嬢様。貴方も相当頑固者のようですが、生憎私も筋金入りの頑固者なのです」
刹那、女はいきなり傍らの大木を拳で殴りつけた。目にも止まらぬ重く鋭い一撃。メリメリと木が軋み、木片が辺りに飛び散る。青空へ向かって真っ直ぐに伸びていた木が、あっという間に倒れてしまった。細身の彼女からは想像もつかない剛腕。メリーは思わず蒼くなってしまった。
「うわ……」
「忠告ではいけないというなら命令します。今すぐ抵抗を止めなさい。今なら悪いようには致しません」
ドレスの裾や袖が燐光を放つ姿は、仰々しい気迫に満ち溢れている。すっかり怖気づいてしまったメリーは、こわごわイレーナの横顔を窺う。
「イレーナ。ここで意地を張っても仕方ないよ。一旦話を聞こう」
「メリー。私を見くびってもらっちゃ困るわね。こんなのこけおどしよ。大したことない。それに、まだこいつらが何者かもわかんないのに、降りるなんて有り得ないわ。正論を弄んで他人を意のままにしようとする奴なんていくらでもいるんだから」
イレーナは指先をゆらりと振って、宙に神聖文字を一つ描く。文字が白い輝きを放った瞬間、乾いた破裂音と共に雷光が一つ閃き、女が突き倒したばかりの丸太を真っ二つに叩き割ってしまった。
「これでおあいこね、仮面のお姫様」
「も、もう滅茶苦茶だ……」
メリーはその場に立ち尽くして茫然とする。仮面の青年も木陰から飛び出してきて、彼女を庇うように魔導書を構える。
「もし彼女を傷つけるようなことがあれば、エルメースは決して君を赦さないだろう」
「知らないわよ。あんた達は名前も名乗ってないし、顔さえ見せてないわ。私と話をしたいなら、せめてその仮面を取りなさいよ。それとも、私達に正体を明かせない理由でもあるの? そうだとしたら、なおさらあんた達の話なんて聞けないわ」
イレーナは背中に魔法陣を浮かべると、指先に光を集めながらじりじりと間合いを詰めていく。きっと寄せられた細い眉、瑠璃のように澄んだ青色の瞳。固く結ばれた瑞々しい唇。仮面の女は、そんなイレーナのしかめっ面をじっと見つめた。やがて深い溜め息をつくと、そっと剣を下ろして鞘へと仕舞う。
「……わかりました。貴方の要求を呑みましょう。身分も明かさず我が意に従えというのは、確かに傲慢な振る舞いというものです」
「そうよ。最初からそうすればいいのに」
仮面を結ぶ紐を外し始めた女を、イレーナは勝ち誇った顔で眺める。女の隣に立つ青年は溜め息をつき、こっそりと女に耳打ちした。
「ルル、よろしいのですか」
「構いませんよ、ティリー。彼女らの言葉に嘘偽りはないのでしょう。あらぬ疑いを掛けられた怒りこそあれ、罪を犯した後ろ暗さは感じられませんから」
紐を解いた女は、白い仮面にそっと手をあてがう。
「少なくとも、彼女を敵にするよりも味方にする方が、ずっと有益なのは間違いありません」
彼女は仮面を外す。露になったのは、眉から鼻筋までの線がすっと通った美貌。鈴を張ったような瞳は、見た者を吸い込みそうな風情を湛えている。そんな彼女は長い栗色の髪をさらりと流し、豊かな胸元へ手を当て静かに首を垂れた。
「私の名前はルシエンヌ=ド=リブロン」
「エルメース王国の第一王女です」