第135話 コロシアムの遊転と転巡。
悪逆非道のダンジョンマスター心得その24
神に逆らうべからず。嘘だろう? 我が家の神にかい?
「10っ」
数十人、いや数百人が一斉にそう叫ぶ。
「9っ」
そこには熱狂が渦巻いていた。
「8っ、7っ、6っ」
カウントはどんどん減っていき、それに合わせて会場のボルテージもどんどん上がっていく。
「5っ、4っ」
ここはコロシアム。
ダンジョン51階層から60階層にある、遺跡迷路の次なる難関。
「3っ」
コロシアムでは、ダンジョンモンスターは普通の形で出現しない。
現れるのは必ず、9つの闘技場内のみ。
「2っ」
その中で、最も多くの観客席を有するのが、このメインの闘技場。
「1っ」
擦り鉢状に迫り上がった観客席、そこにある全ての視線が、今たった一箇所に収束している。
「0っ」
石のタイルがはめ込まれた、高低差も障害物もない簡素な闘技場は一気に変質し、そして、熱狂と共に戦いの火蓋が切られた。
戦いが始まってまず最初に動いたのは挑戦者。
魔法使い1名を除く、4名の者達だ。動く彼等は1名を除き重装備の近接戦闘を主体とする者達。前に出した足に体重を乗せ、ボスとの距離を一気に詰めようとする。
闘技場の広さは、対角線が300mの長さの十角形。
左端の出入り口から出た挑戦者達が、中央にいるボスの元まで移動するまで、そう時間はかからない。すぐさま戦いが展開される、挑戦者達はそう思った。
が、しかし、その思惑は外れることになる。
彼等は――。
「いだっ」
ツルッと滑って、尻や顎を強打したのだ。
途端、会場からは、ドッと笑いが起こった。
やっぱり、というような、それを楽しみにしていたとでも言わんばかりの大きな笑い。滑った者達は顔を真っ赤にしながら急いで立ち上がるも、床はまるで氷のようにツルツルで、プルプル震えて何もできないか、もう一度滑って転ぶかのどちらかだった。
ここはコロシアム51階層。
ノノヲがチャンピオンを務める遊転の階層。
ゆえに闘技場は、戦いの火蓋が切られた瞬間に、石のタイルがいくつもはめ込まれていた何もないフィールドから、遊転の名に相応しいそれ専用の闘技場に切り替わった。
今の闘技場は、まっ平らだ。
高低差もなければ、障害物もどこにもない。
それは言葉の上では、先ほどの石のタイルの闘技場を言い表したのと同じである。見た目にも、床の色が変わった程度でさしたる違いはない。
しかし、そう、つまりは、先ほどの闘技場を言い表す言葉として、高低差や障害物がないというのは、適切ではなかった。間違っていた。
なぜなら、先ほどの闘技場には、高低差も障害物も存在していたのだ。
石のタイルの継ぎ目や、タイル自体のわずかな凹凸という高低差が。
石という材質ゆえの、摩擦係数という障害物が。
今の闘技場は、まっ平らだ。
高低差もなければ、障害物もどこにもない、
高低差なんぞ1μm足りとも。障害物など1μF足りとも。
ゆえに床はツルツルで、誰も彼もがすってんころりんすっとんとん。
笑いが起こったのは、観客もそれを知っていて、小生意気な若造冒険者達が思い切り引っかかったからだ。
「くっそっ。ほん――コレ、どうなっ――、いってええっ」
そうして動いていないはずの魔法使いすらも転げて、そのまま尻を打ちつけると、感想を大きな声で叫んだ。滑って転ぶだけでなく尻餅をうって大仰に叫んでいるのも面白いのだろう、観客は再びドッと沸く。
彼等はC級冒険者。Lv100をとうに越えた強者達。本来、そんな者達は滑ってコケた程度のことでは動じず痛がらない。
感覚が鈍い、失われている、といった本質を知らぬ者達が言うような中傷ではなく、我慢できる、耐えられる、効かないといった真実の意味で。
コケても怪我をしないし打ち身にもならないために、痛みは所詮その程度に収まり、もし骨が折れたとしても、こと戦闘中においてはうめき声一つ上げずに即座に次の行動に移ることが可能。それが高Lv。
にも関らず、魔法使いは痛いと叫んだ。そしてきっと、お尻には2,3日消えない青タンを作っただろう。
ここでは、巨大な魔物の棍棒を受け止め微動だにしない猛者すらも、コケて頭を打てば星を見て、険しい環境をその身一つで乗り切った猛者すらも、コケて体に青アザを作る。
叩きつけられた時にはそうでもないのに滑って転んだ時には、今まで鍛え上げてきたものがまるで意味を成さないくらいに、幼い頃の痛みを思いだし泣いてしまうのだ。
それが天城ダンジョン3番目の階層ボス、ノノヲの試練。
ここを自由自在に動き回れるのは、チャンピオンのみ。
