第2話 氷の皇帝は「呪い」を飼い慣らす
国境の森は、静まり返っていた。
私を乗せてきた粗末な馬車は、私を道端に放り出すと、逃げるように去っていった。
手元にあるのは、わずかな着替えと水が入った革袋だけ。
王太子殿下――いいえ、ジェラルド様は「慈悲として命までは取らぬ」とおっしゃっていたけれど、魔物が出るこの森に聖女の力を持たない娘を捨てるなど、遠回しな処刑でしかない。
「……さて、どうしましょうか」
ため息をついた瞬間、頭の中でまたあの声が響いた。
――『銀の狼は、隠された顎に足を食われるだろう』
「え?」
神託だ。
私は慌てて周囲を見渡す。「銀の狼」が何を指すのか。
視線の先、木々の間を縫うように進む一団が見えた。
豪奢な馬車はない。けれど、乗っている馬はどれも毛並みが良く、従者たちの身のこなしも洗練されている。
その先頭を行く男が、月光のような銀髪をなびかせていた。
漆黒の軍服に、銀の刺繍。冷ややかだが、目を奪われるほど整った美貌の持ち主。
(銀の狼……あの人のこと?)
彼らが進もうとしている道は、一見なんの変哲もない草地だ。
だが、神託が「隠された顎」と言うなら、そこには間違いなく罠がある。
おそらく、魔物が掘った落とし穴か、底なし沼か。
(関わるのはよそう)
私は木陰に身を隠した。
助けたところで、どうせまた「不吉なことを言うな」と罵られるだけだ。
「お前が言ったから罠が作動したんだ」と、濡れ衣を着せられるのはもう御免だ。
そう思ったのに。
『……死ぬわね』
神託の補足情報が、無慈悲に結末を告げる。
あの銀髪の男性は、先頭で罠に落ち、後続の馬に巻き込まれて命を落とす。
「……っ!」
私は唇を噛んだ。
身体が勝手に動いていた。罵られるのは嫌だ。でも、人が目の前で死ぬのを見過ごせるほど、私はまだ擦れていなかった。
「止まって! そこへ進んではいけません!」
森の静寂を破り、私は叫んでいた。
一行の空気が凍りつく。
抜剣の音が響き、数人の男たちが殺気を放って私を睨みつけた。
「何者だ!」
「怪しい女だ、密偵か?」
鋭い剣先を向けられても、私は震える指で彼らの進行方向を指差した。
「そ、そこ……。その草むらの下、穴が開いています。進めば落ちます」
「穴だと? 平坦な道に見えるが」
従者の一人が嘲笑うように馬を進めようとする。
その時だった。
「待て」
低く、威厳のある声が場を制した。
銀髪の男だ。
彼は私を一瞥すらしなかった。ただ冷徹な目で、私が指差した地面を見つめ、腰の剣を抜いたかと思うと、無造作にその刃を地面へ突き刺したのではない。
剣先から放たれた衝撃波(魔力)を、地面へと叩きつけたのだ。
ドォォォォン!!
轟音と共に、平坦に見えた地面が大きく陥没した。
そこには無数の槍が仕込まれた、巨大な落とし穴が口を開けていた。
「なっ……!?」
「こ、これは……アントライオンの巣穴か!」
従者たちが青ざめる。
もし警告を聞かずに踏み込んでいれば、先頭の男は間違いなく串刺しになっていただろう。
「……ほう」
銀髪の男は、表情一つ変えずに穴を見下ろしたあと、ゆっくりと馬首を巡らせて私を見た。
その瞳は、凍りつくようなアイスブルー。
感謝の言葉はない。あるのは、値踏みするような鋭い観察眼だけだった。
「貴様、なぜわかった?」
問われた瞬間、昔の恐怖が蘇る。
正直に答えれば、気味悪がられる。「呪いの魔女」と呼ばれる。
けれど、嘘をつける相手ではなさそうだった。
「……声が、聞こえたのです」
「声?」
「神託……のようなものです。『銀の狼が顎に食われる』と。だから……」
私は身構えた。
来る。「気味が悪い」「嘘をつくな」「お前が罠を仕掛けたのだろう」という罵声が。
しかし、男が口にしたのは予想外の言葉だった。
「『銀の狼』か。私の二つ名を知っていたわけではないようだな」
彼は馬から降りると、私の目の前まで歩み寄ってきた。
長身の彼に見下ろされ、圧倒的な威圧感に息が詰まる。
「的中率は?」
「……え?」
「その『予言』だ。どれくらいの確率で当たる?」
「ひ、百発百中です。外れたことは一度もありません。……悪い予言ばかりですが」
自嘲気味に付け加えると、男の形の良い眉がわずかに動いた。
「百発百中の危機回避能力。しかも音声による自動通知付きか。……極めて優秀な『索敵スキル』だな」
「……は?」
さくてき、すきる?
呪いではなく?
男は私の顎を指先でくいと持ち上げた。
「俺はヴォルグ帝国皇帝、ライハルト・ヴォルグだ。女、名は?」
「セ、セフィア……です」
「そうか、セフィア。俺はお前を買う」
「か、買う……?」
ライハルトと名乗った皇帝は、獰猛な肉食獣のような笑みを浮かべた。
「我が国の軍師には、不確定な未来を恐れる臆病者しかいなくてな。お前のような『確定した絶望』を告げる存在が必要だ」
「あ、あの……不吉だとは、思わないのですか?」
「不吉? 馬鹿を言うな。事前に地雷の場所がわかるなら、それは最強の攻略本だろう」
彼は私の手を強引に取り、自分の馬へと引き上げた。
温かい体温が背中に触れる。
「来い。お前のその声で、俺の覇道を切り開け。その代わり――お前の身は、俺が全力で守ってやる」
その言葉は、どんな甘い愛の言葉よりも、私の胸に深く突き刺さった。
誰からも疎まれた「不吉な声」を、「最強」と言ってくれた初めての人。
この瞬間、私は悪役令嬢でも魔女でもなく、皇帝の「所有物」になったのだった。




