魔法使いと妖狐
この作品は、とある二次創作の漫画を見て思いついたものです。設定が被っていたらすみません。
前回は無意識にボーイズラブっぽくなりましたが、今回は無意識に百合っぽくなりました。反省しています(嘘)。
誤字脱字報告お願いします。
あれは随分と昔のことだったように思う。
人里から遠く離れた山の中、当時十歳にも満たないほどだったわたしは一人、迷子だった。
当てもなく彷徨い、帰り道も見失い、途方に暮れていたところを貴女に助けられた。
「―-大丈夫?お嬢さん」
顔を上げると、日の光を背に手を差し出す貴女がいた。十代後半くらいの、狐色の長髪に茶金の瞳のお姉さん。
そんな印象を抱いた。
ほとんど無意識、導かれるように右手を差し出された手に重ねていた。
呆けた顔のわたしを見て、貴女はクスリと笑った。
「一華~?一華ったら~…寝てる?」
不意に顔を覗き込んでくる少女。あの頃と少しも変わらない艶やかな長髪がさやさやと揺れる。
「ごめん、起きてるよ。少し考え事をしていたんだ」
「考え事?何々?」
「ははは。教えないさ」
「む、むぅっ!」
頬を膨らませて拗ねる姿が可愛い。これだからいじめたくなっちゃうんだよなぁ…
プイと顔をあらぬ方向へ向ける様は、十にひとつかふたつほど歳を重ねたぐらい幼く見える。
――本当に、ちっとも変わらない。もう何十年も経つのに、白い肌は若いハリを保っていて、人相もまったく変わらない。
――そんなの当たり前か。だって彼女は……
彼女は狐だ。《九尾の妖狐》なる、大妖怪の少女。
数百年、数千年とも言われる、長い長い寿命を持つ。老いることなく何世紀も世界を見つめ続けて来た博識の狐。
普段は尻尾を二本くねらせて遊んでいるが、人間に変化したり本気を出すことで揺れる尻尾の本数が変わったりする。
人里離れた山の中……何十年前かにわたしが迷い込んだ山の中の、社の中に暮らしている。
「稲荷」
我ながら安直な名前だと思う。彼女に助けられたあと、名前がないと呼びにくいからという理由でわたしが名前をつけることになったのだが……
――いくら幼いころだとはいえ、ネーミングセンスの無さに溜息がでる。
彼女がその名を気に入っているということが唯一の救いだが。
「ん、なぁに?」
「怒ってる?」
「ん?なんのこと…ってあぁ!思い出した!怒ってる!」
「今完全に忘れてたじゃん」
「気のせいよ!」
怒っているというわりにはどこか楽しそうな稲荷。自然とわたしも口元が緩んだ。
***
わたしは魔法使いだ。杖を持ち箒に乗る、とんがり帽子の例のアレだ。
まぁ、最近はほぼ魔術を使っていないのだが。
魔法使いのわたしは人里でも忌み嫌われる存在だった。石を投げ付けられたり髪を引っ張られたりした。
そんな毎日に耐えられず、わたしは家を出た。当てもなく、わたしを悪く言う人々から逃げるように外へ外へと逃げ続けた。わたしがいなくなればもう、嫌な声たちは綺麗さっぱり消えるだろうから。
そして迷った。食べ物などは持っていなかった。幼かった故、そこまで頭が回らなかったのだろう。
涙を滲ませるわたしを見つけ出したのが稲荷だった。彼女もまた、《九尾の妖狐》という血故かいつも独りぼっちだった。わたしたちはすぐ仲良くなった。
彼女は優しかった。そして幼かった。博識、聡明、狡猾、妖艶。『狐』といわれて思いつくそれら全て、彼女の印象とは異なっていた。
ちぐはぐな狐。『お姉さん』だったはずが『友人』に変わり、今では『手のかかる妹』のように思えてくる。なんとも不可思議な狐だった。
わたしたちはいつも一緒にいた。他に居場所はなかった。
晴れた日は山の中を散策し、雨の日は彼女の寝床である社でカードゲーム。雪が降れば雪球を作って投げ合った。
稲荷と一緒にいる日々は全てが新鮮でとても楽しく。
……次第にわたしは、性別を無視して彼女に惹かれていった。
***
ある日、いつものように遊んでいると、ふと稲荷が空を見上げて立ち止まった。
空はいつのまにか、夕焼け色をしていた。
「稲荷?どうしたんだ?」
彼女はゆったりと首を元に戻して笑った。
「見てるの」
「見てる?」
「そう」
「何を?」
「さて、なんでしょう♪」
稲荷がいたずらっ子の顔でニヤリと笑った。…お、宣戦布告か?
