第4章
(1)
「あんたしか頼める人、おれへんのよ。お願い」
私とタクミは、スーツを着た男性に向かい、並んで頭を下げていた。梅田駅近くにある大曽根法律事務所の応接間。
「そんなこと言われても、俺は民事しかやったことないねん。それも全部、親父の補佐やで」
それは、私の大学時代からの友人で、弁護士をしている大曽根宣宏だった。彼は大学卒業後、3度目の司法試験でようやく合格し、弁護士をしている父親の事務所に「居候」していた。大学入学までに一浪し、在学中にも一留しているので、活動を始めてからまだ数年の新米弁護士だ。
「せやけど、庄吉のやつ、話がしたかったら弁護士連れて来いなんて言いよったんよ。私の知り合いで弁護士やってる人なんて、宣宏しかおれへんし」
「そら、俺かって助けてやれるもんなら、やりたいよ。特に相手が庄吉となったら余計にな」
大学時代、この宣宏と庄吉は、共に柔道部に所属していた。そして、どちらが大将の座を射止めるかで競い合っていたライバルなのだ。そのことは、私が所属していた剣道部でも、いつも話題になっていた。同じ武道系ということで、クラブ同士の交流が盛んだったのだ。
「せやけど、それだけがっちり聴取されてるとなると、逮捕も時間の問題なんちゃうか? 起訴されて裁判になれば国選弁護人もつくやろし、俺みたいな刑事裁判の経験がない、ペーペーの弁護士よりも働いてくれはると思うで」
宣宏が困ったように言う。
「起訴って……。そうなってもうたら、えらいことやんか。それまでに何とかしてもらわんと」
私が食い下がると、宣宏はチラッとタクミに視線を遣ってからこちらを見た。
「お前、アウトサイドとは仲悪いんとちゃうかったん? なんでそんなに、ジュンヤ君の肩持つねん」
すると、タクミが慌てたように身を乗り出した。
「俺が新田さんに無理を言ってお願いしたんです。ジュンヤのバアちゃん、助けてくれたん、新田さんやし」
「まあ、私も乗りかかった船やし。ジュンヤが犯人やったなんて言うたら、お婆さんも悲しみはるやろしね」
私が付け加えると、宣宏は椅子の背にもたれて腕を組んだ。
「彩香はジュンヤ君が犯人やないと思ってるんか?」
「うん。少なくともお婆さんを襲った事件はね」
「根拠は?」
宣宏に尋ねられ、私は答えた。
「お婆さんの意識が戻った時にね、ジュンヤ、ほっとしたように涙を流したんよ。弱みとか握られたくないはずの私の前で。あれは絶対、嘘の涙と違うわ」
「あのなあ」
宣宏が呆れたように言う。
「そんなもん、悔恨の涙かもしれへんやんけ。自分がやったことやけど、やっぱり無事でよかったみたいな」
「せやけど、ほんまにジュンヤは人を殺せるようなやつとちゃうんです。ヤクザの事務所に住み込んどった時かって、親分さんの身の回りの世話しとっただけで、人を傷つけるようなことはせえへんかったみたいやし」
タクミが必死で訴える。
「タクミ君、あなたが相方を信じたい気持ちはわかりますよ。でも、客観的に見ると……」
宣宏がタクミに向かって話し始めた時、宣宏の父親、大曽根宣彦が、ついたての陰から顔を出した。宣宏をそのまま熟年にさせた感じの人で、二人が並ぶと、数十年前と数十年後の同一人物が並んでいるような気さえしてしまう。初めて会った時には、笑いを堪えるのが大変だった。
「おう、彩香ちゃん、久しぶり。最近ようテレビに出てるなあ」
「あ、こんにちは。お邪魔してます」
立ち上がって挨拶すると、隣にいたタクミも慌てて立ち上がって頭を下げる。
「今、ちょっと話が聞こえてんけど――あ、座って座って」
宣宏の隣に座りながら、宣彦は私達の顔を見た。
「失礼します」
私達が腰かけるのを見て、彼は続けた。
「君らは、ジュンヤ君が無実やと信じている。そういうことやね」
「はい、そうです」
タクミが頷く。
「ジュンヤ君は、これまでにも色々な問題を起こして来ている。しかし、そういう先入観を持って捜査が進められているとしたら、それは大きな問題や」
宣彦は宣宏の方を見た。
「お前みたいな半人前以下の弁護士には荷が重過ぎるかもしらんが、警察から話を聞くくらいのことやったらできるやろう」
「おい、父さん」
「所長や。何べん言うたらわかるねん」
宣彦は、情けない顔で腕をつかむ我が子に言い放つと、こちらを見た。
「善は急げや。これからすぐ、こいつに話を聞きに行かせよう。ナンバ東署やね?」
