16.少女の白い背中に刻まれた翼
病を快癒させたイレーナとメリーは、エルメースの国土を北上し始めた。選んだ旅程は海沿いのスリジエ街道を二十マイルほど歩いて旅籠街のマルスリーヌで一度休み、それから内陸方面へと向かうヴィオノヴィエ街道を辿る道だ。沿岸部を走り、王都まで一本道で繋がっているスリジエ街道をわざわざ逸れたのは、イレーナが旧帝国の跡地、『ホロウの海』を見てみたいと言ったからである。そんなわけで、二人はエルメース王国内陸部に広がる大森林の中へ分け入っていくのであった。
陽は高く昇って、森の木々の隙間から木漏れ日が差し込んでいる。からりとした風が吹いて藪を揺らす。メリーとイレーナは適当に開けた場所を見繕い、休憩がてら軽食を取ろうとしていた。
メリーは細い枝を辺りから掻き集めてくると、落ち葉と合わせて火を灯す。あの日以来イレーナも野営を積極的に手伝うようになったが、焚き火を作るのは相変わらずメリーの仕事だった。
「火が付いたよ。イレーナ」
「うん」
イレーナは革の水袋を左手に構えると、空いた手を地面にかざす。彼女が目を閉じて念じると、その背中に燐光を放つ魔法陣が浮かび上がる。そのまま彼女は縄を引っ張るように手を引く。すると、彼女の動作に引きずられるように、するすると水が溢れだし、彼女の目の前で球体を形作る。イレーナは水袋を近づけると、一気にその水を吸い込ませた。
「メリー、ほら、鍋!」
「はいはい」
メリーは鉄の鍋を手に取ると、球体の下にそれを差し出す。イレーナが指を鳴らすと、いきなり水の球体が崩れ、全て鍋の中に納まった。メリーは鍋に火を掛けながら、干し肉をナイフで切り分け始める。イレーナもきのこを細切りにすると、沸き始めた水の中へと放り込んでいく。
「さ、細かい味付けは任せたわね。ちょっと服を洗ってくるわ」
「わかった。戻ってくるまでには支度しておくよ」
メリーも干し肉を鍋に入れながら、立ち去るイレーナの背中を見つめる。彼女のほっそりとした背中が光を帯びると、突拍子もない力を発揮する。器械人形を支配下に置くのはもちろん、井戸もなしに地下水を汲み上げたり、雨も雷も一夜中防ぎきる結界を張って天幕代わりにしたりと、地水火風のエーテルを自由自在に使いこなす。メリーには不思議で仕方なかった。
「……そういえば」
そんなわけで、イレーナがスープを啜る姿を見つめながら、メリーは思いついたように尋ねていた。
「イレーナは魔導書もなし、魔法陣も描かずで、どうしてそう自在に魔法を使えるんだい? 背中にいきなり魔法陣浮かべるし。何か秘密でも?」
彼の質問を聞いた途端、彼女は目を瞬かせた。ごくりとスープを飲み干したかと思えば、急にイレーナは目を細めて口端を緩める。その目が悪戯っぽくきらりと光った。
「ふーん。知りたいの?」
「気になるさ。僕だって魔法使いのはしくれだ」
詰め寄るイレーナに戸惑いつつ、メリーは小さく頷く。
「そう。……ま、メリーになら教えてあげてもいいかな」
いうなり、イレーナはくるりとメリーに背を向けた。ローブの腰紐と胸紐を解き、彼女はローブの上半身をはだけて肌着姿になる。それだけでなく、イレーナはいきなり胸当て布の紐を解いて、上半身を丸々外の空気に晒してしまった。メリーははっと顔を赤らめ、慌てて目を反らす。
「ちょっとイレーナ! いきなり何してるんだよ!」
「何でメリーが恥ずかしがってるの? 知りたいって言ったのはメリーでしょ?」
「だからって、どうしていきなり脱ぐのさ」
「脱がなきゃわかんないんだもの。ほら、照れてないで私の背中を見て」
「う、ううん……」
メリーは頬から火が出そうな気になりつつ、ようやく意を決してイレーナへと目を向ける。大理石のようにすべすべして白い肌。その腰から脇腹にかけて描かれた美しい弧は、まるで生きた彫刻だ。色気を通り越して芸術性すら感じさせるその後ろ姿に、思わずメリーは目を奪われた。照れるのもすっかり忘れて、彼は古代の芸術品を見つめるような目で、イレーナの背中を眺める。
「……イレーナ。これって……」
彼女の背中には、紋様が刻まれていた。背中の中心から両の肩甲骨を通り、肩や脇腹近くまで一杯に、天使の羽が描かれていた。じっと目を凝らすと、その羽を形作るのは全て魔法を操る神聖文字であった。
「ま、単純な話ね。私は身体に直接魔法陣を組み込んでるの。だからいつでも強力な魔法が使える」
「身体に魔法陣……本当にこんな事が出来るんだ」
「今の時代だと身体に刻んだりはしないのね」
「子供の戯言だよ。今ではね。身体に刻んでおけば魔導書なんかいちいち持ち歩かなくていいだろう、なんて言うけど、いざ刻む段になったら、身体は曲線が多すぎて魔法陣の形が歪むんだ。だから上手くいかない……って」
「確かに並大抵の仕事じゃないわね。刻む方も繊細な仕事が必要だけど、刻まれる方も、どんなに痛くたってぴくりとも動いちゃいけないんだもの」
彼女がしみじみと呟く。昔を懐かしむような素振りを見せたイレーナに、メリーは思わず首を傾げる。
「痛かったのかい?」
「もちろん。焼けた針でぷっすりと刺される感じ。それが何百回も何千回も。全く。あれはただの拷問ね。うん。子どもを産むときはもっと痛いとか、慰めにならないような慰めを言われながら、ずっと唇噛んで耐えてた」