彼女はわたしが当てられないことに対して確信に近い自信があるようだった。
なんだかわくわくしてきた。よし、絶対当ててやる。
「空?」
「ううん」
「雲?」
「違うなぁ」
「遠くの景色」
「はずれ」
「んー……わからん!降参だ!」
全然分からない。潔く負けを認めよう。
稲荷は、顔をしかめるわたしを見て楽しそうに笑った。
「ふふふ♪」
「なんだよ…笑ってないで教えろって」
そう急かすと、稲荷はとびきりの笑顔で
「私ね、恋をしたの。あの人を探してるの……見えるわけないのにね?」
――――え…?
稲荷は目を伏せて、何かを思い出そうとしているようにふわりと舞う。
――――今…なんて……?
「だからね、私、人間に恋をしたの。……不思議ね…こんな気持ちは初めて」
また会いたい。早く会いたい。
稲荷はその言葉を噛み締めるように言う。
――――恋…?稲荷が…?人間の男に…?
「ねぇ、一華。貴女も応援してくれるよねっ?」
――その言葉が引き金だった。
いても立ってもいられず、わたしは感情に任せて駆け出した。
「あっ、ちょっと!?一華!?」
呼び止める稲荷の声も耳には届かない。ただただ稲荷から距離をとる為にしばらく走り続けた。
――――恋?稲荷が、人間の男に?
――――何故…如何して…?
心臓の音がやけに煩い。
――――稲荷が…人間に…?男に…?
――――なんで……
「なんでわたしじゃないのっっっ!!」
一番近くで貴女を見ていたのはわたし。
一番一緒に貴女といたのもわたし。
一番貴女を知っているのはわたし。
なのに……
「どうしてっっ!どうしてわたしじゃないのぉっ!応えてよぉっっ!」
いつのまにか空は雨模様で、降ってきた水の粒はわたしの頬にある粒と繋がり、そして滴り落ちた。
***
その日を境に稲荷は、わたしに付き合っているという男の話を沢山するようになった。
人間のフリをして人里に下りたところ道に迷い、助けてくれた人がとても紳士的だったということ。お互いに一目惚れし、付き合いを始めたせいで、自分の性格を全てさらけ出すのは少し恐いと言うこと。
いらない恋敵の情報と、稲荷の今まで知らなかった一面がどんどん増えていく。
初めてだった。稲荷の話をこんなにも嫌だと思ったのは。
優しいが何事にも飽きっぽい彼女がこれだけ熱中しているのだろうから、その男は確かに「あやしい」というわけではないのだろう。
だが、なぜか受け入れられない。気持ち悪い。わたしの稲荷を返せ。そう言いたくなる。
これは、嫉妬なのだろうか。独占欲なのだろうか。
どす黒い感情が溢れて止まらないときがある。ときに激情が理性を上回りかける。
恐ろしい。自分が恐ろしいと思うことが増えた。わたしの世界が歪み始めた。
稲荷と会う回数が少しずつ減り始めた。今までは四六時中一緒にいたのが、一日に数時間となり、二日に一日になり、数日に一日になり一週間に一日になった。わたしに会っていない日は全て、恋人の男と会っているのだろうか。その男は、わたしよりも稲荷に愛されているのだろうか。
わたしは魔術を、稲荷は妖術を使えるため、念を送ることで連絡を取り合うことができた。会う頻度は減っても、念は送りあっていたのだが……その会話にも男の話が出てくるようになった。ときには、横にその男がいることもあるらしかった。談笑しているのか、幸せそうな笑い声が念に漏れてくることがある。
――――……ッ…!