「そうです。お願いします」
タクミがテーブルに額をこすりつけるようにして頭を下げる。私もつられて頭を下げた。
(2)
2時間後、私達3人は、大曽根法律事務所の向かい側にある洋食屋で、夕食をとっていた。名物の煮込みハンバーグ定食。大正時代から続いているというその味は、多くの食いしん坊達を虜にして離さない。雑誌やテレビの取材を断り、隠れ家的な環境を保ってくれているのも、常連達にとってはありがたい限りだ。
「まったく、庄吉は相変わらず強情な男やで。前よりひどくなったんちゃうか」
宣宏は食事の間中、悪態をついていた。久しぶりのライバルとの対面が、眠っていた闘争心に火を付けたらしい。
「で、ジュンヤには会えましたか?」
タクミが宣宏に尋ねる。
「ちょっとだけでしたけどね。彩香に言われた通り、タクミ君から頼まれたって言うときましたよ」
「ありがとう」
私はお箸を片手に微笑んだ。私の名前を出したりしたら、「弁護なんてしていらん」などと言い出しそうな気がしたのだ。
「で、何て言うてました? もちろん、否定したんですよね?」
タクミが宣宏に尋ねる。
「いや、それがねえ」
お皿を空にした宣宏は、紙ナプキンで口元を拭うとタクミの顔を見た。
「意地になってるんか、諦め切ってるんか……。警察なんてどうせ信じてくれへんとか言うて、非協力的な態度を取ってるんですよ。あんな風にしとったら、心証を悪くしてしまわへんか、心配ですねえ」
「あいつはほんまに、警察が大嫌いやから」
タクミがため息を吐きながら、残っていた最後の一切れを口に放り込んだ。私も食べ終わり、お箸を置く。そのタイミングを見計らったようにお皿が下げられ、食後のコーヒーが差し出された。いい香りだ。私はカップを持ち上げると、一口、口に含んだ。
「まず、お婆さんの事件の方やけどな」
宣宏がコーヒーにミルクを少し垂らした後、私の方を見た。
「ジュンヤ君にはアリバイがない上に、近所の人の証言がかなり不利に働きそうな感じやな。他にもいろいろあって、無実を証明するのは至難の業になりそうや」
「アリバイがない? あの日、たしかジュンヤ、どこかの工事現場でバイトしてたはずやで。そこで確認したら、わかることなんと違うの?」
驚いて尋ねる。
「それがなあ、犯行時刻と思われる時間には、彼はまだバイト先に入ってなかってん」
「犯行時刻?」
「おお。お婆さんが商店街で練りものやら牛スジやら、おでんの具を買いに来たんが午前10時過ぎ。鍋が火にかけられとったところから見て、襲われたんはそれから後や」
「ああ、あれ、おでんやったんか」
私はあの台所の様子を思い出して頷いた。
流しの端の方には、スーパーのビニール袋に入れられた生ゴミらしきものが置かれていた。そして、その周りに無造作に散らばった、ちくわやこんにゃくのカラ袋。
「おでんを作るにはいろいろ下準備がいるやろ? 事実、捨てられていた生ゴミから見て、大根の皮は丁寧に剥かれて面取りまでされとったみたいやし、卵もきっちりゆでられて皮が剥かれとったし。他にも昆布や削り節の出し殻が一緒に捨てられとったそうや。そこまで丁寧に下準備して火にかけたとしたら、まあ、どれだけ早くても昼くらいにはなったやろうな」
「牛スジかって、下準備には手間がかかるしねえ」
私が頷くと、宣宏は首を横に振った。
「牛スジは、もう下準備ができて、串に刺さってるもんを買ったそうや。お婆さん自体はあまり好きやないねんけど、ジュンヤが好きやから仕方なくって感じらしいで」
そう言えば、焦げたお鍋の中には、何か竹串のようなものが焼け残っていた。
「そうなんですよ。バアちゃん、若い頃東京にいてたらしくて、おでんはいつも関東風なんです。俺もよく食わせてもらうんですけど。最近は関東でも多くなりましたけど、もともと牛スジって関西のおでんにしか入ってへんかったらしくて」
「へえ。そうなんや」
私はタクミの説明に相槌を打った。
「せやから、犯行時刻は、お婆さんが鍋を火にかけたお昼頃から、お前が発見する午後4時頃までの間ってことになる」
宣宏が話を元に戻した。
「大体、焦げ付きかけてる鍋をそのままにしておくわけがないし、お婆さんが襲われたんは、鍋をかけてすぐの頃と考えるのが自然やろう。ジュンヤ君がバイト先に現れたのは午後3時半。まあ十分可能やな」
