12.帝国の少女を脅かす病の洗礼
ギルド
石工、木工職人、医師などが構成する相互扶助組織。ギルドへ加入すると稼ぎの数割をギルドに拠出することになるが、ギルドの信用性により客を得やすいなどの利点もある。
窓辺に小鳥が集まり、ぴちくりぱちくりと鳴き合い始める。彼方からはカラスの野太い鳴き声も聞こえてきて、外は一気に騒がしくなった。窓から白い朝陽も差し込んできて、ベッドに横たわるメリーの瞼をくすぐる。メリーはぱちりと目を開くと、布団を捲ってそっと身を起こした。隣を見ると、枕に顔を埋めてイレーナが丸くなっていた。今まで抑え込んできた疲れがどっと押し寄せたのか、一頻り泣いた彼女はそのまま眠りに落ちてしまったのである。
メリーはそっとベッドを降りると、床を軋ませながら窓辺へ向かう。街路ではすでに人々が忙しなく行き交っていた。揃ってパン粥の支度でもしているのか、風に乗って飯の煮炊きをする匂いが漂ってきた。彼は深呼吸してその香りをじっくり楽しむと、くるりとイレーナへと向き直る。
「朝だよ、イレーナ。僕達も何か食べに行かない?」
頬にばらりと掛かった髪を、メリーはそっと指先で縒り分けようとする。そうして指先が彼女の髪に触れた時、その違和感にメリーは思わず笑みを潜める。金色の髪はじっとりと濡れていたのだ。
「イレーナ?」
頬に張り付く髪を耳の後ろへ流す。彼女の頬はじっとりと汗ばみ、白い肌が赤く染まっていた。メリーはそこでようやく気付いた。華奢な肩もやたらと苦しそうに上下している。
「イレーナ!」
メリーは枕を彼女の腕から引き抜いた。彼女の両腕が力なく投げ出される。イレーナはぜえぜえと苦しそうに息をしながら目を開いた。熱で目元が潤んでいる。
「ごめんね、メリー。頭も、身体も、何だか重くて」
イレーナは不意に肩を震わせ、何度も咳を繰り返した。メリーがそっと彼女の額に手の平を重ねてみると、息を呑んでしまうほど熱かった。
「当たり前だよ。こんなにひどい熱だったら。早く言ってくれれば……」
「……メリーも私に付き合わされて、疲れてたでしょ。起こしたくなかったの」
「別に起こされるくらいなんてことないよ。……そうか。お酒で熱が上がったとばかり思ってたけど、そうじゃなかったんだ。昨日からもう熱はあったんだろうね」
メリーはベッドの下から旅嚢を引っ張り出すと、一枚の布を取り出す。おもむろに身を起こすと、イレーナは自嘲気味に笑う。
「そうかもしれない。ずっと気を張ってたのが、少し、緩んじゃったかも」
立ち上がったメリーはそっとイレーナの肩を押さえ、ベッドに身を横たえさせる。
「寝てなよ。今水を汲んでくるから。あとここの親父さんからお粥を貰ってくる」
「大丈夫。水のエーテルを集めれば、これくらいの熱は下げられるもの」
「そんなの一時しのぎにしかならないじゃないか。魔法を使った分、身体を悪くするだけだよ」
メリーはその手でイレーナを押し留めると、そのまま部屋を後にする。階段をバタバタと駆け下りると、食堂では旅人たちが粗末な粥で朝食をとっているところだった。メリーはカウンターに慌てて飛びつき、奥の調理場に立っている宿屋の主人に向かって叫ぶ。
「お粥をください! あと、井戸も借ります」
「ああ、勝手にしろ。飯はカウンターに置いておくから、他の奴に取られる前に持ってけ」
「どうも!」
宿を飛び出し、メリーは宿屋の裏庭に据えられた井戸から水を汲み始める。夏が近づくエルメースは朝でもすでに暑いくらいだったが、それでも井戸から桶に汲み出した水は冷たかった。メリーは両手で掬って口の中を少し湿らせると、桶をぶら下げえっちらおっちらと宿の中へと戻ろうとする。そこへちょうど、宿屋の中を覗き込んでいる老人――アランソンと出くわした。メリーは目を丸くする。
「おじいさん」
「おお、やはりここにいたか。ルシエンヌ王女のように綺麗な娘が泥酔して、少年に介抱されながらこの宿屋に入ったっていう話を聞いてな。これは君達のことに間違いないだろうと思ったんだ」
アランソンは袖や襟が青く染められた白いローブを纏い、不死鳥を象るブローチを首からぶら下げている。一目で医者ギルドの一員とわかる出で立ちだ。
