雨中燻火
瀬戸内海を望む市立霧ヶ崎高校の午後3時過ぎ、その窓から覗く町並みは強雨に煙っていた。
「あちゃー! 参った」
長い髪を振り乱す程のオーバーなアクションで嘆いた左京つばさは、窓を恨めしげに睨んだ。
朝の空で一日の天候を占う習慣を持つつばさは日本晴れの朝の空を満足げに見上げて登校し、正午をまたぐとともに急速に崩れていった天気に放課後になってやっと気付いたのだった。この細やかさの欠け具合は、さすがに女性として如何なものかと父母は宣うが、つばさにとっては知ったことではないのだ。
つばさはこういう時に参ったと口に出しても、迷ったりはしない。どうしたらより良いかを考え、そのように行動する。それが生き残りのコツだと妙な格闘技を伝承する祖父に教え込まれながら育てられて以来十と五年、困ったときの判断の早さはつばさの密やかな自慢の種だ。
「おーい、水江ー!」
窓に視線を向けたまま幼馴染の片島水江を呼ばわる。
すると後ろからとてとてと軽そうな足音が近付いてきて
「なぁに、つばさ?」
と足音から受けるイメージに違わない小柄な女の子がそう訊いた。
つばさは水江の反応に内心だけで満足して、つとめてゆっくりと鷹揚に向き直った。
「傘が無いんだ、入れてくれィ」
「あら、あたくしの傘にお入りになるおつもり?」
水江豹変。ここ最近水江が読んでいるSF小説の、大貴族にして宇宙艦隊の提督である登場人物の口調であった。
周りで会話を聞いていたクラスメート達は、水江の言葉に一瞬つんのめった気がしたが、そこはつばさ、長年一緒に居ただけあって時たまの水江の成り切りにも慣れたもの。
「はい。もし宜しければ」
つばさは何事も問題は無いかのように返事。しかしそのへりくだり方は、さっきと立場がまるっきり逆。
「あたくしはね、一緒に傘にお入りになる方を選ぶの。そうね……あなたはギリギリ合格といったところ」
「光栄です、提督」
つばさは水江に一礼し、そのまま水江の後をついて教室を出て行ってしまった。
(何が提督かーッ!?)
クラスメートのココロの声は、全くもって2人には無視された。だって口から出さないんだもん。
水江の傘は可愛い。ピンク色の地に控えめな紫陽花の模様。
水江の傘は小さい。小柄な女の子が持つと丁度良い大きさ。
だからその傘に2人が入ろうとすると、どうしても役者不足の感が否めない。
かくして傘を持つのは背の高いつばさの役目になった。
「ところでさ、さっきの話だけどさ」
教室での会話で少し心に引っかかるものがあったつばさは、右手に持った傘を心持ち右に多めに傾けながら、そう水江に切り出した。つばさの右を控えめな足運びで歩いていた水江は不思議そうな表情で「ん、何?」とつばさを振り仰いで尋ねる。
「傘に入る人間を選ぶって言ったよな? あれってどう選ぶんだ? あたしがギリギリ合格って言ってたけどさ」
水江はつばさの台詞で合点が行ったようで
「うん……一緒に傘に入る人がつばさか、そうじゃないか。だから、つばさだけ」
と答えた。『ギリギリ合格』と判定されて実は内心穏やかではなかったつばさにとって、正しくそれは不意打ちで、水江の言葉に情けなくもつばさは赤面してしまった。
「くはぁ! 可愛い事言うじゃないか水江ー」
本当なら抱き締めて頭をわしゃわしゃと撫で掻き回したかったけれども、傘があるのでそれは遠慮して。傘を持った右手を――雨だれが水江に掛からないように注意だけは払いながら――水江の首に回してぎゅっと掻き寄せた。暖かい水江の頬が、雨を含んだ風で冷めた胸に気持ち良かった。
水江は一瞬だけつばさの顔を見上げて、にこぉっと笑った。