そして今そのチャンピオンが、ゆっくりと滑走を始めた。
51階層は言わばアイスリンク。
走るより滑って移動する方が断然動きやすい。ボスはツルツルの闘技場を自由自在に、そしてスピーディーに動き回る。アイスリンクの左端にいる侵入者達は、その足場の悪さもあってか、ボスを視界に収めることすらままならない。
そしてボスは挑戦者達の視界の外から、いくつかの何かを投擲した。
平べったいそれらは回転しつつ、大空を浅い角度で斜めに舞い上がり、弧を描くようにして挑戦者達に飛来する。
「なんだっ? いや、気にする必要はないっ。この足場では、まともな攻撃なんてきっとできないはずっ」
「ああ、攻撃ってのは重さだからなっ」
「武器の重さ、自分の重さ、地面を踏ん張って得られる重さを使って威力を出すでごわすっ。滑りながら投擲したものなんて、大した威力じゃないでごわすっ」
それを見た重装備の者達は口々に言う。
しかし前衛職の内、唯一重装備でない者は違うことを言う。
「いや、違うでござるっ。拙者はここのダンジョンで学んだ、重さがなくとも威力を発揮する攻撃方法があることをっ。守るでござるっ」
仲間達はハッとして、その瞬間防御行動をとった。
分厚い鎧、分厚い盾。そこへ迫る、いくつかの投擲物。
それは確かに、非常に軽かった。まるで羽毛のような重さだ。
だがそれは確かに、非情なる威力を持っていた。
突き刺さるだなんて無粋なことはしない。ただただ掠めるように、それは挑戦者達の周囲をスッと通り過ぎた。斜め上から入ってきて、アイスリンクに当たる前に浮上しまた斜め上へと抜けて行く。音もなく。
挑戦者達に変化はない。いや、表情だけはキョトンとしたものに変わっていた。見合わせるも、全員が全員同じ表情。おそらく接触の音どころか衝撃すら感じておらず、攻撃があったのかさえ定かではないのだろう。投擲物が遠ざかって行く軌道を見て、取り越し苦労だったとでも言いたげな、ため息が呼吸に混じった。
しかし自らを守っていた盾や鎧を見て、彼等は表情を再び変えた。
「拙者が学んだ威力とは……斬れ味、にござる」
心底ギョッと驚いた3名の重装備の男達。
ゴトン、と盾の下半分が支えをなくしてリンクに落ち、鎧の下からはジワリと血が滲み出てくる。それらは切り裂かれていた。
「そんな……、何も感じなかったのに……」
その言葉が、先ほどの投擲にどれだけの斬れ味があったのかを裏付け、脳裏に焼きつける。
挑戦者達は遠ざかる投擲物を見上げ、そしてそれらが舞い戻って行った先、リンク中央で静止するボスを見た。
「ペペンッ」
ボスは笑う。黄色のくちばしが、ニヒルに歪んでいる。
「ペーンッ、ギーンッ」
ボスはそのままアイスリンクを滑りだす。黒く平べったい水かきのある足で2,3歩、しかしそうして勢いをつけると、今度は腹ばいになり、真っ白のお腹でアイスリンクを滑り始めた。その姿は、先ほどと同じ姿だ。ゆえに結果も先ほどと同じく、挑戦者達は視界に捉えることができなくなった。
そして再びの投擲。
手のような羽から、黒い毛が、羽毛が舞い散った。ヒュンヒュンと高い音を立ててそれらは舞い上がり、弧を描き挑戦者達へ。
だが今度は、自分自身も挑戦者達の元ヘ。
「ペペペーンッ」
投擲で切り裂くだけではない。自分自身の羽でも切り裂こうというのだろう。51階層守護者のエンプレスハイペンギンは、羽をまるで刃のように広げた。
狙いは孤立した魔法使い、ではなく、固まっている4名の中で、唯一重装備ではない軽装の若い男。先ほど仲間に警鐘を鳴らした男だ。おそらくその男がこの中で最も手強いことを、ボスも理解したのだ。
「――ペン」
誰しもが上空に舞う恐るべき威力をもった投擲物を見上げる中、死角に回り込み、影に隠れ、一刀両断の意思を込めて、今――。
「ギーンッ」
しかしボスの狙いは外れる。
「――危ないでごわすっ」
唯一ボスの攻撃に勘付いた重装備の巨漢の男が、若い男の前に立ちはだかったのだ。巨漢の男の守りはボスによってスッパリと切り裂かれ、中からはトレードマークのマゲをも失った苦しげな顔が現れ、額からはポタポタと、赤い鮮血がリンクに滴り落ちる、が、若い男には傷一つない。
「だ、大丈夫でござるかっ?」
「おいどんは大丈夫でごわす。額も太っているでごわすからな、あんな攻撃、へでもないでごわす。……ただ、しばらく動けそうには……ない……でごわすな……」
「拙者をかばったゆえに……、すまぬ……」