「あの後、この街の医者ギルドにとりあえず加えてもらう運びになったのだ。君達に助けてもらえたおかげだからな。一つお礼でもしたいと思って」
「医者……医者!」
老人の顔をまじまじと見つめていたメリーは、いきなり素っ頓狂な声を上げた。
「おじいさん、イレーナが大変なんです。診てもらえませんか」
「どうしたんだ? 二日酔いかね」
「そうじゃないです。朝起きたらもうすごい熱で。咳も痰が絡んで息苦しそうで」
最初は呑気に構えていたアランソンだったが、メリーの話を聞いているうちに頬が引き締まり、真剣味を帯びた顔になってくる。
「わかった。見せてくれ。わしに出来る範囲で手を尽くそう」
「ええ。ではこちらに」
メリーはアランソンを引き連れ、早足で宿屋の二階まで上がる。ちょうどイレーナが咳をして、掠れた声がドアの隙間から響いた。アランソンは顔をしかめる。
「確かにこれはひどそうだ」
扉を開くと、イレーナは相も変わらず苦しそうに丸くなっていた。メリーはそんな彼女の側に駆け寄り、その顔を見てあっと声を上げる。瞼を重そうに持ち上げ、イレーナは声を絞り出す。
「どうしたの? いきなり、そんな声上げて」
「だって、頬が真っ赤だ」
イレーナの頬はリンゴのように染まっていた。メリーは桶の水に布切れを浸し、彼女の頬にあてがい冷まそうとする。やってきたアランソンは、そんなメリーの手を止める。
「メリー、そんなことをしてもしようがない。それは熱のせいでそうなってるわけじゃないのだ」
「熱じゃない?」
「ああ。りんご熱だな。偉い先生が見てもそう言うだろう」
りんご熱。その名を聞いた途端、メリーは訝しげに首を傾げた。
「その病気の名前なら俺も知ってます。みんな小さい頃にかかる病気でしょう。そして一回罹ればもう二度と罹らない病気だったはずです」
「その通りだ」
「ならどうして。イレーナはどこからどう見ても子どもではないですよ」
アランソンはベッドのそばに跪くと、彼女の額に手を乗せ、その眼をじっと覗き込んだ。
「貴族の娘の中には、子どもの頃にりんご熱にならないで、そのまま大人になってしまう者が少なくないという。こういう、不潔な街角に出てきて病気を貰ってこないからだな」
再びイレーナは咳き込む。ぎこちなく体を丸めて、か細い声を絞り出した。
「別に、私は貴族の生まれなんかじゃ、ないけど……りんご熱なんて、聞いたことない。ラティニアには、そんな病気無かったもの」
「伝説では、帝都の街路には半日ごとに水が流れて汚れを洗い流し、道に敷かれた大理石には染み一つなかったという。そのような環境なら、確かに瘴気が街に現れる事は無いだろう。……少し胸元に触れるぞ。よいかな」
イレーナが頷くと、アランソンは襟元の紐を緩め、少し胸元を開く。彼は目を閉じると、鎖骨の側に触れて彼女の息の調子を確かめ始めた。そんな様子を彼の背後から眺めて、メリーはほっと溜め息をついた。
「でもりんご熱で良かった。一日二日の熱はすごいけど、それっきり引きずらないし。もっと重い病気だったらどうしようかと」
「……いや。大人になってからかかるりんご熱は厄介だぞ。若い頃、何度か診たことがあるが……熱は一週間は下がらんし、熱が下がったとしても、瘴気に腕や足腰がやられてしまって、老婆のように杖が無ければ歩けんようになる事があるんだ。早めに手を打たないと、この子もそうなりかねん」
「そんな」
アランソンの言葉にメリーは青ざめた。イレーナも茫然としている。
「ただし、それは全く手を打たなければの話だ。りんご熱にかかった子どもが飲む薬湯があるだろう。あれを少し煮詰めてやれば、大人にもよく効くようになる」
老人は鞄から羊皮紙と深紅のペンを取り出すと、薬草の絵と名前を紙へ焼き付け、メリーに差し出した。
「わしが看ているから、この薬草を市場から手に入れてくれ。それがあれば作れる」
メリーは薬草の絵を見つめる。あまり見たことのない薬草だ。頷くと、メリーは胸のポケットに羊皮紙を押し込んだ。
「行ってくるよ、イレーナ。待ってて」
彼は扉を勢いよく押し開け、宿の外へと再び飛び出した。