その笑顔が嫌になるくらい眩しく眼に焼きついて、慌ててつばさは水江の顔を自分の胸に埋めた。呼吸を封じられた水江は苦しがって顔を横に向け、ほぅっと一息吐いてからゆっくりと自分の頬を摺り寄せた。
傘に当たる雨の音が煩くて、だけどその音が水江への気持ちで少し大きくなった呼吸音を消してくれるのはつばさには有難かった。
そっと左手も伸ばして水江の肩を抱いた。そしてそのまま水江を抱き上げるように力を加える。水江もその意図を察して、つばさの表情を窺うように上を向いた。唇をそっと水江の顔に寄せると
「……駄目。他人に見られるから」
軽い拒絶。つばさを拒む手と言葉に力が無いのを感じて
「大丈夫。雨で誰も居ないよ」
とだけ言って、以降つばさは水江の抵抗には構わず水江の唇を啄ばむように軽く吸った。
目を閉じて吸われるままの水江が周囲を気にしておどおどしている様が、つばさには少しおかしかった。今ここに居るのは、この2人だけだというのに。未だにこういう事に慣れないのだ。
つばさはもう少しじっくりしつこく攻め上げたかったが、水江の方が周囲を気にして集中できない様子だったので、この場では諦めて柔らかな頬を撫でたり艶やかな髪の毛にキスをしたり、仔猫同士がじゃれ合うような行為に切り替えた。
「つばさ、肩が濡れてる」
そのうちじっと添っているだけになっていた水江がぽつりとそう言った。つばさはちらりと左肩を見て濡れ具合を確認して
「良いよ、水江が濡れなきゃ」
と答えた。
「駄目。ちゃんと拭かないと。風邪を引くから」
ぐいと右腕が引っ張られた。水江はつばさを強引に引っ張ろうとしていたのだが、その為に身体が傘の外に出てしまっていた。それでも水江は構わずつばさを引っ張ろうとするので、つばさは慌てて水江に付いて行く羽目になった。
1度思い込んだら水江は頑固だからな、と考えて思わず苦笑をもらしてしまうと、水江は頬を可愛らしく膨らせてつばさを見上げて
「つばさ早く服を乾かさないと。私を濡らさない為に風邪なんか引くくらいなら、もう2度と同じ傘に入れてあげないから」
と珍しく強い調子で諭した。
全く、水江には敵わない。
つばさは苦笑を深くしながら、片島神社のある片島山への道を小走りに、それでもなるたけ水江を濡らさない様に、急いだ。
水の滴る好い男とは良くも言ったもので。
いや、つばさも水江も女の子なのだけれども。
脱衣所で厚手のバスタオルに包まれたつばさは、もこもことしていて何だか可愛いと水江は思った。
されるがままに身体を拭かれているところも、高ポイント。くしゅくしゅと長い髪の毛を包んだタオルを気をつけて柔らかく揉む。つばさの髪は綺麗で長いが気を付けないとすぐに傷んでしまうので、水江はつばさの髪の手入れに最大限の気を遣っている。
「ふぇっひゅ!」
くしゃみも普段の口調からはとても考えられないほど柔らかい。他の皆は認めてくれないんだけど、と水江は残念に思った。
しかし内心は内心、外面では眦を引き締めて厳しい表情。
「もう。だから言ったのに。私を濡らさないためにつばさが濡れちゃったら傘に入れた意味が無い、そうでしょ?」
つばさの頭を拭く力を心なし強めた。髪の毛がかき回される音がわしゃわしゃと聞こえる程度に。
「ぅー」
力の無い唸り声。普段より幾分乱暴な手つきに、つばさは髪の毛をつんつんと引っ張られていた。気持ち良いのだけれども少し痛い、そういう微妙な感じ。
「つばさ、聞いてる?」
水江の声も少し剣呑さを増して。
「んー?」
つばさは平坦な発音で水江に応えた。水江はその投げやりな返事に眉を吊り上げた。本気で怒った。
「……もう、つばさなんか2度と傘に入れてあげない」
「いいじゃないか。あたしは水江が風邪を引かなきゃそれでいいんだよ」
「つばさっ!」
水江は叫んで、つばさを包んでいたバスタオルを取り去った。
