15.雨が上がって少年は風邪をひく
メリーは素早く魔導書のページをめくる。桶のような形の兜を被った器械人形が、右腕を高々と振り上げて襲い掛かってきた。彼は咄嗟に背後へ飛び退くと、開いたページに手を当て、周囲から火のエーテルを寄せ集める。
「イレーナがいなくたって! ローディがいなくたって!」
叫んで自らを鼓舞しながら、メリーは集めたエーテルを右手の平から撃ち込む。放たれた炎の塊は、降り注ぐ雨を一瞬にして蒸発させ、辺りにもうもうと霧を立ち込めさせた。白い帳の向こうで、鬼火が三つゆらりと揺れる。メリーは霧の中に飛び込み、歯車が噛み合う嫌な音を聞きながら器械人形の中を駆け抜けた。メリーは旅嚢の中から分厚い木の札で出来た術符を一枚取り出すと、素早くその魔法陣を指で撫でる。
「大地の女神ブリギッドよ、我らの育ての母ブリギッドよ。どうかこの迷える子らを守りたまえ……」
神への祈りを込めながら念じると、魔法陣はひとりでに光り出した。メリーはその術符を河へと放り投げる。小さなさざ波を残して、術符は水中へ沈んだ。
器械人形が背後へ追いすがり、その両腕を突き出す。脚部の状態がいいのか、メリーが全速力で走ってもなお追い縋ってくる。人形の振り回した爪が、メリーのケープを切り裂いた。
「くそっ……」
メリーはでたらめに走って的を外しながら、後ろを振り返りもせず火の玉を放つ。ガチャガチャと金属の触れ合うことが聞こえる。どうやらどこかに当たったらしい。敵の追いかける足音も、僅かに緩んだ。その隙にメリーは河原へと近寄る。彼が河へ向かって指を差すと、急に琥珀色の結界が河の中に展開され、河の水がせき止められた。砂利と泥だらけの川底が剥き出しになり、中州までの道を繋ぐ。メリーはそこでようやく後ろを振り返り、器械人形の群れが三体、丸ごとこちらへ近づいてきているのを確かめる。
「……落ちることなかれ」
天を仰いで囁くと、彼は一気に坂道を駆け下る。上流側の轟轟という音を聞きながら、彼は泥の中で何とか足を進める。一歩歩みを進めるごとに踝まで足が埋まり、その脚はどうしても遅くなる。
『イノチ……ホシィ』
不意に、背後から金属を擦り合わせたような不快な声が聞こえる。振り返るが、そこには三体の器械人形以外には何者も無い。
『ワレワレハ、イキテイル?』
今度ははっきりと、器械人形が声を発した。兜の奥で光る深紅の光が、僅かに蒼く揺れたように見えた。メリーは歯を食いしばると、人形に向かって叫んだ。
「知らないよ、そんなの!」
彼が小さな炎を術符に向かって放つ。術符があっという間に燃え尽きると、いきなり結界は砕け、一気に濁流が押し寄せる。メリーは何とか中州を駆け登ったが、取り残された器械の群れは、押し寄せる水の塊に横から殴られ、バラバラに砕けた。腕のパーツがぶらぶらと揺れながら、遥か水平線の彼方まであっという間に流されていく。
肩で荒い息をしながら、メリーはそんな器械人形の群れを見送っていた。
雨足は弱まらぬまま、外はみるみる暗くなっていく。ランプを灯してベッドの枕元を照らしながら、アランソンは顔をしかめる。イレーナの病状は思わしくなかった。とにかく熱が下がらず、汗が珠のように浮かんでいた。そのせいで喉が渇くのか、彼女はひたすら水を欲していた。
「おじいさん、水」
「少し我慢してくれ。あまり短い間に水を飲み過ぎると体液が薄まる。そうなるとまた別の部分で身体を悪くしてしまう」
「こんなに、汗びっしょりなのに? このままじゃ干からびてしまうわ」
イレーナは息も絶え絶えに呟く。アランソンは髭を撫でつけながら首を振った。
「そうではないのだ。汗は粘液と血液の要素が混じって出てくるものだが、水は粘液しか補えない。すると粘液と血液の均衡が崩れて、前後不覚を起こしたりしてしまう。出来る事なら粥を食べてほしいのだが」
アランソンはベッドのそばに置かれた、すっかり冷めきった粥を指差す。イレーナは首を振る。
「食欲が湧かないの。喉のあたりが、詰まっちゃって」
「むむ……」
老医が困ったように唸ると同時に、いきなり扉を押し開き、メリーが部屋の中に飛び込んできた。全身から雨雫を垂らしながら、彼はよろよろと数歩歩き、ベッドの前で急に膝から崩れた。アランソンはあっと声を上げ、慌てて彼の側に駆け寄った。
「おお、大丈夫か」
「大丈夫です。少し疲れてしまっただけで。……それよりも」
メリーは旅嚢を肩から降ろすと、中から取り出した赤葦をアランソンに向けて差し出す。
「取ってきましたよ」
「おお、これだけあれば十分だ。今から支度するから待ってくれ」
アランソンは眉を開くと、鞄の中から木の束を取り出してばらりと開く。そこに描かれた魔法陣の上に薬草を乗せると、彼は小声でぶつぶつと念じ始める。魔法陣から浮かんだ深紅の光が薬草をあっという間に干からびさせ、アランソンはそれを乳鉢の中で粉状にすりおろしていく。そんな彼の姿を横目に、メリーは半ば倒れ込むように、ベッドへもたれかかった。
「大丈夫だったかい、イレーナ」
「そっちこそ、泥だらけじゃない。一体、何があったの」