「謝ることないでごわす。いや……謝るくらいなら……見せて欲しいでごわす……。その……このダンジョンで手にした、新しい武器の力を……」
ごわすは、ござるの腰の武器を指した。
それはまだ、この戦いにおいて一度も使われていない武器。
「……かたじけない。任せておくでござる。とくとご覧に入れて見せようぞ。道場にて鍛えし、拙者の、新しい力を、技を」
若い男は立ち上がる。
アイスリンクはツルツル滑るが、男とて鍛えぬかれしC級冒険者。激しく動くことこそ難しいが、立つだけならば問題ない。
だが、武器を振れるかどうかは分からない。
若い男はまだアイスリンク上で武器を一度も振っていないのだ。それもボス戦においてだけではなく。
コロシアムでは、コモン魔物やエリアボスの闘技場も、同階層の階層ボスの地形変動や環境変動が作用するため、階層ボスほどの効力は持たないが変化する。つまり多少弱い環境で練習ができるということ。ことコロシアムの戦いにおいては、その練習が非常に重要である。
しかし、コロシアムの戦いは予約制だ。
受付にいるノーマルモンスターに、ボスと戦いたい旨とその日時を伝えれば戦える。それため、この野心に溢れた小生意気なC級パーティーはコロシアムに辿り着いた途端、ボスとの戦いを予約してしまったのだ。
コモン魔物やエリアボスとは、戦っていない。これが初めての滑る床。
観客は勝てるわけがないと思っていた。
いや、むしろ負けろとすら思っていた。
誰でもいつでもボスと戦える、そんな事情の危険性を考慮し、侵入者達の間にはいつの間にか不文律のルールが作られていた。
ボスと戦う予約を無制限で取って良いのはA級冒険者のみ。
B級はその階層の全てのエリアボスを倒してから。
C級はその階層の全てのエリアボスと、全てのコモン魔物を倒してから。というもの。
もちろんこのC級パーティーは守っていない。
明確な不文律違反。
彼等が滑って笑われた理由には、それもあったと言える。
だからこそ、頼みの綱のような若い男が、まだ一度も武器を振っていない状況に。再び滑走に入り攻撃を仕掛けようとするボスに対し、武器を鞘から抜いてさえいない状況に。戦いの準備すらできていないその状況に。誰しもがほくそ笑んでいたのだ。
ここにいる観客達は、彼等が勝つことを望んでいない。
そして仲間達ですら、負けを確信した。
そうでなかったのは、たったの2名。
ござるは多少腰を落とし、武器の柄を軽く握った。
ツルツルの床の上では満足に動けないから、その場に立ったまま。踏ん張れもしないから、防御はできない。未だ武器すら抜いていないから、攻撃ももう間に合わない。だがそれは、戦いの準備ができていないということとはまるで一致しなかった。
なぜならその状態こそが、その武器における、最大の戦闘体勢なのだから。
エンプレスハイペンギンの羽が迫り、そして――。
「キリシマ流抜刀術道場に通って早3ヶ月。そこで学んだ、最強の技、人が成しうる奇跡、その真の奥儀。いざ一刀の元参らん。居合――っ、ぎりいいいいいいいっ」
「ペッ――、ペーーーーーー、……ン……」
「うおおおおおおおおおーっ」
今日もコロシアムでは熱狂が渦巻いていた。
果たしてあの状況から逆転できた武器はなんなのだろうか。あの技はなんなのだろうか。彼の強さの秘密は一体なんなのだろうか。
それは観客全員が会場を出て行く際に配られた謎のビラの成果もあって、きっと話題になるのだろう。
なお、観客が全員会場を出て行ったということは、今日行われる予定の試合が全て終了したということ。
コロシアムは静まり返る。
しかし、それは一瞬の出来事。
『ピンポンパンポン。館内放送館内放送。それでは本日18時より、予定通り、ノノヲライブコンサート、貴方だけの妹より、をメインアリーナで開演致します。チケットをお持ちの方は、お手元に御準備の上、1番通路に並んでお待ち下さい。なお物販開始は現在より一時間後の、16時30分からとさせて頂きます。繰り返します。本日18時より――』
コロシアムの熱狂は、まだまだ続く。
ダンジョンマスターのツッコミも、まだまだ……。まだ……。
「……」
……。
「続かないよ……、ツッコミどころが多すぎるよ……」
どうしてネームドモンスターが戦ってないんだ。
ノノヲの様子を見るためにわざわざ時間を合わせて覗いたのに、肝心のノノヲが一切登場しなかったじゃない。
戦わなかったのはもしかして、刀の、居合の宣伝をしたのかい? あの居合道場門下生第一号の強さを宣伝するために出なかったのかい? 忖度かい? それとも出られなかったのかい? 圧力かい?
