第9話 愚王の末路と、地図から消えた国
使者が逃げ帰った数日後。
エルロード王国の王城は、怒号と悲鳴に包まれていた。
「ふざけるな! 戻らないだと!? あの女、自分が何を言っているのかわかっているのか!」
ジェラルドは玉座を蹴り上げ、髪を振り乱して叫んだ。
使者から「皇帝の激怒」と「セフィアの絶縁宣言」を聞いた彼は、恐怖よりもプライドを傷つけられた怒りで我を忘れていた。
「側室にしてやると言ったんだぞ! 感謝して這いつくばるのが筋だろうが!」
「で、殿下……それどころではありません!」
血相を変えた将軍が飛び込んできた。全身の鎧が砕け、血に塗れている。
「東の蛮族国家『バルバロス』の大軍が、国境を突破しました! その数、およそ五万!」
「はぁ!? 馬鹿な、バルバロスとは不可侵条約を結んでいたはずだ!」
「向こうはこう言っています! 『竜の炎で防壁が壊れ、疫病で兵が死んでいる今こそ、刈り入れの時だ』と!」
ジェラルドの顔が引き攣った。
ハイエナだ。弱った獲物を狙う、卑劣なハイエナたち。
だが、そのハイエナを阻むための防壁も、兵士も、セフィアの警告を無視したせいで失われていた。
「み、ミーア! ミーアはどうした! 聖女の結界で敵を追い払え!」
ジェラルドはすがりつくように、部屋の隅で震えるミーアを見た。
しかし、ミーアは青ざめた顔で首をブンブンと横に振った。
「無理よぉ! 私の魔法は『人の心を癒やす』だけなの! 殺意を持って襲ってくる蛮族なんて止められないわ!」
「なんだと!? 貴様、いつも『神様が守ってくれる』と言っていたではないか!」
「あれは皆を励ますための言葉よ! 本当に守ってくれるわけないじゃない!」
ミーアの逆ギレに、ジェラルドは絶句した。
嘘だったのか。
心地よい言葉も、甘い希望も、すべては現実逃避のための麻薬だったのか。
ドガァァァァァン!!
城門が破砕される音が響く。
窓の外を見れば、王都はすでに火の海だった。バルバロスの兵士たちが雪崩れ込み、略奪と殺戮の限りを尽くしている。
かつてセフィアが『南の空が泣くぞ』と言っていたのは、雨のことではなかった。
民が流す血の涙のことだったのだ。
「う、うわぁぁぁぁッ!! 来るな、来ないでくれぇッ!!」
玉座の間にも、蛮族の兵士たちが乱入してきた。
ジェラルドは腰の剣を抜くこともできず、玉座の裏に這って逃げようとする。
しかし、無慈悲な刃が彼の背中を貫いた。
「が、はっ……セ、セフィ……ア……」
薄れゆく意識の中で、彼は最後に思い出した。
いつも無表情で、淡々と、けれど誰よりも必死に危機を伝えてくれていた元婚約者の姿を。
彼女は疫病神ではなかった。
この国の寿命を、必死で延命させていた「守り神」だったのだ。
守り神を捨てた国に、明日は来ない。
エルロード王国は、この日、歴史からその名を消した。
◇ ◇ ◇
ヴォルグ帝国の宮殿、月の見えるバルコニー。
私は夜風に吹かれながら、南の空を見つめていた。
頭の中に響いていたノイズが、プツリと消えた。
それは、予知の対象となる「場所」そのものが消滅したことを意味していた。
「……終わったか」
背後から、ライハルト様が私の肩にショールをかけてくれた。
彼は何も聞かなかった。ただ、私の横顔を静かに見つめている。
「……はい。南の国からの『声』は、もう何も聞こえません」
悲しみは、不思議となかった。
あるのは、長い長い役目を終えたような、静かな虚脱感だけ。
私は十分にやった。警告し、叫び、訴え続けた。それでも彼らは聞かなかった。それだけの話だ。
「そうか」
ライハルト様は私の腰を抱き寄せた。
「エルロードの民のうち、国境付近にいた者は我が軍が保護した。だが、王城にいた者たちは……助からなかったようだ」
「……そうですか」
「非情だと思うか? 俺が軍を動かして、助けるべきだったと」
「いいえ」
私は彼の胸に頭を預けた。
「ライハルト様はヴォルグの皇帝です。自国の兵を危険に晒してまで、敵対した国を救う義理はありません。……それに、あれは彼らが選んだ結末です」
私は目を閉じた。
ジェラルド様、ミーアさん、そして私を嘲笑った人々。
彼らの顔が浮かんでは、夜の闇に溶けて消えていく。
「私は今、ヴォルグの人間です。貴方の隣にいられるなら、過去のことはもう振り返りません」
私の言葉に、ライハルト様は優しく目を細めた。
そして、私の顎をすくい上げ、深い口づけを落とす。
「ああ。これからは俺だけを見ろ。俺はお前を、世界で一番幸せな女にすると誓う」
「はい……ライハルト様」
廃墟となった故郷の煙は、ここまでは届かない。
月明かりの下、私たちは強く抱きしめ合った。
不吉な予言者と呼ばれた私の人生はここで終わり、愛される「幸福な予言者」としての人生が、今ここから始まるのだった。