「大したことじゃないよ。ちょっと雨に濡れただけさ」
「濡れただけなんて、嘘よ。雷だって、鳴ってたし。……もしかして、器械人形に、襲われた?」
メリーは黙り込む。イレーナは顔を曇らせた。
「やっぱり」
「大丈夫だよ。俺は無事に帰ってきたんだから。それで十分」
「メリー……」
イレーナは何か言いたげにしていたが、立ち上がったアランソンがそれを遮る。彼が手にした椀には、赤い薬湯がほんのりと湯気を立てていた。
「出来たぞ。熱いうちに飲めばよく効く」
「……ありがとう」
イレーナは椀を受け取ると、顔をしかめながら薬湯を飲み始める。メリーはそんな彼女の様子を固唾を飲んで見守った。彼女の細い喉が、ひくりひくりと動いている。
やがて飲み干したイレーナは、口をへの字に曲げながら椀をアランソンに突っ返した。
「熱い。苦い。……でも効きそうね。身体がじわっとする」
ベッドの端から見上げるメリーに目を向けると、イレーナは小さく微笑んだ。
「ありがとう。メリー。あなたがいてくれて、よか、った……」
イレーナは急に眼をとろんとさせると、横ざまに倒れ込んだ。目を閉ざして、彼女はすやすやと寝息を立てはじめる。アランソンはイレーナに布団をかけ直し、そっと立ち上がる。
「ついでに眠りの魔法を込めておいた。この手の病は、結局眠るのが一番だからな」
「色々とありがとうございます。助かりました」
メリーは素早く立ち上がり、老医に向かって静かに頭を下げる。彼はそっと相好を崩した。
「私も君達に助けられたのだし、その礼をしただけのことだ。だから君も風邪に気を付けたまえよ。散々濡れただろう」
「ええ」
立ち去る彼を見送ったちょうどその時、メリーは大きくくしゃみした。
イレーナはおもむろに目を覚ました。窓辺に立った小鳥がぴちぴちと鳴いている。すっかり熱は引いていた。肘や膝に感じていた漫然とした痛みも消えている。布団を蹴って起き上がると、彼女はうんと伸びをした。
気持ちのいい朝だった。外から差し込む朝日と同じ、とても晴れ晴れとした気分だった。彼女は寝汗ですっかりべたついてしまった服を脱いで脇に放ると、肌着姿でいっぱいに陽の光を浴びる。夏の陽気をはらんだ光は、ぽかぽかとして暖かい。彼女は全身が生気でよく満たされていくのを感じていた。
(こんな気持ちになれたのも、全部メリーのお陰ね)
ずっと闇の中を彷徨っているような心地だった。全てを投げ出して逃げ出しても、心を捉えた闇だけは彼女にしつこく付きまとい続けてきた。それならあがくだけ仕方ない。闇の中に引き籠ってしまえ。彼女はこの世界に来てから、ずっとそう思っていた。しかしメリーはそんな彼女を見捨てず、手を引いて闇の外まで連れ出してくれたのである。
「……ふふ」
心の底がふわりと暖かくなって、イレーナは思わず顔を綻ばせた。満面の笑みを浮かべて、イレーナはいきなり布団を引っ掴む。ベッドの上では、珍しくメリーがまだ丸くなっていた。
「おはよう、メリー!」
はつらつと声を張り上げて、イレーナは布団を引っ剥がす。いきなり外の空気にさらされたメリーは、もぞもぞと芋虫のようにうごめいた。
「ご、ごめん。その布団、返してくれない……?」
「返す? もう朝なのに」
「具合が悪いんだよ。頭が重くて仕方ない」
そんな事を言うメリーの声は、確かにがらがら掠れていた。イレーナはメリーに布団を掛けつつ、いきなりはっと息を呑む。
「そんな。メリーに伝染しちゃった?」
メリーは何とか寝返りを打つと、彼女を見上げて小さく首を振った。その笑みには力が籠らない。
「まさか。俺はずっと前に罹ってるよ。昨日さんざん雨に濡れて、そのまま河に飛び込んだりしたし……ただの風邪だね。間違いなく」
「ふうん、風邪かぁ……熱は?」
言うと、イレーナは手を伸ばしてメリーの額に手を当てる。熱がじわりと手に伝わった。イレーナは目をくりくりさせる。
「わ、すごい。これは大変。アランソンのおじいさん来るかな……来るよね。私の様子見に来るんだろうし。その時にメリーの事も診てもらわなきゃ」
「そんな必要ないよ。ただの風邪だし。それこそ、イレーナの魔法で熱を下げてよ。そしたら動ける」
メリーが片手をついて起き上がろうとすると、イレーナはその肩を押さえてベッドに押し込む。
「馬鹿言わないの。ただの風邪が一番怖いんだから。肺を患ったらどうするの! 出ていくって言った期日まではまだあと四日あるんだから、ゆっくり休んで体力付け直さなきゃ。散々看病してもらったし、今度は私が看病する番! だから寝てなさい!」
イレーナは口やかましく言葉を並べ立てると、旅嚢から若草色のローブを取り出し、頭からすっぽり被った。袖に腕を通して、胸元の紐を素早く結わえていく。腰回りを革のベルトで締めると、イレーナはさっと桶を担ぐ。鼻歌交じりの彼女の横顔を見つめて、メリーはほっと溜め息をついた。
「イレーナって、そんな風に笑うんだ」
「ふふん」
彼女はメリーに振り返ると、くしゃりと笑う。白い歯がちらりと覗き、その眼も太陽の光を呑み込んできらりと光った。
身体が火照るのを感じたメリーは、そのままベッドにどさりと倒れ込んだ。