第一章 はじまりの港(二)
「おうっ、ダレン坊! 今日も手伝いえらいな!」
「アラン坊はどうした?」
「なにか困ったことがあれば、えんりょなく言えよ?」
料理を持っていくと、常連客の農夫たちから代わる代わる話しかけられた。
「坊はやめてよ、坊は。たまにおれも料理作ってんだぜ? アランは二階。またちょっとふさぎ込んでて……。それからありがとな。なにかあったら頼らせてもらうぜ」
ダレンは順番に皿を置きながら答える。どうぞごゆっくりと言い残すと、空いたテーブルの片づけに向かった。
フォークを手にし、三人の農夫たちはその様子を見ていた。
「ほんと、いい子らなのになぁ」
「おやっさんたちもさぞや心残りだろう」
「まぁでも……」
三人はちらりとカウンターに目を向ける。
「ダレン! ハンバーグセットは八百ジルだろう!?」
サナが伝票片手に叫ぶ。それはダレンが書いたものだった。
怒鳴られたダレンはびくっと身を竦ませた。
「あれ……? 六百ジルじゃなかったっけ……?」
「違うと何度言わせるんだい! 店を潰す気かい!?」
それは困る! と叫ぶダレンを、農夫たちは生温かい目で見ていた。
「おつむのできがちょーっとなぁ」
「明るくておやっさん譲りの料理の腕前なのに」
「ああいうのはアラン坊のができるよなぁ」
二人を足して二で割るとちょうどいい、というのが兄弟を知る者たちの言葉だった。肉体派のダレン、頭脳派のアラン。兄弟の父の能力は、みごとに分かれたようだ。
「でも、ま」
カウンターの奥からアランがのぞいている。騒ぎを聞きつけて降りてきたようだ。
サナに耳を引っ張られていたダレンがそれにすぐ気づいて、にっと笑みを向けた。
「兄弟そろってりゃあ大丈夫かもな」
気まずそうに兄に近づくアランと、それを笑顔で迎えるダレンの姿が農夫たちの目には映っていた。
*
「でもさ、やっぱりお兄ちゃんはむぼうだと思うよ」
店を閉めたあと、昼間手伝わなかったことの穴埋めに、アランは皿洗いをしていた。ダレンとサナは、お茶を飲みながらカウンターでくつろいでいる。
「『むぼう』ってなに?」
「考えなしにむちゃすること!」
アランはがしゃんとらんぼうに皿を置いた。
「まぁダレンだけじゃあむりだろうね」
「だからアラン誘ってんじゃん」
「おばさんもっと言ってやってよー」
言われた瞬間、サナは勢いよく立ち上がった。
「サ・ナ・さ・ん♪」
「いててて! 顔面はやめて、顔面は! サナさんごめんなさい!」
カウンターから身を乗り出して顔面を掴まれたアランは、慌ててサナに謝った。まだ三十歳と年若いサナは、おばさんと言われると鬼のようになるのだ。
言いなおしてようやく手を離してもらえたが、アランのほっぺたは赤くなってしまっている。アランはほっぺたをさすりながら、二人に向きなおった。
「海に出るには行きたいって気持ちだけじゃだめなんだよ? 潮の見かたとか海図の読み方とか……。お兄ちゃん知ってる?」
「知らないけどお前が知ってるだろ?」
「なんでぼくにまかせる気まんまんなの!?」
これではだめだ、同じことのくり返しだとアランは頭を抱える。
するとダレンが一冊の本を取り出してきた。黒い革のそれは、どうやら日記のようだ。その表紙には見覚えがある。
「でもお前もこれを読んだだろ?」
うっ、とアランは言葉に詰まった。
それは父が残した航海日記だった。たくさんの冒険をしてきた父は、その数だけ航海日記を残している。ダレンが手にしているのは、その最後の一冊だった。
「父さんは世界中を旅してきた。でも俺らが知ってる父さんは、この島のコックだ。海に心残りがなかったか、これを読んだお前なら知ってるだろ?」
兄の言葉にアランはなにも言うことができない。
父の日記に最後に記されていたのは、船を降りる日のことだった。ダレンが生まれたことを知った父は、仲間と別れ、この島で生きることを決めた。ずっとこのヒマワリ島に母をひとり残して冒険に出ていたが、子どもが生まれるとなるとそういうわけにはいかないと思ったのだ。
それでも海を嫌いになったわけではない。船と仲間と離れることの淋しさが日記には書かれていた。
「父さんはもう一度海に出たかったはずだ。俺らでその夢を叶えてやらないか?」
アランは床に視線を落としたままだ。店がしんと静まり返る。
「……お父さんの日記には、副船長さんのところに他の日記を置いてきたって書いてあった」
ぽつりと話し出したアランに、ダレンは黙って話を聞いていた。アランは眉間にしわを寄せて口を開く。
「僕はそれが読みたい。世界中を冒険するなんて無理だろうけど、副船長さんのとこまでだったら行ってもいいよ」
その言葉に、ダレンの表情がぱあっと明るくなる。今までさんざん拒否していたのにという思いがあるのか、アランは兄のそんな表情を見ないように目を反らし続けていた。
「よっしゃ! その言葉、絶対忘れんなよ!? よーしそうと決まれば準備だ!」
ダレンはバタバタと二階へ駆けていってしまった。
後に残されたアランとサナは、顔を見合わせてぷっと吹き出した。
「どういう風の吹き回しだい?」
「別に? そろそろお兄ちゃんのワガママをきいてあげてもいいなかって思っただけだよ」
相変わらず素直じゃないアランに、サナはくすくすと笑みをこぼした。
「それに……僕だってお父さんがあきらめた夢のことは気になってたんだ」
毎夜読み返した日記に、そのことが書かれていたのはただの一度だけだった。それでもアランには、それが父のどうしても叶えたい夢だと思ったのだ。
『もう一度、あの海に出たい』
自分たちがいなければ、父は今も冒険に出ていたのではないだろうか。アランが海をこばむのは、その後ろめたさもあったのだ。
「かん違いするんじゃないよ。コージさんはたしかに海の男だったけど、ちゃんとこの店も愛していた。ずっと近くにいたんだ、お前もそれはわかっているだろう?」
サナの言葉に、アランはまた黙りこんだ。
そう思っていいのか、ずっと不安だった。サナはそれを肯定してくれる。
「……それにさ! 僕らが海に出たらサナさんが困っちゃうでしょ? 店の管理とか……」
「そんなのまかせときなよ! お前たちが帰ってくるまでちゃーんと守っといてやるよ!」
サナは胸をたたいてそう言った。そのいきおいにアランは目をぱちくりさせる。そしてぷっと吹き出した。
「やっぱりサナさんにはかなわないなぁ。じゃあ、この店をよろしくお願いします」
そう言ってアランは頭を下げた。
これで不安なことはなくなった。
冒険が始まろうとしていた。