【洗濯機が止まる夜】─香る花は、まだ咲かない─
この作品は、重たい内容を含みますので、以下の点についてご注意ください。m(_ _)m
【DVや束縛、監視・性的被害・妊娠・精神的に追い詰められる場面が描写されています】
苦手な方、読むことでつらい記憶を思い出してしまう可能性のある方は、無理をせずお戻りください。
それでも、最後まで読んでいただけたなら幸いです。
清坂正吾様主催のゴリラパーティー祝了|´・ω・)<として書いていました。企画は盛大な盛り上がりの中、終了いたしました!
【洗濯機が止まる夜】
夜の洗濯機は、いつもどこか遠い場所で、小さな生き物が泣いているみたいな音を立てる。
ゴトン、ゴトン、と規則正しく躓きながら、水を吸った衣類の重みを持て余している。
洗面所の薄暗い蛍光灯は、片方の紐がわずかに切れかかっていて、点くたびに小さく瞬く。
その頼りない光の下で、私は、回るドラムをぼんやりと見つめていた。
丸い窓の向こうで、水と泡にまみれた彼の灰色のTシャツと、私の白いブラウスが、何度も何度も重なり合い、もつれ、離れていく。
ドラムが一段深く沈み込んだ拍子に、扉の隙間から一瞬、甘い香水と柔軟剤の混ざった匂いが立ち上った気がした。
鼻の奥がつんとして、思わず息を止める。
(――雅人。)
心の中でその名を呼びかけ、すぐに「……違う」と打ち消す。
指先で自分のこめかみを軽く押さえた。
以前の柔軟剤ボトルは、もう三ヶ月も前に空になって、燃えるゴミの日に捨てた。
いま回っているのは、荒々しい体臭と、量販店の安売りワゴンで買った合成洗剤の、少し薬品じみた匂いだけだ。
頭では分かっているのに、私の鼻はまだ──いない人の匂いを探している。
その名前を、最初に覚えたのは、もう三年も前のことだ。
◆ ◆ ◆
昔から、男なんてどれも似たようなものだと思っていた。
貧しい家と理不尽な父に我慢できず、若さに任せて流されている時に会っていた男たちがいた。
断り切れない理由を握られて、嫌だと言っているのに、聞く耳を持たず強引に押し通された夜もあった。
体の上を通り過ぎていくその時間を、私はいつも、天井の染みの形を数えることでやり過ごしていた。
──過去に一度、妊娠したことがある。
『産むのか?』と聞かれたとき、私は『……どっちでもいい』としか答えられなかった。
自分の人生にも、お腹の中の芽にも、何一つ意志を持てなかった。
処置の同意書にサインをするとき、ペン先が驚くほど滑らかに動いた。
病院の帰り道、悲しくて泣くことも、ほっとすることもなく、コンビニで買った肉まんを食べた。
皮の破れ目から立った湯気の匂いだけが、やけに鮮明に記憶に残っている。
親には何も言わず、その夜は寝て──
次の朝、凪いだ水面みたいな自分の内側を覗き込んで──
そこに何も映らないことに、初めて底知れない恐怖を覚えた。
だから──花屋で彼に出会ったときも、自分が誰かを好きになるなんて半ば諦めていた。
閉店間際、しおれかけた鉢植えを裏の廃棄用ボックスへ運んでいた私に、彼は「それ、まだ生きてますよね」と声をかけてきた。
仕事帰りらしいくたびれたスーツ姿で、萎れかけたガーベラの束を指差していた。
「仕事終わりの労いってことで、僕にください。……僕とあなたの一日の」
そう言って笑う顔があまりに無防備で、私は思わず「……変な人」と呟いた。
彼──雅人は、それさえ嬉しそうに受け取った。
──彼は、私の「過去」も「嫌なこと」も、小さな言葉のひとつひとつを、急かさず、静かに聞いてくれる人だった。
相槌の間が、いつも私の速度に合っていた。
「──私、誰かと一緒に暮らすのって、ちょっと怖いんだ」
ある夜、酔った勢いでそう漏らした私に、雅人は私の手をとって言った。
「じゃあ、怖くなくなるまで僕がいるよ」
握る力は優しかったのに、手のひらの温かかさだけはいつも変わらなかった。
男と一緒にいることが「耐えること」ではなく「一緒に生きること」なのだと、人生で初めて私に教えてくれたのが雅人だった。
ある日の帰り道、雅人は店裏の小さな鉢植えの前でしゃがみ込み、若葉をじっと覗いていた。
「これ、育てるの難しい?」