「そんな……」
想像したメリーは思わず肩をぶるりと震わせる。ちらりと振り返ったイレーナは、口端にうっすら笑みを浮かべる。
「鋼鉄の精錬から部品の鋳造、魔力の吹込みまで一通り熟さなきゃならないのが器械技師。一等の器械技師になるためには、避けて通れない道だったの。早く一人前になりたかったから、我慢した」
「一人前、か」
メリーはイレーナの言葉に胸をくすぐられる。彼もずっと、一人前の錬成士になりたいと思っていたところだった。錬成士の腕を磨いて、その力を何かの役に立てたいと。
「その魔法陣を刻むのって、イレーナにも出来るのかい?」
「そりゃもう、私は天才だから。まあでも、覚悟はすることね。痛さはシャレにならないから」
「……覚悟が出来たら言うよ」
湧き上がった意気込みはどこへやら、結局尻込みする。煮え切らない彼に、イレーナはくすりと笑う。
「そうね。それがいいわ。刻むとしたら、どこに刻むかとかもちゃんと考えてね」
「どこに?」
目を瞬かせるメリー。相変わらずその目はイレーナの魔法陣に注がれ続けている。少し頬を染めたイレーナは、小さな声で口ごもる。
「ねえ。私の背中、綺麗だと思う?」
「綺麗だよ。彫刻みたいだ。模様は緻密だし、肌だってこんなにすべすべで……」
メリーはそっと指先を伸ばし、翼の模様の付け根に触れる。
「ひゃあっ!」
魔法陣にぴりりと深紅の光が走った瞬間、イレーナは悲鳴を上げて震えあがる。咄嗟に胸元を両腕で覆いながら振り返った。顔が耳まで真っ赤、唇はへの字に曲がっていた。
「急に触らないで。魔導士なんだから、魔法陣に触ったらどうなるかくらいわかるでしょ?」
「ご、ごめん。つい」
メリーは目を泳がせながらしどろもどろになる。胸元は手で隠れているが、腰回りの滑らかな曲線は白日の下にさらされている。彼も真っ赤になって俯く。肩を竦めたイレーナは、片手を伸ばして胸当て布を手に取る。
「全くもう、びっくりしちゃった。気をつけてよね」
「そうするよ」
彼はのっそりとイレーナに背を向けた。彼女は溜め息をつくと、さっさと胸当て布を巻こうとする。
「おいおい、それで終わりかよ!」
その時、いきなり茂みが揺れて男が四人飛び出してきた。全員判を押したように下卑た笑みを浮かべ、得物を片手で弄んでいる。いかにも盗賊らしい風貌だ。イレーナは息を呑み、慌ててローブを引き上げ身体を覆った。
「随分楽しそうじゃねえか」
「俺達も混ぜてくれよ」
「へへへっ」
盗賊達はがさがさと茂みを掻き分けながら彼女へと詰め寄ってくる。揃いも揃って生唾飲んで舌なめずりしている。イレーナは後退りしながら四人を睨んだ。
「……見てたわけ?」
「ああ、お前らがいちゃいちゃしてる間、ずっとな。ちょっと乳の大きさは物足りねえが、まあでもお前みたいな別嬪なら大歓迎だぜ」
イレーナはぐっと拳を握りしめる。その眼が怒りに爛々と輝いた。
「ふうん。……手前勝手に女の子を値踏みするわね。高くつくわよ」
「ん?」
彼女の背中から金色の翼が生える。神聖文字が揺らめき、イレーナの小さな拳に光が集まっていく。
「失せろ!」
拳を振り抜いた瞬間、光の矢がバリスタのように放たれ、盗賊四人に纏めて炸裂した。辺り一面を眩い光が包み込んだ。
一分ほどかけて、眩い光がようやく薄れる。イレーナはローブを下ろして胸当て布を念入りに巻き直していた。彼女の目の前には、鼻血をだらだら流して気を失った男達が無様な姿を晒している。メリーはぴくりとも動かない男たちの様子をじっと窺う。致命傷ではなかったが、向こう一日は起きられないだろう。
「あーあ。随分派手にやったね」
「当たり前よ。殺さなかっただけありがたいと思ってほしいわ」
イレーナは脇腹をさすって胸元の形を整えると、ローブを着込んで胸元の紐を固める。ケープも着込んで身体の線を肩まですっぽり覆い隠すと、口元を歪めて男達を見下ろした。
「さて。どうしてやろうかしら」
彼女はいきなり男の腰元を探り、革袋を一つ引っ張り出す。口を開くと、中から金貨銀貨がざらざら出てきた。メリーは思わず息を呑む。
「うわ、これって……」
「ちょっと前に商人か誰かを襲って、気分がいいからついでに私の事も襲おうとしたってわけ? 残念ね。綺麗なバラには棘があるのよ」
財布の口を閉じると、イレーナは財布をメリーへと放り投げる。
「とりあえず手近な市長のところに持っていきましょ。これの持ち主が生きてるとは思えないけど、汚い金に手を付けるわけにもいかないし。街の発展にでも使ってもらおうかしら」
「そうだね。さて、こんなところに長居できないし、そろそろ――」
メリーが旅嚢に財布をしまって立ち上がろうとした瞬間、いきなり水の塊が弾丸のように飛んできた。気付いたイレーナは、光の波動を放ってメリーを茂みへ突き飛ばす。そのまま両手を構え、彼女は弾丸の飛んできた方角を睨む。
「今度は何!」
茂みからゆらりと一つの影が姿を現す。細身の剣を構え、仮面で顔を覆い隠した女。
「この私の目の前で、盗みなんて許しませんよ」
落ち着き払った口調で、女は言い放った。