ふと我に返ったら、いつの間にか握り締めていた両の拳が赤く濡れていた。滴る雫を見て、何かを想像して昂ぶる自分がいた。
『一華?』
稲荷の心配そうな声が脳に響く。大丈夫、と返して濡れた手を川の水で洗いに行く。稲荷の社にいるのに彼女には会えない。もうずっと、人里に降り続けて男の家に居候しているらしい。
社中に稲荷の匂いが満ちている。人に化けたときは服も一緒に変えられるらしいが、予備として替えの着物一式を保管しているらしかった。稲荷がときどき焚くお香の匂いが染み付いているそれを、抱きしめないと寝られなくなってしまった。稲荷に会いたい。
夜になり、稲荷がよく使っていた布団を敷き、横になる。予備の着物を鼻先に当て、大きく息を吸い込めば、肺中に彼女の匂いが広がって、感情が昂ぶり始める。体が切なさに包まれるのを、右手だけでじわじわと焦らす。
寂しい。つらい。会いたい。抱きしめたい。独り占めしたい。閉じ込めたい。わたしだけ見てほしい。あんな男忘れてほしい。帰ってきて。また二人で遊ぼうよ。なんでわたしを見てくれないの。なんであの男ばっかりなの。もっと構って。お願いだから……もっとわたしを…っ……
「~~~ッッ!」
切なさが全身に廻り、体の端々で弾けたような感覚。自分の意思とは別に体が脈打つ。口から情けない嬌声が漏れる。
「いなりぃ…っ……すきぃ…すきだよぉっ……すきっ……いなり……」
ふいに涙が零れた。口に入り込む雫。苦い、苦い苦い味。
「苦いよぉ……いなりっ……」
こんな毎日も、あふれる涙も、何も出来ない自分も。
なにもかもが苦い。吐きそうなほど、苦い。
***
念は、気持ちが昂ぶると当人にとって『大事な』人達に向けて、無意識に飛ばされることがあるらしい。つい最近それを知った。書物で調べてみると、何の能力も持たない只の人間も例外ではないそうだった。
初めての泊まり。初めての接吻。初めての情事。今までに何度も、断片的に稲荷の声と感覚が送られてきた。
苦しいほど高鳴る鼓動、だが決して不快感を感じさせないそれ。相手の体と触れ合う感覚、体の隅々に電気が走るような痺れ。そして、一番伝わってくるのは相手に触れて触れられてという行為に幸せを感じているということ。自然に口元が緩んでいる。
そして何より嫌なのが、伝わってくるそれら全てが、わたしが稲荷に対して日頃感じているものであるということ。
認めざるを得ない。稲荷が感じるそれは、きっと確かに『恋』なのだろう。
もう二週間近く、稲荷に会っていない。意識的に送られてくる念もどんどん減っていく。
それは、夏の暑い夜だった。
気を紛らわすために読書に耽っていた私のもとに、唐突に念が送られてきた。
前にも一度感じたような……
『んっ…んぅ……』
甘い声が聞こえた。稲荷の声。両肩に触れる何者かの手。そして、下腹部の疼き。
――――あぁ……
分かってしまった。稲荷が、二人が何をしているのか。
ゆっくりと侵入してくる、わたしが知らないナニカ。稲荷の体はそれをもう知っていて、何も警戒せずにそのナニカを受け入れている。
――――やめて…入ってくるな……稲荷から離れろ…っ…
稲荷の嬉しそうな囁き声が頭を巡る。
――――嬉しいのか…?これが、気持ちいいのか…?
