音楽室の秘め事
A高校の音楽室には幽霊がいる。
そんな噂が立つようになったのは数ヶ月前だ。
郊外にある超進学校で、生徒数も多く建物も都市部にしては大きいA高校。
勉学に力を入れているため、音楽や美術などの芸術系科目は蔑ろにされていた。
音楽室は一応存在するが、担当教員はここ十数年不在。もちろん、授業カリキュラムに組み込まれてすらいない。
当然、生徒でも使う人は稀。さらに、3階の建物の端にあることも相まって、前の廊下を通る人もほぼいない。
つまり、半分物置のような空き教室状態だ。
だからこそ、そんな噂が立ったのだろう。
夏休み。
セミの合唱のなか、時折鳥のさえずりが聞こえてくる朝7時半。
音楽室からは、ピアノの美しい音色が聞こえてくる。
誰もいないはずなのに。
「アヤメ先生!おはようございます!」
ガラララと音楽室のドアが開く音と同時、女生徒の元気な声が響いた。胸元のリボンは緑色で、A高校では2年生を表す色だった。
「おはよう、マキちゃん」
返事をしたのは、音楽室の横に置かれたアップライトピアノ――の椅子に座る、30代前半ほどの女性。白い肌が朝日に映えていた。
こちらは落ち着いた口調で、入ってきた女生徒を笑顔で迎えた。
マキちゃんと呼ばれた女生徒は、アヤメ先生と呼んだ女性に遠慮なく近づく。
「今日は何弾いてたんですか?」
「リストっていう音楽家のクラシックよ」
「すごーい!先生クラシックも弾けたの?」
「少しだけね」
微笑みかけるアヤメに、マキは瞳をキラキラと輝かせる。
「……あたしもいつか弾けるかなあ」
「マキちゃんなら余裕よ、きっと」
「うーん、でも勉強もしなきゃだし、テストまた赤点だったし……」
「確か、数学が28点だったかしら?」
「えっ!もー、アヤメ先生ってホントになんでも知ってるんですから」
ふふふ、と笑うアヤメと、数学わかんないよーと文句を垂れるマキ。
勉強サボっているのもいつも見ているわよ、と冗談めかして笑う。
こんなふうにマキのことをアヤメが知っているのは、日常茶飯時のようだった。
進学校に入ったはいいものの、授業について行けず脱落する生徒は数多い。
マキはそのうちのひとりだった。親の意向で大学を目指したはいいものの、自分がやりたかったのは音楽の道。
いやいや勉強をしていては、当然良い点数も取れるわけがない。もちろん、音楽の練習も満足にできていない。
入学後は親とあまり仲が良くないようで、ここで愚痴を話すことも多々あった。
そんな話を、アヤメはいつも真剣に、もちろん楽しい話は笑顔で聞いていた。
早朝に生徒はほぼ居ないから、音楽室でアヤメとマキが会っているのは、他の誰も知らなかった。
それが夏休みともなれば尚更だ。皆、朝から塾や予備校に向かうだろう。
マキは赤点の補習ということで登校しているようだが、この関係が始まったのはいつか定かではない。
ただ、いつの間にかマキはアヤメのことを姉のように信頼していた。
「……アヤメ先生」
「なにかしら」
「音楽室にいる幽霊の噂って、知ってます?」
今日は少し、真面目な話になりそうだ。
アヤメは眉をわずかに潜ませる。
「……聞いたことはあるわ」
「先生はさ」
ふぅ、とマキは一呼吸置く。
「幽霊じゃないよね」
そして、まっすぐ、アヤメにとっては痛いほどの視線を向けた。
アヤメはふっと微笑み、わずかに首を傾ける。それがマキがよく見る、いつものアヤメの仕草だった。
「当たり前じゃない。幽霊なんて居ないわよ」
そうだよね、変なこと聞いてごめんなさい。マキが謝れば、アヤメはいいのよと笑う。
「どうしてそんな事を聞いたの?」
「……だってアヤメ先生、なんでも知ってるから」
――それに誰に聞いても、アヤメって名前の先生は聞いたことがないって言うの。
マキは口に出そうとして、やめた。よくわからないけど、なんとなく無粋だと思った。
先生が否定したんだから、違うに決まってるんだ。そんな考えが強くて、もう一回質問する意味が無いと思った。
早朝、音楽室、自分だけ知っている白い肌の人。
でもよく考えたら、別にアヤメが幽霊でも良かった。
だって、こうやってお話してくれる。家族にも言えないようなことを聞いてくれる。
ピアノの練習をしたい、自分は音楽が好きだって思い出させてくれる。
もし幽霊が心の支えだったとしても、別にいいじゃん。
「……じゃ、今日はこれで。あたし補習行ってきます!」
「ええ、頑張って。また明日ね」
「はい!」
明日もクラシックが聞きたいです、と言葉を残して、マキは音楽室を出てゆく。
音楽室には外から入ってくるセミの合唱と、アップライトピアノだけが残った。
その椅子には――
――もちろん、30代前半ほどの白い肌の女性が座っている。
当然だ。幽霊など居ないのだから。
彼女はマキの幻想ではない。実在する人間だ。
そう、実在する人間だ。
「マキちゃん……」
目を閉じて彼女に想いを馳せる。
マキから幽霊についての話題が出てくると思っていなかったのか、実は少し驚いていたようだ。
彼女の反応を見るに、上手く取り繕えていたので問題はなさそうだった。
――その幽霊って、高校2年くらいらしいよ。
噂には、そんな続きがあることを、アヤメは知っている。
だからこそ、彼女に訊かれたときは詳しくないと言うしかなかった。何も悟られたくなかったから。
彼女に真実に気づいてほしくない。そのまま生きていてほしい。
マキがアヤメを頼っているのと同じように、アヤメもマキのことを好いていた。
その関係を壊さないために、これからもこんなふうに接していくのだろう。
それが、二人のためになると信じて。
「……そろそろ帰らなきゃ」
ひとりごちたアヤメは、椅子から立ち上がる。
スマートフォンを取り出して、画面を見た。
映し出されていたのは、ライブカメラ。画質はそれほど良くないが、高校生くらいが住んでいそうな部屋だ。
画角的に家具かなにかの間にあるようで、いわゆる隠し撮りのような風景に見えた。
勉強机と思しきデスクの上には、ノートや筆記用具に加え、楽譜と小型のキーボードが置かれている。
その隣にはテストの答案が散らばっており、数式の上に「28点」と赤文字で書かれているのも見えた。
遊びも、着替えも、食事も、睡眠も、これを見れば人間の生活がすべて分かりそうだ。
そろそろ帰らなきゃ、学校の関係者にバレないうちに。
――アヤメ先生ってホントになんでも知ってるんですから。
「幽霊の次は何の噂にしようかしら」
漆黒のアップライトピアノが、朝日に照らされていた。




