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コルトレーンを追いかけて

作者: 咲好 千恵

 仕事が終わって、いつものように社員通用口から退勤。電灯が白くぼんやり光っている。すっかり暗闇だな。秋の日は釣瓶落とし。11月の18時は夜だ。星も少し光ってる。私の他には誰もいない。今更人恋しくもないが、肌寒さが独りを実感させる。しかし!明日からは一週間の休暇。気持ちも足取りもそこはかとなく軽い。寄り道でもしようかな〜キーボードでも行こうかな。

 私の住んでるこの街は自動車産業で成り立っている。全国から人々が働きに来ている。その為人口はまあまあ多い。が、昔ながらの城下町ではないからか、文化が根付いてない感がある。キーボードはこの街の数少ない文化的スポットといえるだろう。ジャズ専門のライブハウスなのだが、何故かキーボードという名前なんだな。

 かつては著名なジャズミュージシャンも度々キーボードに来店し、熱いライブを繰り広げた。老舗であり、歴史があるのだ。といっても最近はライブをあまりしていない。感染症が流行して以来客がめっきり減ってしまったからだ。ジャズ人気にも陰りが出ていたので尚更だ。今では客のリクエスト曲を聴きながら(もちろんジャズだ)コーヒーを飲んだり、酒を呑んだり、マスターやママさんとお喋りしたり…そんな店だ。


 しばらく歩いているうちにキーボードのあるビルの前に来た。コツコツ音を立てて鉄骨造の外階段を上がっていく。キーボードはこのビルの2階にある。ビルは3階建てで1階は外国人相手のスーパー、3階はアパートになっている。外壁は何度も塗り直されていて、中々レトロな建物だ。

 店のドアを開けるとトランペットの音が瞬間飛び放たれた。ロイ・ハーグローブのI’m not sure じゃないか!私の好きな曲だ。yay!

 ロイ・ハーグローブはジャズトランペット奏者だ。I’m not sure は彼が演奏してる曲なんだが、イントロからカッコ良すぎる曲だ。誰のリクエストなのかな…。

 店内に入って2メートルほどの通路を行くと、テーブルと椅子がいつものように並んでいる。収容人数は最大50人ほどか。黒とグレーを基調としたインテリアに薄暗い照明。落ち着いた雰囲気だ。壁にはミュージシャンのフォトパネルやLP ジャケットなんかが飾られている。先客は3人。見たことあるような、ないような…。そして、ステージにはロイがいる。バンドのメンバーがノリノリで演奏している。

 便利な世の中になった。レンタルショップでお手軽にCD やビデオを借りられるようになった時は、これで何でも聴ける!と小躍りしたものだ。実際はそうでもなかったが…。音楽配信も便利だと思ったが、それよりも動画サイトは良かった。大体何でも即聴けるし見れる!どこの誰だか分からないような人の演奏も見ることができる。意外と上手だったりする。ミュージシャンにとっては有り難いサービスだ。ネットのお陰で容易に世代や国境を超えて、様々な音楽を知ることができた。

 そして、それらは更に進化して、今はライブアプリがある。これはいい。何しろステージで本物のミュージシャンが演奏するのだ。もちろんバーチャルであるが。ステージ床には黒いゴムのような素材のマットが敷いてあり、そこからニョキっとミュージシャンが登場する。不思議なことにどこから見ても立体的で何の違和感もない。ごく普通のライブに見える。以前黒マットの裏側をマスターに見せてもらったことがある。基盤や配線がゴチャゴチャしていて、それは透明なマットでコートされていた。おそらく修理しやすいようにだろう。

 音質は会場によって違うだろうが、元々マスターがオーディオにこだわりを持っていたので、ここキーボードの音響は最高だ。正にライブを楽しめる。

 アプリは悪用を防ぐために、入手するには審査があり、入手者への管理も徹底しているらしい。ある程度の面積を要するし、主に営業用だな。お値段も張ると思う。

 ライブアプリにはアルバムタイプとフリータイプがある。アルバムタイプはその名から連想される通り、過去の演奏を再生するものだ。AI が過去データから立体画像を算出してくれる。AI はスゴイな。