同じ感覚を共有しているはずなのに、感じ方がまるで違っている。
唇に何かが当たる感覚。柔らかく湿っている稲荷の唇に触れようとする、相手のそれ。舌が絡まり、唾液が混ざり合い……目を閉じれば相手と絡まり一体化しているのが容易に想像できる。
――――あぁ……吐き気がする…気持ち悪い…っ……!
もう我慢できない。周りに積み上げられた書物を右腕で薙ぎ払う。
「あぁぁぁぁぁぁっっっ!!」
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いっっっ!!
触るな触るな触るな触るな触るな触るな触るな触るな触るなァっっ!!
「わたしの稲荷に触るなァァァァっっっ!!!」
手当たり次第に当り散らす。稲荷の服も布団も八つ裂きにして、持って来ていた自分の私物も外へ放り投げて、自分の肌を引っ掻いて肉を抉っても気が治まらない。
「恨んでやる…恨んでやるよォォォォっはははははははァっっ!!一生恨んで末代まで祟り殺してやるよォォォォォォっっ死ねっ死ねェェェェェっっっっ!!!」
肺の中の全ての空気を使って叫ぶ。
憎い。あの男が憎い。消えればいい。消えろ。消えろ消えろ消えろ……
いつの間にか、稲荷からの念の感覚は何処かに消え去っていた。
***
あれから二週間ほどが経過した。最近はもう、稲荷から有意識無意識問わず念が送られてくることが減ってしまった。ときどき胸に感じる痛みは、稲荷のものか自分のものか、もはやそれすらもよくわからない。
もうずっと、寝たきりで一日を過ごしている。布団は敷けなくなってしまった。ズタズタになった布団は、直そうとしてももう直らないようだった。社の中はあの時のまま、酷い惨状のまま放置され続けている。隅の埃が目立ち始めた。
何もせずただ一日、社の壊れた扉越しに外を眺め続けている。今日も世界は平和だ。
ふいに、ザッザッザッと落ち葉を踏み締めるような音が聞こえてくる。そこで初めて、もうそんな時期なんだと知った。落ち葉が降り積もり、地面は赤黄茶橙の斑模様。その上を進む、鼻緒の赤い小さな下駄。
ゆったりと目線を上げていく。紫を基調とした控えめな着物に身を包む、小柄で華奢な姿。揺れる狐色の長髪。睫毛が長い。
思わず起き上がってしまった。二週間ぶりに動いた。
「…一華…元気してた…?」
久しぶりに聞く、鈴が転がるような声。そよ風になびく髪を左手で掻き分ける。
――――あぁ……稲荷だ…ずっと会いたかった稲荷だ……
「……りっ…」
「ん?」
小さく小首を傾げる稲荷に、お構いなしに抱きつく。
「稲荷ぃっ!!稲荷だぁっ!!」
「わわっ、びっくりするでしょ?…って一華?泣いてるの?」
「だってぇ…だって稲荷がぁっ…ひぐっ…」
「ん…ごめんね?ほら、もうそんなに泣かないの。一華ちゃーん?」
「うるさいっあほぉぉ……」
稲荷が、久しぶりに社に帰ってきた。
「で、一華~?どうしてこんなに滅茶苦茶なの?」
わたしの発作が一旦落ち着くと、稲荷は急に説教モードになってしまった。
身を小さく、正座。お決まりの叱られポーズである。
「え、えとぉ…稲荷がいなくて寂しかった…的な……」
「言い訳無用っ。はい、さっさと片付ける!」
ぱんぱんと掌を打ち鳴らしてわたしを急かす稲荷。久しぶり過ぎてそれすらも嬉しい。
あんなに散らかっていた社の中はものの数分で綺麗になった。