そしてノノヲライブコンサートって何……。そのせいで24時間営業のコロシアムが15時で閉まっているじゃないか。早いよ、優先順位優先順位。リハーサルとか会場準備かな、いや早いよ。
「あとペンギンの鳴き声って、トロンボーンに似ているとかそんなのだから、ペーンとかじゃないんだよ。ボア、アア、ボアァァァーとかそんな感じで……。なぜ……」
『可愛くないので変えました』
「ああっ、回答が返って来た。ありがとう三期組はやっぱり良い子が多いねえ、質問には答えてくれるんだねえ。……いや変えちゃダメっ」
生物としての構造が変わっちゃってるじゃないっ。
「一体どうやって変えたんだっ、いや悲しきかな我がダンジョンにはそのやり方が多数ある、もうそれは問うまい。だからライブの方をっ、ライブの方を教えて下さいっ。ライブを……、……、ノノヲ? もしもし? もしも――」
通信が切れているっ。
やり口がもうソックリっ。
『 名前:ノノヲ
種別:ネームドモンスター
種族:エンプレスハイペンギン
性別:女
人間換算年齢:15
Lv:120
人間換算ステータス:285
職業:コロシアムのチャンピオン
称号:遊転の闘姫
固有能力:闘技女王 ・闘技場内において全ての行動に補正。闘技場外での戦闘行動において全てに補正。
:滑走床 ・支配領域内の床を止まれない床にし、攻撃や干渉を完全に受け付けなくする。床から受けた衝撃は全てダメージに換算。全ての飛行が不可となる。
:擬似恋愛 ・対象が向ける好意を自身へ向け、対象が向ける敵意を自身以外へ向ける。
:プロの意地 ・初心者にも分かりやすい凄さを発揮できる。
:回転の魔眼 ・左、直線の力を回転に換え、回転の力を直線に換える。
種族特性:複環適応 ・複数の環境に同時に適応できる。水中での機動力上昇、低温での行動力上昇。
:人鳥の帝王 ・ペンギン種に対する支配力を得る。
:寒暖緩急 ・状態の急激な変化に適応できる。外的要因による肉体への影響を抑えられる。
:不安定な行軍 ・不安定な体勢や状態でも、長距離を移動でき、疲れない。
特殊技能:エネルギードレイン ・生命力と魔力を干渉するたびに吸収する。
:クイッククレバー ・思考能力を加速する。
:ノーステイワルツ ・見られないようにできる。
:キューティーコロシアム ・死闘を可憐さで中断する。
存在コスト:2400
再生P:10000P 』
強くなった。過酷な訓練で。
だが過酷な訓練で伸びたのは、能力だけではないということか……。
綺麗さと愛嬌をかね揃えるノノヲは、本来ならばアイスリンクと同じようにキラキラと光を反射する濃い銀色の髪を靡かせながら、卓越したスケーティング技術と流麗で華麗で艶美な表現力を持ってリンクを舞う。
スピードとフェイントによる予測不能な動きを武器とし、防具や防御を用いない単純な移動による回避力ならば、ダンジョン随一と言えるだろう。
しかしそんな回避特化な性能でありながらも、両手から投擲されるチャクラムや、スケート靴のブレードによる蹴りは確かな攻撃力を有しており、よく使うバフ系の魔法と組み合わせれば、高い殺傷能力を持つようになる。
強いよ……、強いから……。
月に4回のライブはやり過ぎよ……。
夏が終わり、9月に入った。
天候や気温を完璧にコントロールできるダンジョンだが、ここはそこまで大したことはしていない。せいぜい一年で一番暑い日や寒い日を少しマシにする程度。あとは自然のなりゆきに任せている。
そのため、暑い季節が過ぎ去った今日この頃は、住人達の活動も活発だった。
また、秋は○○の季節とよく言い表される。
スポーツ。読書。食欲。睡眠。芸術なんてものもある。秋は様々なことがある楽しい季節なのだ。
農作物の収穫も、主にこの季節。
ダンジョンの範囲を大きく広げた結果、人間や亜人が住むいくつもの領域を飲み込んだ。東や西より北側は全て魔境や海なので、そちら側には一つも人里はないが、南東の帝国、南の王国、南西の魔王国方面には、美しい農村風景が広がっていたりする。
特に王国側は、魔境の切れ目が44階層の町よりも5kmも手前だったので、元から魔境と関係ない平和な土地を多く含む。それゆえ、ダンジョン内では毎日のように、農作業が行われている。
だがしかし。
科学技術が発展していないこの時代、収穫に使える重機などは存在しない。全ては手作業だ。
そして食べる分量はいつの時代も変わらない。いやむしろ畜産や漁業、またはそれらの輸送が盛んに行われていないのだから、農作物に頼る分量は多くなる。村民や町民が多ければ多いほど、近隣に売りに行く必要があるほど、収穫作業というのは非常に過酷な重労働であった。
そんなものを、か弱いか弱い人間や亜人が来る日も来る日も行えば、果たしてどうなるのだろうか。
その結果は、火を見るよりも明らかである。