 フリータイプはミュージシャンを選ぶことができる。というのは年代やジャンルの異なるミュージシャンを組ませる事もできるのだ。選曲も自由だ。こちらの方が高額らしい。私はフリータイプは好まない。確かに夢の共演的な期待はあるが、フレーズにしろリズムにしろ所詮AI の予想である。そんなの聴く意味がない。ミュージシャンがその場で出した音、その瞬間のノリにこそ価値があるのだ。とはいえ異なるタイプのミュージシャンの競演にまるで興味がない訳ではないのだが、頭の中の想像に留めておこう。

 キーボードではアルバムタイプのみ導入されている。マスターの考えは私と同じらしい。それとも単に金額の問題か?

 ライブアプリのお陰で人々は再びライブハウスへ足を運ぶようになった。それについての良し悪しは考えないことにする。時代の流れには溺れるしかないからだ。上手く波に乗れる人もいるのだろうが。

 

 私は店に入ってすぐの席に座った。壁際の長椅子席だ。6人ほどが並んで腰掛けることができる。私はここに座ることが多い。ステージを眺めながらテーブル上の端末を手に取った。端末からコーヒーを注文。次に画面をリクエスト画面に切り替える。ライブアプリで演奏してほしい曲、ミュージシャンをリクエストするのだ。リクエスト料はコーヒー代の倍の金額である。予算の都合上、私は1曲しかリクエストできない。よく考えよう。

 考えた結果、私はマイルス・デイビスのFour をリクエストした。マイルスはジャズトランペット奏者で、ジャズ界では帝王と呼ばれた超有名な人だ。Four という曲では、ジョン・コルトレーンというこれまた超有名なジャズサックス奏者が共演している。1950年代の演奏だが、私にとってはいつまでも様々な思いを巡らせる曲なのだ。

 ステージにはマイルスのバンドメンバーが現れて、ドラムイントロからFour が始まった。コルトレーンもいるぞ。うんうん。とその時急に視線を感じた。目を走らせて周囲を見ると、客の一人がこっちを見てる気がする。うん?と思ったが、ママさんがコーヒーを持って来てくれたので、私の意識はそちらへ移った。

 「イズちゃん、いらっしゃい」ママさんはいつものように軽やかな微笑みを浮かべてコーヒーをテーブルに置く。私も「こんばんは」と挨拶する。「Four はイズちゃんのリクエスト?」「そうですよー。永遠の課題曲です」「あらそうなの?」ニッコリ。

 ママさんは可憐な人だ。スレンダーなルックスがそう思わせるのかもしれない。出過ぎること無く、さりげなく包みこむようにキーボードに存在している。年齢を重ねても可憐さを失わないママさんは大した人だと思う。ママさんに演奏を褒められると何だか嬉しいんだけど、最近は褒めてくれないな〜。

 Four を聴きながら、先程視線を送ってきた客をチラ見する。なんと!また目が合った。若い男性だ。いわゆる好青年。そして彼は席を立ってこちらへ向かって来る。何だ?知り合いだっけ?と構えていると、彼はトイレに入って行った。なんだ…。

 リクエストに集中!私はステージを見た。なんでこんなに大昔の曲を一生懸命聴いて、一生懸命練習しているのだろう。おまけにマトモに出来たことなんてない。一体何をやっているんだろう。小さく溜息をついて、ステージから視線を外すと、さっきの男の子が隣に座っている。え?

