第5話 噂
「……恐れながら申し上げます。クリスタル様、それは難しいかもしれません」
長い沈黙を破り、サイラスは静かに口を開いた。
「現時点で、クリスタル様は唯一の後継者であらせられます。ですが、仰る通りに弟君が生まれるのであれば、自ずと立場は変わります」
「つまり、こうけいしゃあらそいが起きると言いたいのか?」
「はい。そういった状況でクリスタル様が女だと露見した場合、ヴァルスター伯爵がどうお考えになるかわかりません。当主を謀ったとして蟄居、もしくは強制的に意に沿わぬ婚姻をさせられるか、下手をすれば修道院に送られる可能性もあるでしょう」
「まさか……」
父がそこまでするだろうか、と言いかけた口を噤む。
そもそも女の身である以上、私に家を継ぐ資格はない。如何なる処遇も甘んじて受け入れるつもりだ。
だが、サイラスがここまで強く主張するからには、なにかしらの根拠があるに違いない。
「さきほどの反応からして、サイラスはあたらしい母上、いや、リリアーヌさまの名前を知っているのだな」
「……はい。その通りです」
「なぜ知っているのだ」
「それは……」
苦虫を噛み潰したように険しい表情で逡巡していたサイラスは、ややあってから深く息を吐いた。
「本当ならお耳にいれるような話ではありません。──ですが、今のクリスタル様なら、冷静に判断していただけると信じております」
それから教えてくれたのは、この屋敷で真しやかに囁かれる噂だった。
母と結婚する前から父は別宅に女性を囲っている。そしてその女性こそが、リリアーヌ・ゴドフルその人だというのだ。
「……いつからそんなうわさがあったのだ?」
「我々がその噂を耳にしたのは、クリスタル様がお生まれになった直後あたりでしょうか」
「そんなに前からなのか……。サイラスはリリアーヌさまを見たことはないのか? お前から見てどんなじょせいだ?」
「申し訳ありません。私は彼女とは面識がありません。ただ、ヴァルスター家とゴドフル家は領地が隣接しております。そしてゴドフル家はあまり裕福ではなく、しかも子沢山だという話は聞いたことがあります」
名門ヴァルスター伯爵家を継ぐ父と貧乏男爵家の三女では、明らかに家格が釣り合わない。祖父である先代は結婚を許さなかったに違いない。
だが噂が本当なら、父は母と結婚する前からリリアーヌ嬢と関係を持っていた可能性がある。
母の喪が明けるのを待たずに屋敷に来た新しい母。そして、翌年に生まれた弟……記憶にある数々の符号が頭の中で組み合わさっていく。
──それでは母は……
「本当なら、アンネマリー様にはもっといいご縁があったのです。それをあの男が口でいいことを言って」
「ハンナ、口が過ぎる。落ち着け」
「ですが、そうではございませんか。アンネマリー様は騙されたのです!」
「ハンナ!」
突然ハラハラと涙を零し顔を覆ったハンナを、サイラスが厳しく叱責する。だが、私は首を振ってハンナに続きを促した。
「サイラス、かまわない。ハンナ、つらいだろうが知っていることを教えてくれ」
「はい……はい……」
ハンナ曰く、成人を迎えた母には複数の求婚者がいたのだそうだ。その中でもとりわけ熱心だったのが、当時はまだ爵位を継ぐ前の父だった。
父は離宮に住んでいた母の元に日参し、熱烈にアプローチを繰り返した。
当初は渋っていた母だったが、いつしかその熱心な様子に心を動かされ、求婚を受け入れた。
……ここまでは、まるで女性が好む恋愛小説のような話だ。これが小説なら、その後、お姫様はいつまでも幸せに暮らすのだろう。
だが、現実は違った。
結婚と同時にヴァルスター伯爵となった父は、徐々に態度を変化させる。
そして私が生まれてからは、母の体調不良を口実に、部屋に訪れることもほぼなくなった──。
「口でこそアンネマリー様を気遣っていましたが、態度を見れば遠ざけているのは一目瞭然でした。あのまま離宮にいれば、少なくともこんなお寂しい最期を迎えることもなかったでしょうに……」
「お母さま……」
目を瞑るとまざまざと思い出す。
由緒あるヴァルスター邸の中でもとりわけ広く、贅を凝らした南向きの部屋。
そこを訪ねてもいいのは、母の体調のよい時だけと決まっていた。
部屋着というには豪奢な衣裳を纏い、絶えることのない花に埋もれていた母。
私の前では笑顔を絶やさない穏やかな母だったが、庭を見つめる視線はどこか寂しげだった。
もしかして母は知っていたのだろうか。自分が愛されぬ妻だということを……。
不意に目頭が熱くなる。どうやら四歳の身体は、感情のコントロールが難しいようだ。私は強く目を瞑った。
「……よくわかった。つまり、女であることはかくし、げんじょうをいじしたほうがいいのだな」
「はい。その通りです。厳しいことを申し上げますが、アンネマリー様が亡くなられた今、ヴァルスター伯爵がどのように動くかわかりません。しばらくは静観するのがよろしいかと思います」
「そうだな。サイラスの言う通りにしよう」
どちらにせよ、この時期、私は放置されていた覚えがある。
記憶にある通りに無駄に騒がず、子供らしく過ごしていれば問題ないだろう。
──けれど、そんな私の甘い予想は早々に打ち砕かれることになる。
事態が動いたのはその翌日のことだった。
ドアを叩く音と共に聞こえたのは、父の訪いを知らせる家令の声だった。
「失礼いたします。クリスタル様のご様子はいかがでしょうか。御当主様がこちらにいらっしゃいますので、ご都合を伺いに参りました」