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音楽室の秘め事

作者: fuu_fuu_
掲載日:2026/07/18


 A高校の音楽室には幽霊がいる。

 そんな噂が立つようになったのは数ヶ月前だ。


 郊外にある超進学校で、生徒数も多く建物も都市部にしては大きいA高校。

 勉学に力を入れているため、音楽や美術などの芸術系科目は蔑ろにされていた。

 音楽室は一応存在するが、担当教員はここ十数年不在。もちろん、授業カリキュラムに組み込まれてすらいない。

 当然、生徒でも使う人は稀。さらに、3階の建物の端にあることも相まって、前の廊下を通る人もほぼいない。

 つまり、半分物置のような空き教室状態だ。

 だからこそ、そんな噂が立ったのだろう。


 夏休み。

 セミの合唱のなか、時折鳥のさえずりが聞こえてくる朝7時半。


 音楽室からは、ピアノの美しい音色が聞こえてくる。

 誰もいないはずなのに。


「アヤメ先生!おはようございます!」


 ガラララと音楽室のドアが開く音と同時、女生徒の元気な声が響いた。胸元のリボンは緑色で、A高校では2年生を表す色だった。


「おはよう、マキちゃん」


 返事をしたのは、音楽室の横に置かれたアップライトピアノ――の椅子に座る、30代前半ほどの女性。白い肌が朝日に映えていた。

 こちらは落ち着いた口調で、入ってきた女生徒を笑顔で迎えた。

 マキちゃんと呼ばれた女生徒は、アヤメ先生と呼んだ女性に遠慮なく近づく。


「今日は何弾いてたんですか?」

「リストっていう音楽家のクラシックよ」

「すごーい!先生クラシックも弾けたの?」

「少しだけね」


 微笑みかけるアヤメに、マキは瞳をキラキラと輝かせる。


「……あたしもいつか弾けるかなあ」

「マキちゃんなら余裕よ、きっと」

「うーん、でも勉強もしなきゃだし、テストまた赤点だったし……」

「確か、数学が28点だったかしら?」

「えっ!もー、アヤメ先生ってホントになんでも知ってるんですから」


 ふふふ、と笑うアヤメと、数学わかんないよーと文句を垂れるマキ。

 勉強サボっているのもいつも見ているわよ、と冗談めかして笑う。

 こんなふうにマキのことをアヤメが知っているのは、日常茶飯時のようだった。


 進学校に入ったはいいものの、授業について行けず脱落する生徒は数多い。

 マキはそのうちのひとりだった。親の意向で大学を目指したはいいものの、自分がやりたかったのは音楽の道。

 いやいや勉強をしていては、当然良い点数も取れるわけがない。もちろん、音楽の練習も満足にできていない。

 入学後は親とあまり仲が良くないようで、ここで愚痴を話すことも多々あった。


 そんな話を、アヤメはいつも真剣に、もちろん楽しい話は笑顔で聞いていた。

 早朝に生徒はほぼ居ないから、音楽室でアヤメとマキが会っているのは、他の誰も知らなかった。

 それが夏休みともなれば尚更だ。皆、朝から塾や予備校に向かうだろう。

 マキは赤点の補習ということで登校しているようだが、この関係が始まったのはいつか定かではない。

 ただ、いつの間にかマキはアヤメのことを姉のように信頼していた。


「……アヤメ先生」

「なにかしら」

「音楽室にいる幽霊の噂って、知ってます?」


 今日は少し、真面目な話になりそうだ。

 アヤメは眉をわずかに潜ませる。


「……聞いたことはあるわ」

「先生はさ」


 ふぅ、とマキは一呼吸置く。


「幽霊じゃないよね」


 そして、まっすぐ、アヤメにとっては痛いほどの視線を向けた。

 アヤメはふっと微笑み、わずかに首を傾ける。それがマキがよく見る、いつものアヤメの仕草だった。


「当たり前じゃない。幽霊なんて居ないわよ」


 そうだよね、変なこと聞いてごめんなさい。マキが謝れば、アヤメはいいのよと笑う。


「どうしてそんな事を聞いたの?」

「……だってアヤメ先生、なんでも知ってるから」


――それに誰に聞いても、アヤメって名前の先生は聞いたことがないって言うの。


 マキは口に出そうとして、やめた。よくわからないけど、なんとなく無粋だと思った。

 先生が否定したんだから、違うに決まってるんだ。そんな考えが強くて、もう一回質問する意味が無いと思った。

 早朝、音楽室、自分だけ知っている白い肌の人。


 でもよく考えたら、別にアヤメが幽霊でも良かった。


 だって、こうやってお話してくれる。家族にも言えないようなことを聞いてくれる。

 ピアノの練習をしたい、自分は音楽が好きだって思い出させてくれる。


 もし幽霊が心の支えだったとしても、別にいいじゃん。


「……じゃ、今日はこれで。あたし補習行ってきます!」

「ええ、頑張って。また明日ね」

「はい!」


 明日もクラシックが聞きたいです、と言葉を残して、マキは音楽室を出てゆく。

 音楽室には外から入ってくるセミの合唱と、アップライトピアノだけが残った。


 その椅子には――






――もちろん、30代前半ほどの白い肌の女性が座っている。


 当然だ。幽霊など居ないのだから。

 彼女はマキの幻想ではない。実在する人間だ。


 そう、実在する人間だ。


「マキちゃん……」


 目を閉じて彼女に想いを馳せる。

 マキから幽霊についての話題が出てくると思っていなかったのか、実は少し驚いていたようだ。

 彼女の反応を見るに、上手く取り繕えていたので問題はなさそうだった。


――その幽霊って、高校2年くらいらしいよ。


 噂には、そんな続きがあることを、アヤメは知っている。

 だからこそ、彼女に訊かれたときは詳しくないと言うしかなかった。何も悟られたくなかったから。

 彼女に真実に気づいてほしくない。そのまま生きていてほしい。

 マキがアヤメを頼っているのと同じように、アヤメもマキのことを好いていた。

 その関係を壊さないために、これからもこんなふうに接していくのだろう。


 それが、二人のためになると信じて。


「……そろそろ帰らなきゃ」


 ひとりごちたアヤメは、椅子から立ち上がる。

 スマートフォンを取り出して、画面を見た。


 映し出されていたのは、ライブカメラ。画質はそれほど良くないが、高校生くらいが住んでいそうな部屋だ。

 画角的に家具かなにかの間にあるようで、いわゆる隠し撮りのような風景に見えた。

 勉強机と思しきデスクの上には、ノートや筆記用具に加え、楽譜と小型のキーボードが置かれている。

 その隣にはテストの答案が散らばっており、数式の上に「28点」と赤文字で書かれているのも見えた。


 遊びも、着替えも、食事も、睡眠も、これを見れば人間の生活がすべて分かりそうだ。


 そろそろ帰らなきゃ、学校の関係者にバレないうちに。



――アヤメ先生ってホントになんでも知ってるんですから。



「幽霊の次は何の噂にしようかしら」



 漆黒のアップライトピアノが、朝日に照らされていた。


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