「――ぐぅっ、お……」
「お、お婆ちゃん?」
「ぐ、うう、う」
「お婆ちゃんっ」
そう。
「……ギックリ腰じゃ……」
腰を痛めるのだ。
「た、大変だっ」
「動けん……。誰か、誰か人を呼んで……、いや、今は収穫期。どこも忙しくて手一杯のはずじゃ。こんなおいぼれに恩を売ったところで得もない。助けてくれる奇特な者など、どこにも……」
「そ、そんな」
「お前さんだけでも作業を続けておくれ。全部は無理でも……少しでも。あたしゃのことはいい、放っておいてくれ」
「嫌だっ。お婆ちゃんをこのまま野ざらしにしておくだなんて、僕は絶対に嫌だっ」
腰を少し落とした体勢で固まる祖母に、孫は縋りついた。
「お婆ちゃんっ。お婆ちゃんっ」
「うおおお、うがああ」
揺すられる度にこの世の地獄を味わったような声を絞りだす祖母。
「そんな苦しいのっ? うう……、お婆ちゃんお婆ちゃんお婆ちゃんお婆ちゃんっ」
「ぬおおおあああああー」
しかしその叫びを止められるものは、最早どこにもありはしない。救いなど、この世にありはしないのだ。
「誰か、誰でも良いっ。お婆ちゃんの、お婆ちゃんのこの苦しそうな声を止めてあげてっ。誰かーっ」
「ぬあああああ、孫おおおおー」
だがその時。ジャリ、という足音と共に、誰かが後ろで立ち止まった。
そしてその者は声をかける。
「良いでしょう。そこな少年よ」
「だ、誰っ?」
孫は振り向く。
「ワタクシですか? ふっ、名乗るほどでもない。ワタクシはただの、帰るべき道を見失った、さむらいの旅人……、さむらい? さす、また? さる……、ささくれが旅人? です」
そこにいたのは、自らを旅人だと名乗る薄い桃色の髪の女性。
「は、はあ」
「ビックリ腰、そんなものの治療は、ワタクシにとっては容易いこと」
「ギックリ腰です」
「いきますよ」
孫のツッコミは捨て置き、旅人は握り締めた拳をポキポキ鳴らしながら動けない祖母に近づくと、振り被り、せやああー、とその顔面に強烈なパンチをお見舞いした。
「ぐばあああっ」
「えええええええーっ」
吹き飛ぶ祖母。
驚く孫。
満足そうな旅人。
「パンチっ? え? お、お婆ちゃん、お婆ちゃんっ。お姉ちゃん、なんてことをっ」
「ふっ。よくごはんなさい。ごはん? ご飯……?」
「大丈夫っ? お婆ちゃんっ」
孫は旅人を強く責めた後、急いで祖母に駆け寄り、背中を支える形で上半身を起こした。心配そうな顔が、祖母の瞳にも映る。
それが愛しい孫の見納めか、そんなことを苦しげな表情で思った祖母だったが、上半身を起こされたにも関らず、痛みはない。ハッとして自力で体を起こし、そのまま立ち上がった。
「痛くない……、痛くないっ」
そしてまるでダンスのステップを踏むかのように、体をくまなく動かし始めた。
「え、嘘……」
「いや腰が痛くないどころか、膝も痛くないっ。体が軽いっ。まるでこれは20代の頃の体、死んだ爺さんと毎晩求め合ってた頃のっ。ア、アンタ……一体何モンだい?」
一通り動いた祖母は、改めて旅人を見た。つられて孫も。
その目には、警戒の色と、しかしそれ以上に濃い、救世主でも見るような、これから大きなことが起こるかのような、期待の色が含まれていた。
だが、それはアッサリと消え失せる。
「ご飯……、そういえば忘れていましたが、ずっと食べていませんでした。お腹……減った……」
旅人のお腹から、大きな大きなグーという音が聞こえたからだ。祖母と孫は顔を見合わせ、そして大きく笑った。
「お姉ちゃんありがとう、お婆ちゃんを治してくれて。お礼にいっぱい御馳走するよ。今日の分を収穫したらすぐに作るから待ってて」
「恩人じゃ。質素なモンしか出せんが、心行くまで食べていってくれい」
旅人はその日の夜、小さな小屋の中、囲炉裏の火で作られたボタン鍋を堪能した。
そして次の日、一宿一飯の恩だと言って、収穫を手伝っていたところ、隣の畑で作業をしていた違う家の者が腰を痛めた。一家の大黒柱として張り切っていたが無理がたたったようだった。旅人はそれも快く治した。
奇跡の整体師。
誰かが、そう呼んだ。
噂は噂を呼び、村中から、いや村の外からも人が押し寄せ、次々に治療を旅人に頼む。旅人は嫌な顔一つせずそれを受け入れ、順番に治していった。
辛くて過酷な農作業の傷痕を、綺麗サッパリ治してくれるそれは、誰も彼もが涙ながらに感謝を述べるものだった。
また旅人の力を手に入れようと企む賊や、戦争以前にここを統治していた貴族領主などが、村に攻めてきたこともあった。しかし旅人は強く、それらを片っ端から成敗していく。
結果、収穫作業は無事に例年よりも早く終わり、さらに領主が王国からダンジョンへと変わったことによって税を収める必要がなくなったために、より多くの実りを得ることができた。村人達は誰しもが笑顔になった。
