プロローグ
──それは、私が初めて聞く声だった。
「クリス、そこでなにをしている」
普段は穏やかなエドワード殿下の怒りを孕んだ冷たい声に、生徒達の賑やかな喧騒に包まれていた昼時のカフェテラスが一瞬で静寂に包まれた。
「不愉快だ。今すぐここを立ち去るがいい」
「エド、クリスはそんなつもりで言ったのではないでしょう」
「何度も言わせるな。ここは昼食の場だ。軽薄な輩には相応しくない」
「おい、エドワード! いくらお前でもそんな言い方はないだろう!」
深く頭を垂れた私は磨かれた床に映る自分の影を見つめながら、アレンとジルベスターの声をどこか遠くの出来事のように聞いていた。
頭に去来するのは過去の私と、そして今の私になってからの記憶。その両方を鑑みても、エドワード殿下がこのように声を荒らげるのを初めて聞く。
他人のために声を上げ怒ったとしても、決してご自身の感情を露わにする方ではなかった。
これは駄目だ。いずれ国を導く尊き御方にこのようなことがあってはならない。
まして、私が原因で感情を乱すなど、絶対にあってはならない。
つまり、ここが潮時だ。
私は溢れる感情を押し流すよう深く息を吐き、ぎゅっと目を閉じた。
「……浅慮な振る舞いでこの場をお騒がせしてしまい、申し訳ありませんでした。皆様にご迷惑をおかけしたことを、深くお詫びします」
「クリス、私は迷惑だとは思っていない。むしろ迷惑をかけているのはエドワードだ」
「そうです。謝る必要はありません。クリスはフリーチェ嬢を案内しようと声をかけただけではないですか」
優しい二人の言葉に思わず目頭が熱くなる。だが泣きそうになるのをぐっと堪え、私は頭を振った。
「いいえ、違います。エドワード殿下は間違ったことは仰っておりません」
「わかっているなら直ぐに立ち去れ。目障りだ」
「……はい」
例の記憶を取り戻してから十年。女だと露見することを恐れ、常に慎重に行動していたつもりだったけれど……幕切れはずいぶん呆気ないものだった。自嘲めいた笑みが浮かびそうになるのを咄嗟に噛み殺す。
恐らく私は二度とこの学園には戻れないだろう。そしてヴァルスターの名を失えば、私など一介の庶民に過ぎない。つまり殿下はもちろん、アレンやジルベスターに会うこともできなくなるのだ。
ならば、最後くらいは無様な姿を晒すまい。
そう決心した私は顔を上げて、素直な感情をそのまま顔に浮かべた。
再びお会いできて光栄でした。お側にいられるだけで本当に幸せでした。
願わくば、これからのエドワード殿下の人生に幸多からんことを──。
「お騒がせして申し訳ありませんでした。エドワード殿下、皆様、私はここで失礼いたします」
真っ直ぐに殿下を見つめるこの顔は、この青い双眸にどう映っているのだろうか。
……最後くらい、ちゃんと笑えているといいな。
一瞬過ったそんな思いを振り切るように深く頭を下げた私は、そのままカフェテラスをあとにした。