「せやけど、お昼頃にお鍋を火にかけたとしたら、私が見つけるまでは4時間くらいなもんやろ? そんな短時間で焦げ付くもんやろか?」
「それはダシの量とか火加減なんかにもよるやろう。そうや、お前が火い止めたんやろ? 火の大きさはどうやった?」
「そんなこと、夢中やったから覚えてへん……ああ、いや、弱火ではなかったわ」
そうだ。あの時、焦げたお鍋の下で炎が踊っていたのを見た覚えがある。中火くらいはあったはずだ。
「普通、おでんって弱火でことこと煮込むもんと違う?」
「たしかになあ」
私の指摘に、宣宏とタクミが同時に腕を組む。
「まあ、それは後で考えるとして、バイトに入るまでの間、ジュンヤ自身は何をしてたって言うてるの?」
私は宣宏に話しかけた。
「なんでも、前日、ラジオの深夜放送に生出演しとったらしくてな。終わってみんなで朝飯食って、家に着いたんは午前6時頃やったし、工事のバイトに出かける午後2時前まで、ぐっすり寝とったっちゅうねん。一人暮らしやから、誰も証明できる人はおれへんわ」
「何か連絡したとか、そういうことはなかったん?」
私はタクミに尋ねた。
「なかったなあ。俺も寝とったし」
タクミが残念そうに首を振る。
「そうか。アリバイなし、か」
「しかも、おでんのタネを買いに行った先で、お婆さんが言った言葉がなあ」
「お婆さんの言葉?」
私が聞き返すと、宣宏は腕を組んだ。
「『今日は孫の誕生日でねえ。昨夜、電話で何が欲しいか聞いたら、私のおでんが食べたいなんて言うもんやからねえ』って、嬉しそうに話しとったらしいねん。つまり、あの日、ジュンヤ君がお婆さんの家を尋ねることになってたんは間違いないってことや」
「ふうん」
今度は私が腕を組む。宣宏は続けた。
「あのお婆さん、若い頃は飲み屋のおカミをしてはったそうでな。それで、そこの常連やったトキタフーズの前社長に見初められて後妻に入りはってんて。その飲み屋っていうのが、おでんがウマいので有名やったらしくてなあ。今でもちょいちょい作りはるそうやねんけど、ジュンヤ君はそれが大好物やったらしいねん」
「ほんまにウマイんですわ。俺も大好きですし」
タクミが微笑む。
「そうやったん。それで、お誕生日に食べたいなんてねえ」
私は頷いた。
「実はな、ジュンヤ君が犯人やとされている根拠として、銀行のカードの問題もあるねん。どちらかというと、こちらの方が状況証拠としては有力やな」
お婆さんの家からは、現金の他に銀行のカードも持ち去られていた。そして、犯人はその日の午後3時頃に、そのカードを使って銀行のATMから現金を引き出したことが確認されている。
防犯ビデオに写っていたのは、野球帽を目深にかぶり、サングラスにマスクという出立ちの、若い男性だった。彼は、暗唱番号の入力に2回失敗し、3回目でようやく成功している。
1回目はお婆さんの生年月日。2回目は現在の家の電話番号。そして3回目が、お婆さんが住んでいた昔の家の電話番号。これが正解だったわけだ。
お婆さんの生年月日は保険証などで簡単に確認できるものだし、現在の電話番号だってすぐにわかるだろう。しかし、お婆さんが昔住んでいた家の電話番号なんて、そうそう知っている人がいるとは思えない。タクミに尋ねたところ、彼も知らないとのことだった。
「つまり、すべてがジュンヤを指し示しているってこと?」
話が終わったところで宣宏を見ると、彼は小さく頷いた。
「おまけに、ヨシロー君の事件の方やけどな」
宣宏が続ける。
「ヨシロー君の本名は五十嵐嘉朗。河合プロを辞めてからは、いろいろな女の所を渡り歩いて、ヒモみたいな生活をしとったみたやな。ルックスもいいし話も上手いし、ひっかかってまう女も多かったそうや」
「あいつはほんまに……。まだそんなことしとったんか」
タクミが溜息を吐く。
「で、そのヨシローが殺されたのと、ジュンヤとの間に、どんな関係が?」
私は尋ねた。
「殺人現場で目撃されてるんや」
宣宏が眉毛を掻きながら言う。
「殺人現場でって?」
「ヨシロー君は、彼の自宅で刺殺された。その部屋から走り去るジュンヤ君の姿が、ヨシロー君と同じマンションの住人に目撃されたらしいねん。時間は午後11時頃。死亡推定時刻とも、ほぼ一致する」
「ほんまにジュンヤやったん?」
私が尋ねると、宣宏が頷いた。
「目深に帽子をかぶっとったし、横顔がちらっと見えただけやったらしいけど、テレビで見たことがある顔やったしすぐわかったって話やな」