そのままつばさを睨み付ける。つばさも平然と水江の視線を受け入れた。
「あたしは、決めたんだ。水江をどんな事どんな物からでも守る。相手が強盗だろうが暑さ寒さだろうがね。その為だったらあたしが風邪を引くぐらい何でもない。もう、決めたんだ」
決然とつばさは言った。宣言するように。
「馬鹿!」
一方の水江の評価は辛辣なもの。吐き捨てるように言うと、つばさの肩を掴んで体重を乗せて押し込んだ。つばさの足がバランスを崩して、腰が洗濯機に受け止められた。
水江は平然としているつばさの眼を睨み付けた。つばさの瞳はあくまで揺るがない。
(きっと、つばさは私のことを守る対象としか考えてない。つばさにとっての私との関係は、互いに支えあう関係じゃなくて、保護者と被保護者のそれなんだ)
そう考えると、水江はどうにも悲しい。そしてそれを理解してくれないつばさがもどかしい。
「つばさは」
水江はつばさの瞳を覗き込んだ。深い黒。綺麗だと水江は思った。ただその黒だけで、今までの激しい怒りが鎮まって行く。
「私のこと、どう思ってるの? つばさの子供? それともピンチの度に救いの王子様を待ってるお姫様?」
沈み込んでしまいそうに深い色。いつしか体勢はつばさの上にのしかかるようになっていた。
つばさは答えない。違うと言いたくはあったが、今水江の言葉を遮ることは出来なかった。
黒い瞳に牽かれるように水江はつばさの顔に頬を寄せた。
「私はね、そんなのは嫌」
動かないつばさの唇を、何かを促すように水江は小さくちろりと舐めた。つばさの息が睫毛にかかってくすぐったいと思った。
「私だってつばさの事を守りたいの。守られるだけじゃなくて、支えられるだけじゃなくて」
それだけを言うと、水江は感極まって自分の唇をつばさの唇に合わせた。つばさの唇は冷え切っていて、冷たかった。
最初はただ合わせるだけで。徐々に強く、押し付けるように。つばさの唇を貪るように吸い付いて、水江は段々とつばさの内面に斬り込んで行く。つばさの唇にも温かみが戻ってくるのが感じられ、それだけでも水江は微かな満足を感じる。
まるでブレーキの壊れた自転車で坂道を下るようだと――水江自身はそういう状況に陥った事は無かったが――思った。自制が全く利かない。敢えて自制しようとも思わない。もっと深くつばさに入り込みたい、つばさを熱くしたいと、それだけを考えた。
鼻でせざるを得ない呼吸音が淫靡だと思った。
舌を少しだけ、出してみた。つばさは口を開いて水江の唇を受け入れていた。つばさの歯茎に軽く触れてみた。つばさの首筋がぴくりと震えた。いつもはつばさの方からしてくる事なのに、受身になった途端にこんなことで敏感に反応するつばさがやけに可笑しい。面白かったので少しの間つばさの歯茎で遊んでいたら、つばさの舌が水江の舌に逆襲を仕掛けてきた。
舌の裏側から、表側から、形を変え強さを変えつばさは水江の舌に自分の舌を絡ませようとした。くすぐったくて痒い不思議な感触。いつもの水江はこれが苦手だ。しかし今日いまこの時だけは、その感覚に言いようも無く興奮しているのが分かった。どうしようも無いほどに唾液が口の中で生み出され、舌を伝ってつばさの中に入り込んで行く。つばさはいつもこう感じているんだと、こんな時なのに得心がいった。つばさがこれを好きなの理由が、水江にも解った気がした。
いつもは攻撃的なつばさが今日に限って水江にされるがままに従順に、水江の唾液を飲み、水江の舌を受け入れ、瞳を閉じている。いつもとは逆の立場。きゅっと、水江の制服のブラウスを掴んでいたつばさの手に力がこもった。