「一華はやれば出来る子なんだから、普段からやればいいのにねぇ」
「申し訳ありませんでした…」
「ん、今日は許しましょう」
「稲荷さまぁっ!」
久しぶりの茶番が、涙がでるほど嬉しい。
でも、少し気になったことが。
「ねぇ、稲荷。どうして戻ってきたんだ?」
「………何が?」
「とぼけないでよ。ずっと幸せだったんだろ?なのにどうして戻ってきたのかって聞いてるんだよ」
「…うん。そうだね。ずっとずっと幸せだったよ。私は今でもそう思ってる」
「……?」
「あはは。えっとね…」
稲荷は口元の笑みを消し、私が知らないこの二週間の話をし始めた。
どうやらこの前の、わたしが念を受け取った最後の情事で稲荷はその男の子供を身篭ったらしかった。稲荷は喜んだ。だが、稲荷から話を聞いた男は驚いた。このとき初めて、稲荷は自分が《九尾の妖狐》だと話したらしい。
男からすれば、人外の生き物と交わり子供を作ったのだ。
推測だが、男は怯えた。禁忌を犯したことに恐怖を覚え、一刻も早く彼女から離れようと思ったのだろう。
稲荷が妊娠を告げた次の日から、男は仕事に出ると言って帰ってこなくなった。稲荷は待ち続けた。待ち続けて待ち続けて待ち続けて、そして気付いてしまった。自分がもう、男に愛されていないということに。
稲荷は男の部屋を掃除し綺麗に片付け、彼に貰ったものを全て置いて、その家を出た。稲荷は男のことを未だ思い続けているのだと、彼女の話しぶりからわかった。
「…だから、私が悪いの。あの人に何も言わなかった私のせい」
稲荷は寂しそうに微笑んだ。男とは別れてほしかったが、でもこんなのは違う。
稲荷が涙を堪える顔など見たくない。
無言で立ち上がったわたしの服の裾を、稲荷の細い指が掴む。
「…………」
「いいの。私は大丈夫だから」
くしゃくしゃに歪めた顔で、どうして大丈夫なんて言える?
胸の奥に、刺すような鋭い痛みを感じた。
「私は大丈夫。ほら、折角帰ってきたんだから一緒に遊ぼう?」
稲荷は、嘘をつくようになった。あの男のもとで、どんな毎日を送っていたのだろう。
熱いものが、頬を伝って零れ落ちた。
「だから、泣かないで…一華が泣くことなんてないよ…」
稲荷の眦からも、雫が一筋。
――――あぁそうか…この胸の痛みはきっと、稲荷のものだ……
鋭い痛みを胸の中に秘めて、涙を零して、それでもなお、わたしのために笑いを絶やそうとしない。
そんな稲荷は、不謹慎だが…今までに見た何よりも誰よりも美しかった。
しゃがみ込み、無言で稲荷を抱き締めた。息を呑む気配がする。
「わかった…ずっと一緒にいよう。ずっとここで、遊んでいよう。わたしが稲荷を守るよ…ずっとずっとここで、守り続けるよ……」
だから、もう泣かないで。
そう言うと、稲荷は切なげに微笑んだ。
***
それから、稲荷とわたしは毎日社や山の中で遊んだ。人里には下りないようにしていたし、男の話ももうすることはなかった。ときどき、何かのはずみで稲荷の発作が起こった。それは決まって、夜寝る頃に起こり、三度目の発作が起こった夜、わたしは魔術を使い稲荷の『男と過ごした記憶』を封じ込んだ。久しぶりに使う魔術だったから少し不安だったが、それ以来稲荷が暴れなくなったところを見るとどうやら成功したらしかった。