「で、ジュンヤは、その時間に何をしてたって言うてるんですか?」
タクミが身を乗り出して尋ねる。
「それが、家で寝とったって言うてるんですけどね。近所の人に、朝方戻ってくる姿を見られてるんですわ」
宣宏が残念そうに答えた。
「でも、万が一、ジュンヤが犯人やったとして、何でヨシローを殺さなアカンかったんですか?」
タクミが泣きそうな顔をして、宣宏を見る。
「ヨシロー君、殺される前日に知り合いに言うとったそうなんですよ。『もうすぐ大金が入りそうや。正義ヅラして俺を捨てたジュンヤへの復讐や』って」
宣宏が答える。
「それって、ジュンヤを恐喝してたってこと?」
私が口を挟むと、宣宏は頷いた。
「多分な。でも、ジュンヤ君には支払える金なんてなかった。だから殺した。警察はそう考えてるみたいやな」
「せやけど、ジュンヤを脅すにしたって、どんなネタがあるんやろ? あいつは、経歴を全部公表してるわけやし、殺してまで守らなアカンことなんて、何もないはずや」
タクミが自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「ジュンヤ君がお婆さんを襲ったことを、知られてもうたんちゃうかと警察は見てるみたいですね」
「ヨシローが、警察にたれ込むぞとか言うて、脅したってことですか?」
「残念ながら、辻褄は合ってしまいますよね」
タクミの質問に宣宏はそう答え、カップを持ち上げた。
「争った跡とか無くなったものとかはなかったん?」
私が尋ねると、宣宏は手にしていたカップをテーブルに置いた。
「争った跡は無かったらしいな。ただ、部屋から無くなってたものはあったみたいや」
「何?」
「ヨシロー君、ミニカーを集めとったんやけどな。そこからひとつだけなくなってたらしいんや。ランボルギーニ・カウンタックやねんけど」
「ランボルギーニ・カウンタックのミニカー? 犯人が持ち去ったの?」
意味がわからず尋ねる。
「ヨシロー君が殺される前日に、ヤツの部屋を訪ねた女がおったそうやねん。その子が言うには、その時にはコレクション・ボードに空いているスペースはなかったらしい。指紋はヨシロー君のもんしか出てへんみたいやけど。犯行後に無くなっていることが確認されとるわけやし、犯人が持ち去った可能性が高いやろな」
宣宏が残りのコーヒーを一気に飲み干す。
「あの、ヨシローの部屋を見せてもらうことってできないんですか? どんな状況なのか、知りたいんですけど」
対照的にコーヒーにほとんど手をつけていないタクミが、すがるように尋ねた。
「明日の朝、見せてもらえるように手続きをとってありますけど。一緒に行きはりますか?」
宣宏がタクミを見る。
「お願いします」
タクミが頭を下げた。
(3)
翌朝、私達3人はヨシローのマンションを訪れていた。オートロックで2LDK。男性の一人暮らしには広過ぎるような気がする。
「ヨシロー君は、リビングから廊下に出るところに倒れていたらしい。背後から刺されとったって話やし、抵抗することもなかったんやろうな」
玄関を上がったところで、宣宏が警察から聞き出した状況を説明した。床に広がっていたであろう血液はきれいにふき取られていたが、壁のところどころには飛び散った血が残されている。ここが殺人事件の現場となったことを実感せずにはいられない。
「ここでヨシローが……」
タクミはそうつぶやくと、両手を合わせて目を閉じた。一度は同じ事務所で仕事をした仲間だ。思うところがあるのだろう。
「凶器は何?」
ようやく目を開けたタクミを横目で見ながら、私は宣宏に尋ねた。
「出刃包丁が体に刺さったままになっとったそうや。ヨシロー君は料理を一切せえへんかったらしいし、犯人が持ち込んだんちゃうかって話やけど。指紋は拭き取られとったみたいで、検出されへんかったって」
宣宏は答えると、廊下の奥の方に目を遣った。結構広いその廊下には、いくつかのドアが並んでいる。
「ミニカーが飾られているコレクション・ボードは、寝室にあるって話やねんけど、寝室はどこやろな」
「寝室ねえ」
私はとりあえず、一番手前のドアを開けてみた。
「ここはトイレやな」
蓋にはピンクのカバーがかけられており、手洗い場にはドライフラワーが飾られている。出入りしている女性がいたのかもしれない。
「ああ、ここや」