「そんなに難しくないよ。水をやりすぎないことくらい」
「じゃあ、僕にもできるかな。……いつか、何かを育てる練習」
私が「何それ」と笑って流すと、雅人は耳の先を赤くして「いや、なんでもない」と誤魔化した。
半年前、私たちは駅前の2LDKへ引っ越ししていた。
商社勤めの彼の収入で、家賃も生活費も、心配はいらないはずだった。
けれど私には、花屋のアルバイトを始める前、短大時代に友人の借金の保証人になって背負わされた分割払いが、まだ残っていた。
花屋で働き続けることを快く了承してくれる、雅人にはずっと言えずにいた。
毎月、こっそり自分の口座から返済していたそれだけが、唯一、彼に隠していたことだった。
──その彼が、ある日突然、部屋から荷物をすべて消して居なくなった。
歯ブラシも、充電器も、ベランダに干していたシャツも。
私のLINEも電話も拒否され、残されたのは失踪の直前に届いた『少しだけ、待ってて』という一言だけだった。
──雅人の口座から家賃が引き落とされなくなり、保証人のいない部屋から、私はひと月で追い出された。
結局「少し」が明けることはなく、私はまた、たったひとりで暗闇の中に放り出された。
残っていたのは、私自身の、誰にも頼れない借金だけ。
直後──行き場をなくして途方に暮れていた私のもとに現れたのが──健吾だった。
この部屋の新しい主。
以前から花屋の常連で、顔と名前くらいは知っていた。
駐車場で、督促状を握りしめて立ち尽くしていた私に、彼は缶コーヒーを差し出しながら言った。
『困ってるなら、うち来れば? 家賃なんていらない。飯くらい食わせるから』
そのとき差し出された手が、こんなにも毛深く指の太い、爪の四角いものだとは──正直まだ私の中を掻き混ぜるのに、馴染んでいない。
蜘蛛の糸にしがみつくように身を寄せたけれど、「助けてもらった」という恩義は、あっという間に『所有されている』という服従に変わっていった。
財布の中身を見られるようになり、友人の連絡先を消され、気づけば、スマートフォンの位置情報アプリが二人の間で常にオンになっていた。
日焼けした肌には傷の跡がそこかしこに残り、どこか獣めいた威圧感を醸し出していた。
前の雄の痕跡を消し、自分の縄張りを主張する――人間の皮をかぶったゴリラ。
心の中で、そう嫌悪した。
……けれど、その言葉が脳裏を過ぎった瞬間、吐き気がした。
健吾を獣だと思った、その目で、私は自分自身を見ていた。
(じゃあ、前の男の、子を堕ろした私は……?)
──先週、産婦人科の薄暗い診察室で受け取ったエコー写真を隠している。
妊娠十週目。
姿を消した雅人の子供だった。
花屋の仕事は、辞めていなかった。
健吾には「もう辞めた」と嘘をついている。
彼が仕事に出ている火曜と木曜の午後だけ、私はまだ、駅裏の小さな花屋の作業室に立っていた。
「水切り、深めにね。切り口が空気に触れる時間が長いほど、水を吸い上げにくくなるから」
新人のアルバイトの子に手ほどきをしながら、鋏でバラの茎を斜めに落とす。
水の中で切ること。
空気に触れさせないこと。
良く切れる鋏を使うこと。
それは雅人と暮らす前、店長から教わったことをそのまま受け継いだ、数少ない私の得意なことだった。
「香織さん、花に詳しいですね」
「好きなだけよ」
好き、と口に出してから、自分でも少し驚いた。
あの部屋では、一度も使っていない言葉のような気がした。
店の奥、誰の目にも留まらない棚の隅には、小さな鉢植えが一つ、置かれている。
挿し木から育てた、名前も知らない観葉植物。
半年前、雅人と初めて同棲した頃──売れ残っていた鉢の、枝を一本もらって挿したものだった。
健吾は、この奥に来たことがない。
だから、この鉢のことも知らない。
今度は、違う。
初めて、失いたくないと思った。
◆ ◆ ◆
そこまで思い出していた時だった。
「それ、まだ終わらないのか?」
背後から、低く掠れた声がした。
健吾だ。
部屋着のスウェットパンツを一丁引っ掛けただけで、分厚い胸板と野性的な筋肉の隆起が、薄暗がりの中でくっきりと陰影を描いている。
洗面所のドア枠に肩をもたせかけ、煙草の箱を指先で弄んでいる。