稲荷は男のことを思い出すと、自らの爪で肉を抉るなどの自傷行為を繰り返した。恐らくはそれも、男が自らに対してしていたことなのだろう。とめどなくあふれる血を無表情で見つめて、稲荷は心を静めていた。
記憶を封じたため、稲荷の腹で眠っている胎児のことをどう説明しようか悩んだ。最終的には、『妖狐にはそういうこともあるらしいと書物で読んだことがある』などと不自然極まりない嘘で誤魔化した。稲荷は疑いもせず、『そうなんだ! なら大切に育てなきゃね!』なんて言って笑っていた。
楽しい毎日の中に、大好きな稲荷が傍にいて。全て元通り、またあの頃に戻れた。
その、はずだった。
ある朝目を覚ますと、稲荷が布団から消えていた。川の字に並べた布団の真ん中にいたはずの、生まれたばかりの赤子も同じようにいなくなっていた。凍てつく様な冬の日だった。
わたしは慌てて社から飛び出した。寝巻き代わりの薄いネグリジェのまま、裸足で積もった雪の中を駆け回った。
社の裏も、山神さまを祀る祠も、楠の大木の上も、秘密基地にした穴倉も探し回った。もしかしたらと思い社の中ももう一度確認したがいなかった。探していないのは、山を降りた先にある人里だけだ。
でもおかしい。稲荷の記憶は封じた。何も覚えていない稲荷が、まだ首も据わっていない赤子を連れて人里に行くだろうか?なんだかんだいって心配性な稲荷が、そんな危険なところへ行くだろうか?
しばらく考え込み、策は尽き、いよいよ山を降りるしかないかと思いかけたそのとき。
感じたのは、久しぶり過ぎて忘れかけていた念が送られてきた感覚だった。
集中するために目を閉じる。
刺す様な冷たい風。稲荷は外にいる。
腕に抱きかかえたある程度の重み、そこだけやけに温かい。赤子を抱いているのだろう。
時折露出した腕や足、顔に当たる特に冷たいものは何だろう。これが今の稲荷の場所の手がかりになる気がするのだが。
稲荷は立ち止まっているようだ。四肢の端から冷えていく。
『ごめんね…一華……』
――――え?
驚いたが、どうやら稲荷は無意識に念を送っているようだ。尋ね返しても返事はない。
脳裏に掠めるのは…わたしの顔と赤子の顔、そして見知らぬ男の顔……?
「え……?」
――――この顔は…まさか……!?
小さな胸の疼き、ちくちくと刺す様な痛みと、それを塗り替えるほどの温かな恋情。
――――そうか。
わたしの魔術は失敗していたんだ。稲荷の演技で、成功したと勘違いしていたのか。
純粋に驚いた。自分が失敗したこと以上に、稲荷がわたしを欺ききったことに。まったく気付かなかった。
疑問は残るが、それは後だ。稲荷から送られてくる念に集中しよう。
露出した肌に当たる冷たいものの量が増えた。ごめんね、と頭の中に響く稲荷の声。
なんのことだろうと考える間もなく。
一瞬の浮遊感の後に、全身が冷たい何かに包まれた。
重たい。息が苦しい。寒い。痛い。
そこで念は途切れた。電撃が走ったように足が勝手に動いていた。走れ、走れと、理解が追いついていないはずなのに脳が指示を出している。
違うだろ。否定する声。知りたくないだけだろ。
――――稲荷は、冬の川に飛び込んだ。
この山の中、何にもぶつからず無事に川に飛び込める場所などひとつしかない。人里へ降りるときに必ず通る橋。そこ以外だと高い崖の上で、落下している間に一度は身体をぶつけてしまうだろう。送られてきた念に、その様な痛みはなかった。