 彼はニッコリして「こんばんは」と私に向かって言った。なんだなんだ〜こんな子知らないぞ〜新手のサギか?オバさんはお金持ってないよ〜と戸惑っていると「この曲お好きですか?」と言うので「えぇ」と答えたら「いい曲ですよね」なんて言うじゃないか。コイツ絶対良からぬ事を考えているに違いない。Four に集中しよう。バイバイ。なんだけど…きれいな眼をしている。どこかに吸い込まれそうな眼だ。あぁ、いかんいかん。

 そうこうして彼は店から出て行った。私も他の客のリクエストを2曲聴いて帰ることにした。バスで帰ろう。愛用の巾着から自分の端末を取り出してバスを予約する。近くの通りで拾ってもらうよう設定する。行き先は自宅アパート付近。通りに出る頃にはバスが来てくれるだろう。

 店を出てトコトコ歩いているとバスが来た。昔はいつ来るかも分からないバスをひたすらバス停で待っていたものだ。今では何でも端末だ。降車も希望地近くだし、料金は引き落としだし、あー便利。便利なので自家用車は持っていない。高齢者が増えて、皆私と同様の考えらしく、バスにはまあまあの乗客がいた。

 座席に座るとコルトレーンのプレイに思いを巡らせる。本当に真面目にジャズやってる。全く素晴らしい。Four の頃はコルトレーンも駆け出しだが、その後どんどん上手くなって、後期のプレイは物凄いことになるんだよね。

 私はジャズサックスを始めて何年にもなるが、全然上手くならない。所詮大して練習してないよね。せいぜい1日1時間ぐらいだな。やっぱり足りないよね。でももう少し何とかならないかな。あー、生きてる間に。

 そんなふうに頭がグルグルしてたら降車場に着いた。アパートまで5分ほど歩く。少しは歩かないとね。


 私はアパートで気ままな一人暮らしだ。ジャズサックスの修行中だから、アパートは防音バッチリの所を選んだ。ずーっと修行中なのが不甲斐ない。しかし防音アパートはいい。サックスのうるさい音も無かったことにしてくれる。掃除だって洗濯だってやりたい放題だ。家賃は高めだが、私のように空いた時間にちょこっと練習しようという人には合理的だ。上手くなりたいのなら練習時間を増やせば良いのだが、人間は働かなくては食べていけない。それに年を取ると長時間練習する体力も集中力も無いのだ。

 アパートのエントランスに来た。ここは顔認証で入れる。自室に入るにはプラス手認証が必要だ。指紋掌紋エトセトラ、手認証は割と厳しい。他人が入室するには登録が必要だ。セキュリティは万全なのだ。とはいえ万一の場合に備えて鍵は端末に入っているし、ホントに万が一に備えて物体の鍵も持ってる。

 「ただいま〜」いつものようにドアを開ける。AIロボのランちゃんが「お帰りなさい」とかわいい声で迎えてくれるのだ。ランちゃんはサンリオキャラみたいな風貌をしている。いろいろ選べたのだが、可愛さで決めた。子どもの頃好きだったキャラクターに似ていてお気に入りだ。ランちゃんには主にお留守番と健康管理をお願いしている。間違っても人生相談なんかしないぞ。人生経験は私の方が豊富だからね。

 しかし今日は「お帰りなさい」の後に「お客様がお見えです」ときた。えー!どういう事!そんな話は聞いてないし、登録した覚えもない。ありえない。ランちゃんが何か勘違いしてる?いや、そんな事はないだろう。

 私は非常連絡ができるように端末を握りしめた。そろそろ歩いてリビングのドアを少し開けた。何と男性がリビングのソファに座っている。どうして?どうやって入った?そしてやられた〜と思った。男性は、キーボードで話しかけてきた男の子だったからだ。

 「先程はどうも」彼はニコニコして私に話しかけてくる。そうだ、考えてみれば私の巾着は彼と私の間にあった。あの時に端末から情報を盗まれたのに違いない。ネットで繋がればプライバシーは無いと思っていたけれど、私のプライバシーに興味がある人がいるとは思わなかった…。無防備だった。このアパートを借りた時の不動産屋の顔…作り笑いしすぎてお面になったのか?みたいな笑い顔を思い出す。「何と言ってもセキュリティは万全ですから」と言ってたっけ?破られてますけど?