「あと十五分くらい」
私は肩越しに彼の無骨な体躯をちらりと盗み見ると、逃げるようにまた洗濯機の赤いデジタル表示へと視線を戻した。
「チッ……放っておけばいいだろ。終わったら勝手に止まるんだからよ」
健吾は鼻で小さく息を吐き、後ろから私の腰に腕を回した。
大きな、固い手。
「早く来いよ。突っ立ってると冷えるだろ」
爪の間に染みついたオイルと煙草の匂い、汗ばんだ皮膚の独特な熱気が、うなじにかかる。
健吾の親指が、私の下腹部に不躾に触れた。
私は咄嗟に呼吸を止め、腹の奥にぐっと力を入れる。
「……ううん、生乾きになっちゃうから、終わるまで見てから行く」
乾いた洗剤の香りの下で、体温だけが妙に生々しい。
――バレてはいけない。
まだ、絶対に。
私の背中が、彼の胸に押し付けられる。
「ねえ、健吾」
強張る体をどうにか宥め、私は彼の胸に頭を預けながら、乾いた声で呟いた。
「なんだ?」
「……私、もし子供ができたら、どうする?」
健吾の心臓の音は、驚くほどゆっくりと、規則正しかった。
健吾は一瞬手を止め、私のあごを強引にしゃくり上げた。
その目には愛しさなどなく、己の縄張りを監視するような冷たい光が宿っていた。
蛍光灯の瞬きに合わせて、瞳の奥の光がわずかに明滅する。
「俺の子なら、まあ、考えてやってもいい」
低く、念を押すような言い方だった。
「だがな、あんな情けない匂いがするものは、この部屋には一切残さねえ。お前も、そうだろう?」
「……匂い?」
「ああ。あいつの匂いも、面影も、全部だ。あんな男、最初からお前を守る気なんてなかったんだよ。お前を守ってんのは、俺だ」
健吾の手が、私の頬を包む。
「……雅人のこと……?」
努めて平静な声を絞り出すと、骨がかすかに軋んだ。
「……前に、一回だけ見たことあるんだよ。あいつ」
健吾がふと、独り言のように付け足した。
「お前らが手ぇ繋いで歩いてるとこ。花屋の前で。……気に食わねえ顔してたな、あの男」
──それなら、辻褄が合う。
健吾は前から私たちを見かけていただけ。
雅人の匂いまで知っているのは、単なる記憶の中の印象を、今、都合よく言葉にしているだけかもしれない。
そう思おうとした。
(……見てた? いつから?)
心臓が、一拍止まった。
健吾は、私と雅人が花屋の前で手を繋いだことなど、一度も目にしていないはずだった。
──私たちはいつも、店の裏口から一緒に帰っていた。
私が人目を避けるように、雅人が待ってくれたから。
「……そう、よね。私を守ってくれてるのは、健吾だものね」
私は笑ってみせた。
心の中で(――ちがう、守ってなんていない)と叫びながら。
これ以上、この手の中にいたくなかった。
「……ごめん、まだ洗濯終わってないから。先に休んでて」
健吾は鼻を鳴らし、私の腰から手を離した。
「……煙草、切れてたな。買ってくる」
重い足音が廊下を遠ざかり、玄関のドアが閉まった音を聞いてから、私はようやく詰めていた息を吐いた。
◆ ◆ ◆
洗濯機の音で誤魔化すように、洗面台の下の棚の奥、予備の洗剤ボトルの隙間に手を伸ばす。
健吾には内緒で持っている、もう一台の安物のガラケー。
番号を知っているのは、高校時代からの友人、由美だけだ。
『明日、また会える?』
短く打って、送信完了の画面を見つめる。
返信が来ないまま電源を落とし、忍ばせるように元の場所へ戻す。
この小さな機械一つが、今の私にとって唯一、健吾の目の届かない場所だった。
(――匂い。花屋の前。手を繋いで。)
さっきの言葉が、まだ耳の奥に貼りついている。
確かめずにはいられなかった。
私はクローゼットの奥へ走った。
古いバッグの底。
手を差し入れる。
――ある。
エコー写真は、確かにそこにあった。
ほっとした瞬間、指先が違和感を覚えた。
写真を包んでいたはずのハンカチの畳み方が、違う。
私は必ず、四つ折りにしてから包む。
今は、三つ折りだった。
誰かが、触った。
膝から力が抜けそうになるのを堪え、私はバッグを閉じ、元の場所に戻した。
――逃げなきゃ。
そう思う端から、行き先を数え始めていた自分に気づいて、愕然とした。
実家はもう頼れない。