ただ、ある日の夜。
「お姉ちゃんはどうしてこの村に来てくれたの?」
晩ご飯のキジ鍋を食べながら、孫は旅人にそんなことを聞いた。それは、聞いてしまえば次の日には跡形もなくいなくなってしまうかもしれない、そんな不安からずっと聞けなかったことだった。
「……」
旅人はお椀に残った汁をすする。
「あ、えと、良いんだ。全然。言いたくなかったら全然。変なこと聞いちゃった、僕の悪い癖だよね? あ、そうだ明日はね、学校っていうのに体験入学するんだっ。お婆ちゃんのお手伝いができなくなるのは心配なんだけど……。でも友達ができるのは楽しみだよっ」
孫は慌てて先ほどの発言を取り消すと、話を変えるように、手を振りながら必死にそう言った。
「……」
しかし旅人は黙っていた。汁をすすり終わった後も、天を見上げて。
「お姉ちゃん……」
食べ終わった頃、旅人は片膝を立てて、それを伸ばすようにして立ち上がった。
「少し、外を歩きましょうか」
続いて、掠れそうな声でうんと応えた孫も立ち上がる。そして共に玄関に向かって歩く。
「あ痛っ」
「お姉ちゃん玄関はもうちょっと左だよ」
目を瞑っているせいで旅人は一度壁に激突。よくある光景なのか孫は慣れた対応をとると、旅人の手を握り玄関から一緒に出て行った。そして祖母の気をつけるんだよの声に頷き、扉を閉めて歩き出す。街灯のない暗いあぜ道だが、夜の空には綺麗な満月が出ていた。
また、両脇に畑のあるあぜ道は、とても静かだった。
ダンジョンの中にいる生物は、すべからく侵入者である。ここのダンジョンは人間や亜人を侵入者と定めているのだから、それ以外の種族をほとんど見かけることはない。そのためこういった畑にも、カエルやスズムシといった侵入者はおらず、ダンジョン側がダンジョンモンスターを用意していない限りは物音1つない静かなもの。
「ワタクシには故郷があります」
だから聞こえる音は、旅人がポツリポツリと話す言葉と、隣を歩く孫の足音だけ。
「でも、帰る道を見失ってしまいました。どこをどう探しても……帰り道は見つかりません」
孫は月明かりに照らされる、自分より顔1つか2つ分高い旅人を見上げたまま、何も話さずに聞いていた。
「この目に映るものは、いつだってただの暗闇のみ。ここに辿り着いたのも偶然でした。暗い道を歩いて、気がついたら。どこをどう歩いて来たのか、サッパリですね」
旅人は孫と繋いでいない方の手で下を指差し、そう言った。
「お姉ちゃんは……、村の中でも迷うもんねっ、ずっと目を瞑ってるから。ははは、そう、なんだ。そっか……。お姉ちゃんは、故郷に……帰りたい?」
孫は旅人に聞いた。
「故郷にですか。正直に言って、もう故郷のことは中々思い出せません。たまに、あれは本当の出来事だったのかうたがたしく……、うたがた? うがた……、それになります。それに確か、ワタクシは何か、とても辛いことがあって逃げ出したような気がするのです。帰りたいかどうかは、分かりません」
孫は立ち止まった。手を繋いでいた旅人も、孫が立ち止まったことに気づき、孫よりも1,2歩前に出たところで止まった。孫は、自分よりも頭二つ分ほど背が高い旅人の顔を見つめて言う。
「じゃあ、ここに……。ずっとここにいれば良いんだよっ。だって僕は――」
言いかけて孫は、旅人の後ろに、ウサギが餅をついていそうなほど美しい月を見た。その美しさは、旅人に勝るとも劣らない。
だからか孫はその月と、旅人を見比べた。
どう解釈したのかは分からない。もしかすると、旅人の故郷が月だと思ったのかもしれない。旅人が目を開け満月を見たなら、その瞬間に帰り道を思い出してしまうと感じたのかもしれない。孫は、月からそっと目を逸らした。
その先の言葉を、伝えられなかった。ここにいて欲しいということも、月が出ているということも。
「……」
孫が黙ったことで、代わりに旅人が口を開く。
「帰りたいかどうかは分かりませんし、今はもうおぼろげで思い出せません。ですが……ああ、しかし、何もかもが懐かしい。早く、早く皆にまた会いたい」
旅人の表情や声は、孫に対しては一度も向けられたことのないもので、知らない旅人がそこにいた。
「……」
孫は、繋いでいた手を離して、人差し指を空に向けた。
「お姉ちゃん。今夜は……。……。月が、綺麗だよ」
それから孫は、一度も旅人の方を向くことがなかった。
「帰ろっかっ」
顔を見られないように、決して見られないように、孫は旅人に背を向けて歩いて行く。そしてきっと、家に辿り着いて玄関を開けた時、誰もいない後ろを見て、一つ大人になるのだろう。孫の、いや少年の、一人の男の、たった一度しかない淡い季節が、過ぎていくのだった。
「……俺は、何を見せられているんだ?」
俺の一度しかない季節が、これは一体今何を見て過ぎていったんだ?
