第2話 巻き戻った時間
カーン……
カーン……
どこかから聞こえてくる弔いの鐘の音に、ふと意識が引き戻された。
見上げた空は吸い込まれそうなほどに白く、分厚い雪雲が勢いよく流れていく。視界の端で木枯らしに煽られた枯れ葉が宙を舞い、葉が落ちた先にあったのは真新しく掘り返されたばかりの黒々とした土。
ここはどこだと考える間もなく、私はこれが母の葬儀の場面だと理解した。
「クリスタル様、さあ、参りましょう。これ以上ここにいてはお身体に障ります」
背後から聞こえる心配そうな声は、乳母のハンナだ。彼女の横には護衛のサイラスが立っているに違いない。
そうだ、思い出した。長く伏せっていた母が亡くなったのは、私がまだ四歳の時。
この時忙しいと父は早々に立ち去ったが、葬儀の意味すら禄に理解できなかった私は、なかなかこの場を動くことができなかったのだ。
幼かった私は、この時、自分はここから離れてはいけないと考えていた。
私がいなくなったら、お母様は独りぼっちになってしまわれるから。
お母様がいなくなったら、私が独りぼっちになってしまうから、と……。
それにしても、なぜ私はこんな記憶を思い出しているのだろう。もしや、これが人が死ぬ前に見るという走馬灯なのだろうか。
だが、それならこのあとに起こる出来事が容易にわかる。葬儀の間ずっと寒風に晒された私は、倒れて三日間寝込むことになるのだ。
ほら、こんな風に……
「クリスタル様!」
「いかん! ここは私が! ハンナは馬車の手配を!」
「は、はい!」
焦ったようなハンナとサイラスの声を遠くで聞きながら、私は力を失った自分の身体がゆっくり傾いでいくのを感じていた。
……◊……
「……ハンナ、ご様子はどうだ」
「ああ、サイラス、いいところに。それがまだ熱が高くて。こんなに小さいのに……なんてお労しい」
「母親であるアンネマリー様が亡くなられたのだ。まだ四歳といえど、その衝撃はいかばかりか。無理もない話だ。それにしても一体いつ医者がくるのだ。手配はどうなっている?」
「それが小さな子供が熱を出すのはよくあることだから、しばらく様子をみろと仰って」
「まさか呼んでもいないのか!? なんてことだ! もう隠す気もないのか。あの男は!」
「ねえサイラス、これからクリスタル様はどうなるのかしら」
「それは……」
……どこからか話し声が聞こえる。時に大きく時に小さく、それは波のさざめきのようだ。
ぼんやりした意識のまま夢うつつに会話を聞いていた私は、突然出てきた自分の名前にはっきりと目を覚ました。
「……使用人の話では、以前から足繁く通う館があると聞く。葬儀のあともその館に向かったとか。もしや後妻に迎える心積もりではないだろうか」
「そんな! アンネマリー様が亡くなったばかりだというのに、なんということ……!」
「だいたい私は結婚自体反対だったのだ。アンネマリー様はアメシスの血を継ぐ尊き御方! なぜこのような目にあわなければならなかったのだ!」
「アンネマリー様……」
「アメシスの悲劇はいつまで続くのか。本来は今日の葬儀とて国王が……」
「待ってサイラス、お静かに。クリスタル様がお目覚めになるかもしれません」
ハンナとサイラスは……一体なにを話しているのだ? アメシスとは母の家名だ。母の曾祖母が外つ国から嫁いでこられた王族だったため、その国にちなんだミドルネームが叙されたと聞いている。……だが、アメシスの悲劇とはなんなのだ……
深く考えようとしても、するりと思考が逃げていく。
これはやはり夢なのだろうか。だが、そうだとすれば、この纏わり付くような身体の痛みはどう説明がつくのだ。
私はあの嵐で死んだのではなかったのか? それとも、もしや助かったのか……?
重い瞼を開けてみれば、視界に入るのはどこか見覚えのある豪奢な天井だった。
淡いブルーに金の紋章が散りばめられた壁紙は、王都のヴァルスター本邸にあった私の部屋に似ている。……いや、これはまさにそのものだ。
「う……だ、れか……」
焼けるように痛む喉から出たのは、自分で考えていたよりずいぶん高い声だった。そして水を求めて伸ばした自分の手を見て、私は愕然とした。
……なんだこの手は。これはまるで子供の手ではないか。
「クリスタル様。お目覚めですか?」
「……ハ、ンナ?」
「ええ。ハンナでございますよ。クリスタル様、まずはお水をお飲みください」
呆然としたままの私の背中に手が回されて、そっと身体を起こされる。不思議に思いながらも差し出されたグラスを受け取り水を口に含めば、ハンナが安心したように息を吐いたのが聞こえた。
「少しお熱が引いたようでございますね。ご気分はいかがですか?」
「……ハンナ、ここは」
「ここはクリスタル様のお部屋ですよ。お外でお倒れになったのを覚えていらっしゃいますか?」
「外……お母様の葬儀のあと……」
「ええ。そうでございます。ずいぶん熱が高くて心配しておりました」
「私は……生きているのか」
「まあ、もちろんでございますよ」
「……サイラスはどこに?」
「クリスタル様、ここにおります」
優しく笑うハンナの顔は、私が最後に会った時よりずいぶん若く見える。
元々は母の乳母でもあったハンナは、病弱だった母の体調を誰より熟知していたため、嫁ぐ際に王宮より一緒についてきたのそうだ。つまり、私の乳母になった時点で五十は超えていたはず。今は六十はとうに過ぎているはずだ。
その後ろで心配そうにこちらを覗くのは、母の護衛騎士であるサイラスだ。
詳しくは知らないが、母に生涯の忠誠を誓っていたため、降嫁に伴い在籍していた近衛騎士団を辞したのだと聞いている。そのサイラスも、私が覚えているよりは若く見える。
……私は雨の中馬を走らせながら、ひたすらこの二人に会いたいと思っていた。
ハンナとサイラスなら真実を知っているはずだ。だから二人に会えば全てがわかると、ただそれだけを考えていた。
つまりこれは、その願望が今際の際に見せている夢なのだろうか。
いや、これが夢であったとしてもかまわない。私は真実を知りたかったのだから。
心配げにこちらを伺うハンナとサイラスに向き直った私は、意を決して口を開いた。
「……二人に聞きたいことがある」
「はい、なんでございましょう」
「クリスタル様、なんなりと」
「わたしは、女、なのか?」