トイレの向かい側にあるドアを開けた宣宏が、私達の方を振り返った。
宣宏に続き、寝室に足を踏み入れる。真ん中には存在感のあるセミダブルのベッド。サイドテーブルの上には数冊の雑誌が無造作におかれており、灰皿には吸殻がたまっている。
「コレクション・ボードはこれですね」
窓際に置かれていたガラス張りの棚を指差して、タクミが言う。後ろから覗き込んだ私は、思わず声を上げた。
「細かいなあ。きちんと車種の書かれた札まで置かれてるし」
「うん。しかも国別に並べられてるで。――カウンタックはここに置かれてたみたいやな」
細かく仕切られた枠の中に、ひとつだけ空間がある。札を見ると、几帳面な字で「ランボルギーニ・カウンタックLP400」と書かれていた。宣宏がコレクション・ボードのガラス戸を開けようとしたが、鍵がかかっているようで動かない。
「警察で聞いた通りやな。鍵がかかってたって言うてたから」
宣宏はしゃがみ込むと、鍵穴を眺めた。
「無理に開けられた形跡もない。鍵を開けてカウンタックを取り出した後、また鍵を閉めたんやろうな」
「じゃあ、犯人は合鍵を持ってたってこと?」
私の質問に、宣宏はしゃがみ込んだまま答えた。
「サイドテーブルの引き出しの中に、鍵が入っとったそうやで」
「ということは、犯人は鍵のありかを知っていたってことになりますね。前にここに来たことがある人物なんかな」
中腰になって鍵穴を覗き込んでいたタクミが首を傾げる。
「そういうことでしょうね」
宣宏は言いながら立ち上がった。
(4)
私達は、リビングへと場所を移した。10畳ほどのリビングには革張りの大きなソファーが置かれ、その上には見るからに高そうなクッションが2コ、無造作に並べられている。
「このガラステーブルの上には、黒いサインペンと封筒、コーヒーの入ったマグカップがひとつ置かれていたそうや。それから、テーブルの下にハンマーと雑誌が落ちとったらしい」
宣宏が、ソファーの前に置かれたテーブルを指差して説明する。
「ハンマー? 何でそんなもんが必要やったんですかね」
タクミは不思議そうに言うと、ソファーに座り込んだ。
「雑誌の表紙にくぼんだ傷が何ヶ所か付いとったらしいんです。何かをその上で叩いたんでしょうね」
宣宏も、タクミの隣に腰を下ろす。
「今回の事件に関係あるんでしょうかねえ」
タクミはため息を吐いてソファーの背に体を沈めたが、すぐに体を起こした
「いたっ。何や」
彼の背の下には、クッションがあった。
「どないしたん?」
私が尋ねると、彼はそのクッションを手に取り、両手で思い切り押し始めた。
「何か硬いもんが入ってるで。なんやろ」
宣宏がタクミの手からそれを受け取ると、カバーのファスナーを開けた。中から取り出されたヌードクッションは、その一部が破られている。宣宏は慎重にその中に手を入れると、そっと何かを取り出した。それは、丸められた古新聞だった。
「何か包んであるみたいやで」
周りに付いた綿を取り除きながら、宣宏が新聞を広げる。
「これ……」
中から出てきたのは、無残に破壊されたミニカーだった。赤と黒のツートーンカラーだが、あまりのひしゃげように車種など細かいことはわからない。
「この黒色、サインペンか何かで塗ったみたいやな」
宣宏は新聞ごとテーブルの上に置き、ポケットからハンカチを取り出した。それで包むようにしてミニカーを持ち上げると、かろうじて原型をとどめているドアの部分を指差す。
「ここに入ってるライン見てみ。ちょっと歪んでるやろ?」
「ほんまですねえ」
タクミが覗き込む。
「ねえ、サインペンとハンマー、これを作るために使ったんと違う?」
私は思い付いて2人を顔を見た。
「ってことは、これはあのコレクションの中にあったカウンタックってことか?」
宣宏が言いながら首を傾げる。
「そんな、自分のコレクションをこんな形にするかなあ」
「1979年11月18日か。また、えらい古い新聞に包んでますねえ。俺がまだ4歳の頃ですわ」
タクミがテーブルに広げられた古新聞を指差した。それは、一枚の紙面を4分の1ほどの大きさ破り取ったものであり、色はかなり変色している。
「こんな風にクッションに隠してあるなんて、何かイヤな感じやな。事件に関係あるかわからんけど、警察で調べてもらった方がよさそうや」
宣宏はそう言うと、ミニカーを元あったとおりに包み直した。