「ここはダンジョンだよな。ダンジョンのネームドモンスターの戦いを見ようと思って覗いたら、農場物語が始まって、かと思ったら少年の淡い初恋物語が始まっちゃったぞ? ヒロインが我が家の子で」
思わず数日間、見入っちゃったぜ。
少年の成長が感じられる、中々良い話だったんじゃないでしょうか。いち映画好き、ドラマ好きとして、そう思います。ダンジョンマスターとしては……、……。
「いや、ハナヲ、ハナヲっ。通信に出るんだハナヲっ。戻ってこんかいこのお馬鹿っ」
『――少年、少年よ、どこに消えたのですか、手を引いてくれていたのに。暗くて何も見えない、暗くて――ん? 通信、こんな夜更けに誰で……、このお声は、御門様? ……御門様、なぜワタクシは、うう、頭が、頭が痛い……記憶が……記憶が、戻……る』
「思い出せ、思い出すんだハナヲっ。ハナヲはコロシアム52階層の守護者、転巡の闘姫の称号を授かった、ダンジョンのネームドモンス――いやだからなんだコレっ。早く戻ってこんかいっ。空に浮いてるのが故郷なんだから帰り道は目を開けたらすぐ見つかるわっ。目を開けろ目をっ」
『 名前:ハナヲ
種別:ネームドモンスター
種族:ハイカンガルー
性別:女
人間換算年齢:21
Lv:123
人間換算ステータス:293
職業:コロシアムのチャンピオン
称号:転巡の闘姫
固有能力:闘技女王 ・闘技場内において全ての行動に補正。闘技場外での戦闘行動において全てに補正。
:浮遊床 ・支配領域内の床の一部を浮遊させ、干渉し合わないように移動させる。床に対しての衝撃や攻撃を全て無効化する。浮遊していない床に触れた場合、耐性を無視しダメージを与える。全ての飛行が不可となる。
:忘却されし論理 ・物事の法則的な繋がりの発動を封じる。
:再生殴殺 ・打撃を回復に、回復を打撃に変換できる。
:撲痕の魔眼 ・左、視界内の攻撃箇所に痕をつけ、その箇所の内部行動、外部挙動を妨害する。
種族特性:跳ねるの王道 ・跳ねた際、空中や着地時の隙がなくなる。
:跳ねるの肉弾戦 ・格闘能力向上、跳びながらの格闘能力向上。
:長尾驢の安定感 ・体勢を崩した際でも、行動能力が損なわれない。
:安全な子育て ・指定した対象の防御力上昇。
特殊技能:エネルギードレイン ・生命力と魔力を干渉するたびに吸収する。
:ボックスファイト ・拳による攻撃のダメージを上昇する。
:バリアブルスウェー ・攻撃範囲が狭い攻撃を躱す。
:プロフェッショナルディスタンス ・対象と適切な距離を保ち続けられる。
存在コスト:2400
再生P:10000P 』
これだけ強くなったのに、弱点の頭が何一つ鍛えられていないっ。ノノヲは鍛えられていた気がするけど……、こっちは全然じゃないかっ。
我が家の教育方針はどうなっている。個性を伸ばす方向を重視し過ぎて弱点をカバーするような鍛え方がまるでできていないっ。えらい弱点よ、これはもう。馬鹿丸出しだよ。
ハナヲはいくつもの浮遊パネルが蠢くフィールドに闘技場を変化させ、そこから落ちればダメージを与える転巡の試練を与える。本人のスタイルはパンチのみで戦うというボクサーに似たもので、攻撃の選択肢が少ない分、狭い浮遊パネルの上での超近接戦闘では無類の強さを誇るのだ。
また仲間と組んで戦う際は、ヒーラーを務めるほどハナヲは回復能力にも優れている。さらに固有能力再生殴殺によって、今まで回復した分を打撃に変換することができるので、敵対者を回復させていると思いきや、複数の打撃ダメージを一度に叩きつけ一撃必殺も可能だ。あれは非常に強力である。これの誤作動によるフレンドリーファイアが、一体何度起きたことか。
強いよ……、強いから……。
頭も鍛えてあげて……。
「主様っ、今ダンジョン訓練担当のこのローズをお呼びになられましたか?」
「おおローズ。良いところにやってきた、実はノノヲとハナヲが――」