由美の部屋は狭すぎる。
お金は、花屋の給料をこっそり貯めた、封筒の中の三万円しかない。
玄関の鍵が回る音がした。
私は反射的に洗濯籠を抱え、何食わぬ顔で洗面所に戻った。
心臓だけが、洗濯機よりも激しく脈打っていた。
「煙草、買ってきた」
健吾がレジ袋を提げて入ってくる。
彼の指先に、安っぽい透明な使い捨てライターが挟まっていた。
コンビニのレジ横にいくつも積まれている、どこにでもある量産品。
模様も何もない、ただのプラスチックの塊。
それでも、心のどこかが静かに叫び続けていた。
(──それを雅人も持っていた。)
「もうすぐ──終わるから」
(この人は、何か知っている。でも、今は――)
◆ ◆ ◆
洗濯機が電子音を三回鳴らし、脱水が完了した。
私はふたを開けた。
絡み合った服から生ぬるい湿気がふわりと立ち上る。
黒ずんだゴムパッキンの匂いと混じって、洗い立ての洗剤の香りが鼻をかすめた。
一枚ずつ、中の衣類を解いていく。
健吾の灰色のTシャツ、私の白いブラウス、丸めたままだった靴下の片方がまだドラムの端に張り付いている。
それを剥がし、洗濯籠に積み重ねた。
籠を抱え、サンダルをつっかけて一人でベランダへ向かう。
夜の空気が、湿った肌を刺すように冷たかった。
物干し竿の位置を確かめ、ハンガーを一つずつ取る。
Tシャツの両肩をハンガーに通し、裾の皺を軽く伸ばして干す。
隣に、ブラウスをかける。
袖を広げ、乾きやすいように少し間隔を空けて。
手を動かしている間だけ、頭の中が静かになった。
十週。
命として、たった十週間。
お腹にそっと手を当てる。
昔、雅人が言っていた言葉が、冷たい風の中で蘇る。
『いつか、何かを育てる練習』
暗闇の中で、指先でお腹の皮膚を撫でる。
「……パパに、似るのかな」
小さく呟いてから、慌てて口を塞いだ。
けれど、その言葉を口にした瞬間だけ、胸の奥に小さな灯がともった気がした。
雅人が本当に私を捨てたのだとしても。
あるいは、私の知らない事情で、姿を消さざるを得なかったのだとしても。
この子だけは、私の中に残っている。
私が「人間」として誰かを愛したこと。
誰かに愛されることを、ほんの一度でも信じたこと。
その証拠みたいに。
(大丈夫。あの鉢植えも、誰にも気づかれずに、ちゃんと育ってる)
花屋の棚の隅の、小さな鉢を思い浮かべる。
誰の目にも留まらない場所で、それでも確かに、新しい芽を伸ばしていた。
「……ごめんね」
何に対して謝っているのか、自分でも分からなかった。
産まなかった子に。
雅人に。
この子に。
それとも、またしても流されそうになっている自分自身に。
物干し竿が、きい、と軋んだ。
「おい、まだかよ」
部屋の奥から、健吾の声がした。
「今、行く」
私は空になった洗濯籠を抱え、健吾の待つ暗い部屋へと足を踏み入れた。
――今度、由美に会ったら。花屋の鉢植えを、預かってもらおう。
そう決めた。
それだけが、今夜、自分の意思で選んだ、唯一のことだった。
背後で、健吾の灰色のTシャツと、私の白いブラウスが、夜風の中で何度も、何度も静かに触れ合っていた。
洗濯機は、もう止まっている。
それでも、湿った生地同士がぶつかる音だけが、しばらく暗いベランダに残っていた。
(了)
辛く暗い部分がある物語をお読みいただき、ありがとうございました。m(_ _)m
家族想いの優しいゴリラですが、新しい雄(群れのリーダー)が前の雄の子を殺すことがあると知り、「これを人間に置き換えたら?」と考えたのが始まりです。
そこから、花や洗濯機、「育てる」という言葉を重ねていくうちに、彼女の物語になりました。
洗濯機が止まったあとも、夜はまだ終わらない。夜明けはまだ来ない。明日はどうなるか分からない。
だけど大きな決断ではなくても、自分の意思で何かを選ぶ。
そんな余韻を残して、この物語を閉じました。
作者としては、命を繋いでいてほしいと願うのですが……最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!(人*´∀`)。*゜+<これで私のゴリラパーティーも完投です。……踊らないよ?(笑)