 しかし、この状況をなんとかしないと、私はリビングでくつろげない。下手に騒いで逆ギレされても危険だ。こんな世捨人のような暮らしをしているが命は大切だ。私はリビングのドアをもう少し開けて、できる限り穏やかにいこう作戦にでた。

 作り笑いをして「どういう事かな?」と言ってみた。男の子はソファから立つと「勝手にお邪魔してしまいごめんなさい」と頭を下げた。そして「本当に申し訳ないと思っていますが、どうしても貴女に頼みたい事があるんです」と言うのだ。なんのこっちゃ。この私に何を頼むのだ?少し隣に座っただけで私の情報を入手し、私の大事なランちゃんを手玉に取ってしまう人の頼み事って何⁈

 「車の運転免許証お持ちですよね?僕をある所へ車で連れて行ってほしいんです」なんですと?サッパリ意味が分からない。が、頼み事自体は私にもできそうだし、たちまち危害を加える様子も無さそうなので少し安心。会話もできそうだ。しかしよく分からない。そして油断大敵。

 「ごめんね、何が何だか分からないのよねー。とりあえず自己紹介しようか。私の名前はイズ。野菜工場で働いてる」もう知ってると思うけどね。歳は…知ってるかな?「僕の名前はセイです。24歳です。仕事は地質調査です。実は現在抱えている案件について、どうしても恩師の見解を伺わなくてはならなくなりました。それで恩師の研究所へ連れて行ってもらいたいのですが…どうでしょうか?」24歳か…若いな。なるほど。いやいやサッパリ分からない。 

「どうして私が連れて行かないといけないのかな?」またしても作り笑い。「キーボードでFour をリクエストしてましたよね?Four が好きな人なら助けてくれると思ったんです」ナント!Four なのか⁈それが私を選んだ理由?うーむ。ともあれ立ちっぱなしは疲れる。何となく大丈夫そうだと思いダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。セイにも座るよう促したが、いつでも非常連絡できるように端末は握りしめたままだ。

 「でもさ、自分で運転して行けばいいんじゃない?」当然の疑問だ。「僕は運転できないんですよ。免許証も持ってないですし」「それならバスとか電車とか使えば?」「それはちょっと使いたくないんですよ。ドライブしたいんです」ははーん、もしかして悪い子じゃない?公共交通機関を使うと逮捕されちゃうとか?ハッキング技術を使って何かしでかしたのでは?

 でも…私はセイの眼をじっと見た。きれいな眼だ。グリーン?ブラウン?光の加減でカラーが違って見える。この眼は好きだ。なんだかとっても好きだ。しかし…どうしよう…。

 「分かった。連れてってあげるよ」我ながらどうかしてると思うが、どうせ明日から休暇だ。断ったら…まさか殺されはしないと思うが、記憶を消されちゃったりして…それは無いか。何しろこの子は悪い子だ。危険回避の為にも要求を飲もうじゃないか。「ありがとうございます!きっと僕を助けてくれると思ってました」ニコニコしてる。全く…。

 「で、何から始めるの?」「とりあえずレンタカーを借りましょう」私は端末で検索。「あ!フィアットがある!懐かしいな〜これにしよう。色は…どれにしようかな…」「白にしましょう」ほう、白ね。逃亡者だから目立たない方がいいわけか。「了解、白ね」「今から5日間借りてください」今から?人使い荒いなぁ。オバさんは今日は仕事に行ったし、キーボードにも寄り道したんだぞ。結構疲れてるよ。もう少し労わってほしいよ、全く。

 私は着替えて荷作りをした。ベージュ系セーターと黒パンツ、楽な服装にしなくちゃね。サックスはどうしようかな…サックスと携帯サックス、どちらを持って行こうか?携帯サックスはプラスチック製で軽くコンパクトだ。音量調整もできる。吹奏感は本物に近いが、まぁオモチャだ。物足りないことこの上ない。しかしサックスを吹く時間、場所は無いかもしれない。携帯サックスなら吹けるかも。サックスはアパートに置いておこう。