時偶に、発作のようにつばさが執拗に水江を求めるが、今はつばさが貪られる立場だ。つばさの口内を思うがままに玩びながら、水江は楽しげに鼻で笑った。少し無理をして舌を伸ばして、つばさの上あごの内側を軽く擦った。水江の弱い場所。それだけでつばさの膝から力が失われるのが解った。
水江は更につばさの上にまわり、圧し掛かるというよりは押し倒したという配置になった。
2人の唇の合わせ目からはひっきりなしに水っぽい音と涎が漏れ出していたが、そんな事は全く気にならない。それどころか唇から漏れ出る涎をすべて舐め集めてつばさに流し込みたいとまで水江は思う。しかしその為に唇を離してしまうのが惜しい。それに段々と呼吸が苦しくなってきていた。鼻だけでは呼吸が追いつかないのだ。このままではいつか息苦しさの限界がきて唇を離さなければならない。
それなら、せめてその時までは。
人類の設計者が居るならば。水江はそういう存在を恨んだ。どうしてもうひとつ呼吸器官を設けなかったのか。それさえあれば、まだまだつばさとお互いを貪っていられたものを。
もう水江が一方的につばさを玩んでいるという事も無く、2人は互いに舌を入れ合い絡め合い時に相手の舌を甘噛みして、くすぐったさと痒さと痛さの境界線上にある快感を引き出そうと必死だった。
その内に不足した酸素が脳髄を締め上げて、悲鳴を上げた心臓が必要以上に強く鼓動を打ち出し、視界が白み始めた。
最後の瞬間、水江は名残惜しくつばさの唇から離れ、盛大に深呼吸をしてからつばさの上に倒れ掛かった。
水江の体重を急に受け止める羽目になった洗濯機の足が、ゴムが擦れる音で小さく鳴いた。
荒い息の中で、水江はもそりと起き上がった。
「ねえ、つばさ……」
洗濯機の蓋の上に仰向けになったままのつばさの顔に水江は自分の顔を近づけようとして肘に力が入らず、そのままつばさの胸に顔を埋めるように臥してしまった。顔だけを起こしてつばさと向き合う。
「……私、つばさが大好き。だから、いいよね……」
水江はそう言って、つばさの首筋にかかった髪の毛を払った。
「何?」
激しいキスの応酬から立ち直りきれていないつばさは、半分呆けたまま、動かずに水江を視線で追いかけた。
「いいよね、印、付けても」
水江は顕になたつばさのうなじに、つばさの返事も聞かずに唇を付けた。
「おい、水江?」
つばさが水江の意図を理解したときには、もう水江はつばさのうなじを思い切り吸い上げていた。こりゃ痕になるなと思いながら、つばさは同じように目の前にあった水江の肩口に吸い付いた。キスマークが付くように。
1分くらい、あちこちにそうしていたか。水江が唇を離して、こう言った。
「つばさ、身体が冷えてるよ。一緒にお風呂、入ろ?」
つばさに否と答える口があろう筈も無い。
翌日。学校。
「おーい、水江!」
「なぁに、つばさ?」
「髪を結ってくれィ」
いつものように水江に髪を結ってもらって体育の授業に臨んだ左京つばさ15歳。課題の9人制バレーボールをバスケットボールでプレイするという荒業に挑戦し『火の玉スパイク』とやらで相手チームの人員を9人程リタイヤさせた。
「……つばささんが敵じゃなくて良かった……」
試合が終わってくつろぐ左京チームご一行様。あからさまにほっとした山城玲の言葉がその場の全員の心の代弁。
「あっはっは褒めても何も出ないがもっと褒めてくれい」
つばさは長いすに座って、いかにも床几に腰掛けた武将風に鷹揚に賛辞を受ける。
「ん?」
それに玲が最初に気付いた。
「つばささん、首筋のところ、何だか赤くなってるよ?」
その言葉を契機に始まった騒動は『左京つばさに春がきた? ご冗談でしょうファインマンさん』と一部によって名づけられ、大変なことになった(と山城玲は後に言った)。
(どっとはらい)