木製のその橋は、一歩踏み出す度に軋み、恐怖心をあおる。申し訳程度に設置された柵は朽ちかけていて、乗り越えるのは用意だった。
走りながら、ずっと肌に当たっていたのは川の水飛沫だったんだと今更ながらに気付いた。
昨日までずっと降り続いた雪のせいで、川の水は増水しているだろう。流れも速くなっているはずだ。早く川から引き上げないと命に関わる。
川が見えてきた。橋に届くほど水位が上昇している。
右端に、脱ぎ揃えられた赤い鼻緒の下駄があった。
「稲荷っ!」
慌てて橋から見下ろすも、そこに稲荷はいない。
川が流れる先を、目を細めて見つめても見付からない。
溢れそうになる涙を堪えて川に飛び込む。川の水は氷のように冷たい。稲荷が飛び込んだときの感覚がフラッシュバックする。
息を大きく吸い込み水の中に潜った。白い泡が水面を覆い、光を跳ね返して水中を煌めかせる。
どこを見ても稲荷はいない。
息を吸い直し再び潜ってみても、やはり誰もいない。
――――受け入れろ。
理性が囁く。受け入れたくない、どうしようもない現実。
――――稲荷は、消えた。
――――消えた。
――――この世から。
――――わたしを独り残して。
岸に上がり、稲荷の下駄を手に取った。
吃驚するような、小さな下駄。小さな、稲荷の、稲荷の、稲荷稲荷稲荷――――
「うわぁぁぁぁぁぁっっ!!あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
鼓膜が破れそうなほど、喉が嗄れそうなほど、ただ叫び哭く。
流れる涙は、凍りながら地面に落ちて砕けた。
***
――――稲荷は、男のことを覚えていた。
――――強く想っていた。
――――それなら、きっと送られていたはずだ。
――――稲荷の念に気付けなかった、稲荷を救えなかった只の人間め。
――――稲荷を死に追いやったのは、稲荷を殺したのはお前だ。
――――許さない。許さない許さない許さない許さない許さない。
***
わたしは、山を降り人里を訪れていた。魔女ではあるが、人間との見た目の違いは特にない。金髪に紺の瞳は珍しいだろうが、気にしていても仕方がない。
魔術を使い、目当てのものへと進む。未だ迷っていないところを見ると、今回は成功か。
自嘲気味に笑みを浮かべても、今更何にもなりはしない。
辿り着いたのは、小さな一軒家。ここにあの男がいるはずだ。
木製の扉を蹴破ると、家の中には呆けた顔の男がいた。
――――こいつか。
「立て」
まるで地獄の閻魔のようだった。わたしは仁王立ちし男を立たせる。まだ状況が飲み込めていないといった風だ。
「間抜け面しやがって。さっさと立て。そして歩け」
「お、おい!誰だお前は!何処へ行くんだ!?」
ごちゃごちゃと喚いている男を睨みつける。
「黙れ。歩きながら話す。早く動け」
男はびくびくと立ち上がり、歩き出した。
ときどき男の背に蹴りを入れて急かしつつ、歩くこと二時間ほど。
最初は隙をついて逃げようとしていたが、その度に捕まえていたら諦めたらしい。
わたしとその男は、稲荷が川に飛び込んだ橋まで戻ってきた。
男は何度もこちらの様子を窺い、その度に体を震わせている。本当にこんな男が稲荷を惚れさせたのか?
稲荷の純潔を奪い、孕ませた上で捨てたのか?