「かしこまりましたっ。ハナヲはライブばかりではなく戦いにも精を出すよう心を、ハナヲは頭を鍛えれば良いのですね」
「話が早いっ」
さすがはローズ。俺のことをよく分かっているっ。
「いえそれほどでもありません。私と主様が以心伝心というだけのこと。それでは早速訓練を開始致しましょう」
「ありがとう。そっちの考えが俺に伝わってきたことないから以心伝心ではないんだけど、いやあ、良かった良かった」
これでひと安心だ。俺はホッと胸を撫で下ろす。
なんてったって、コロシアム組が戦っているところをまだ一度も見ていないからね。いつかこういう戦ってないシーンを見る気はしていたけれど、ちょっと早いよ。まだ三期組の3人目4人目だぜ? もうちょっと普通の戦いが続いて欲しかった。
けれどもう大丈夫。
今回のように俺が見たタイミングで戦い以外のことをしていた場合、ローズから特別な訓練が課されてしまうことが、以降の三期組の面々にもこれで伝わっただろう。ローズの訓練は……、ちょっと厳しい。
だから以降の面々は真面目に戦ってくれるようになるに違いない。見るのが今から楽しみだぜ。
ノノヲとハナヲには可哀相だったが。まあ、一応軽い訓練になるよう頼むけど。優しいなあ、俺は。
「ところでローズ、訓練内容だが……」
「ええ、どういった訓練内容に致しましょうか。現在決まっているのは、主様に不安を与えたために、殺し、懺悔させ、生きていることを後悔させ、復活させないでくれと懇願させることだけです」
「やり過ぎだっ。訓練かそれっ? 俺はそこまで望んじゃいないっ」
「ふふふ、ご安心下さい主様。分かっておりますよ。皆には内緒でやります」
「裏では酷いやつ設定を俺につけようとするんじゃないっ。ダメだよローズ、訓練がキツ過ぎて、ハナヲは脱走しちゃったんだろ? もうちょっと抑えて抑えて」
「その点は御心配いりません。今度は脱走できぬよう、地下深くに作った訓練施設にて訓練を行います」
「なにその施設っ、俺知らないっ」
「私が作りました訓練施設ですっ」
「自信満々に……。ダメよ勝手にそんなところ作っちゃ」
「ぇ……」
「おーしローズ偉いぞっ。素晴らしい場所を生成してくれたっ。俺も丁度そんなところが欲しかったんだ。やっぱり俺達以心伝心だなっ」
「はいっ」
ローズは満面の笑みで頷いた。
「でも、でもねローズ。訓練の方は……その……優しくしてあげたりってできないかい? その、できればいざとなったら逃げられるくらいのところでとかさ」
「そう仰られましても、敗北が許されないネームドモンスターを鍛えるということはダンジョンにおいて非常に重要なことです。主様の御身を守るためにも。ですから、やるとなったらいつだってスパルタは欠かせません」
ローズは言う。
「しかしまあ、そうですね。私も暇なわけではないですから、他に何か予定が入れば、そちらでの訓練も軽いものにせざるを得ません。ソレよりも大事な予定が入れば……。そんな予定、私にとっては中々ありませんので、ただの仮定に過ぎませんがね」
ローズは言う。
「……」
「……」
「……ロ……」
「……」
「……ローズ……。……俺と特訓――」
「はいっ、では今すぐに地下深くの訓練施設にお連れしますっ。ノノヲやハナヲなぞ放って置いてすぐ行きましょうっ。特別主様コース第一工程第一部第一章第一節第一項からの続きですっ。2人だけの秘密の特訓、ワクワクしますねっ?」
「……。おうっ、そうだなっ」
ネームドモンスター達の笑顔を守る。これがダンジョンマスターの務め。
「ふう。やれやれだぜ」
そうして俺は地獄へと旅立った。
お読み頂きありがとうございます。
またブックマークや評価もありがとうございます。
誤字脱字のご指摘も頂きありがとうございます。非常に助かっています。
花粉症が辛いです。更新頑張ります。