考えれば考えるほど、腸が煮えくり返りそうな程の怒りを感じる。
だが、口から零れる言葉はなんとも冷静なものだった。
「稲荷、という名を知っているか」
「……!」
あからさまな反応があった。人違いというわけでもなさそうだ。
「ど、どうして…お前が稲荷を…彼女のことを知ってい……」
「黙れ」
右脚で放った回し蹴りが男の肩に当たり、よろめいたところを踏みつける。
「ガハッ…な、なに…を…」
「お前如きが稲荷を呼び捨てにするな。名前を口にするな。虫唾がはしる」
そのまま右脚でグリグリと踏み躙る。男の口から掠れた声が漏れた。
――――あぁ、気持ち悪い……
「お前が、稲荷の言っていたやつだな?わたしから稲荷を奪い、穢し、想いを踏み躙った屑野郎だな?答えろよ。なぁ?」
「ち、ちが…っ…」
「何が違うんだ?妊娠させるつもりはなかったか?人間じゃなかったのが予想外だったか?お前はその程度で一度は愛し合った女を、稲荷を捨てたのか?」
「違うんだ……!」
「何も違わない。お前のせいで稲荷は、ここから飛び降りて死んだんだ。お前の血を半分ひいた赤ん坊を抱えて、泣きながら、ただ謝りながら死んだんだ。全部お前のせいだ……お前が稲荷を殺したんだ…!!」
男は、『稲荷が死んだ』という言葉を聞いて、苦痛に歪んでいた瞳を大きく開かせた。
「稲荷が…死んだ……?」
「そうだ。お前のせいだ。お前の家を出てから稲荷は何度も何度も自分の身体を傷付けていたよ。『私のせいだから、私が悪いから』って言って毎日泣いていた…!お前と稲荷が出会っていなければ、稲荷が悲しむことはなかった!稲荷が死ぬこともなかった!全部お前のせいだ!全部っ…お前の……っ…」
もう出し尽くしていたと思っていたのに、わたしの目からは涙があふれて、止まらなくなっていた。
男が起き上がり、わたしに触ろうとする気配がする。
「触るんじゃねぇっ!お前なんかいなければ良かったんだ!お前がわたしと稲荷の世界を壊していったんだ!全部!お前が悪いんだっ!!」
稲荷の花咲くような笑顔が脳裏で浮かんでは消えていく。
笑った顔、泣いた顔、困ったような顔、寂しそうな顔、嬉しそうな顔、赤子をあやす聖母のような顔。
そして忘れられないあの日の、傷付き涙し、それでも笑う美しい凛とした顔……
「…………」
男は顔を俯かせ黙りこくっている。だがもう、関係ない。
「わたしはお前を許さない…ここで殺してやろうかとも思ったが、それでは黄泉でまた稲荷と出会ってしまう……」
「…………」
「もう、同じ過ちは繰り返さない」
「…………」
「未来永劫、お前を稲荷に会わせはしない」
「…………」
心臓がある辺りを、左手で撫でる。ほんの少しだけこの身体を慈しむように。
「お前にわたしの、『不死の魔術』を移す――――お前はこれで、死ねない身体になるんだよ」
数百年前。わたしが稲荷と出会ったばかりの頃…
あまりにも永い寿命故に、ずっと独りぼっちだった稲荷の傍に永遠に居続けるために。わたしは一生分の魔力を注ぎ込んで完成させた『不死の魔術』を自分の身にかけた。
あの魔術のお陰で、本来は人間より少し長いくらいの寿命であったにも関わらず、数百年もの間稲荷と共に過ごすことができた。
稲荷がいない今、不死で居続ける意味はない。
稲荷の横に居て初めて、わたしの存在理由が生まれるから。
「それじゃあ、さようなら。現世」
指をパチンと鳴らす。わたしの身体中から光の粒子がこぼれだし、胸の前に集まろうとする。
呆気にとられた顔で男がわたしを見上げる。相変わらずの間抜け面だ。
全身にかかっていた全ての魔力が集まった。魔力の塊を男の無防備な胸元に押し込む。
上手く入ったようだ。わたしの復讐は成功したんだ。
四肢の先がもう灰になっている。サラサラと風に吹かれ飛んでいく。
――――稲荷…今行くからね……
何かがことん、と音をたてたような気がするが…それを確認する間もなく。わたしの身体は消えた。
***
魔法使いの少女が灰になって消えたあとに、小さな下駄が落ちていた。
鼻緒の赤いその下駄を、立ち尽くしていた青年が拾い上げる。
青年はそれを握り締め、涙を零した。
「稲荷……っ…」
地面に膝をつけた青年は、そこで涙を流し続けた。
拙いお話を読んでくださりありがとうございました。お疲れ様でした。