 待ち合わせ場所を決めて、セイとは別々にアパートを出ることにした。セイが先に行った。どうやって、このセキュリティ万全のアパートから出ていくんだろう?ランちゃんを操作して、セイが存在した記録も消したようだ。私は知らないよ。私もランちゃんに留守を頼んで出発だ。

 

 私は徒歩でレンタカー屋に向かった。初めて借りるからか?直接店舗に来てほしいと、言われたからだ。運転久しぶりだからかなぁ…年取ってるからか?ま、店まで近いからいいんだけど。

 歩きながら考えた。実は今ちょっと楽しい。身体は疲れているし、危険を冒しているかもしれないのに。この流れに乗っていいのか?心配もしている。でも仕方ない。私がしなければセイは困るだろう。困ったら何をしてくるか分からない。何しろ指名手配犯だ。ホントか?

 そんな思いを巡らせているうちに、レンタカー屋に着いた。窓口では、若そうなイカついような男性が対応してくれた。何だかレンタカーというのは、思ったより厳しそうだ。この人は人間かな?人間ぽいな、などと思いながら、用紙に名前、住所などを記入する。かなり厳重だ。男性は、私のIDと記入した用紙と私の顔を照らし合わせて「分かりました。交通安全には注意してください」と言って、フィアットのキイを端末に入力してくれた。よく分からないけど、めちゃくちゃ緊張した。

 さあ、久しぶりのフィアットでのドライブだ。運転できるかな〜やるしかないけど。燃料は…水素かな。このままどこか行っちゃおうかなーでも私の位置情報はバレてるか。セイには敵わないな。

 待ち合わせ場所は、堤防から少し下った空き地の様な所だ。程なく、セイが草むらからフィアットに乗り込んできた。見ると何か被っている。「何?それ?」「カメラ避けです。ほら、町中カメラがいっぱいでしょ。これ被っているとカメラに映らないんですよ。イズさんが一人で運転しているように映るんです」ほー、便利なモノがあるわけだ。君は何者だ?透明マントか?ハリー・ポッターか?

 「行き先はどこに設定する?」「えーと、ナーノ県に有名な仏像がありますよね。そこにしてください」「ああ、有名なあのお寺ね。私は休暇で急に仏像が見たくなって、すぐさまレンタカーを借りて出発した、という設定だ」人使いの荒いセイに、少し皮肉を込めてみたが、彼には効いてないようだ。どんな休暇になることやら…


 車の運転は昔ほど疲れない。交差点では信号機が行き交う車列を自動制御している。これで交差点での事故はめっきり減ったらしい。対人事故も車がほぼ停止するから、よっぽどいい。最も車、自転車、歩行者、それぞれ専用道が増えているので、事故は減少しているようだ。

 しばらく走ると高速道路に入った。ナーノ県までは200キロの距離があるが、交通事情の進化でそんなにウンザリしない。高速用オートドライブモードに設定すれば寝ていても着く。が、寝てはいけないらしい。どんなシステムにも不具合というモノがあるからね。とはいえリラックスだ。「何か音楽かけていい?」「僕の持ってる音源を聴きたいんですが、いいですか?」「いいよ」何聴くんだろう。

 ドラムイントロから始まる。これは、Four だ!マイルスだ。「いい曲かけるじゃない。セイも好きなの?そういえばFour を好きな人は信用できるみたいな事言ってたね?」「正直なところ、僕にはジャズがよく分からないです。でも僕の友人は好きだったようで…友人の音源なんですよ」「そうなんだ。ジャズが好きな友達のモノなんだね」

 Four はテーマ、マイルスのソロが過ぎて、コルトレーンのソロに入った。「私、このソロ、コピーした事あるんだよ」「コピー?」「音を聴いて真似して吹くんだよ」「聴いて分かるんですか?そんな事できるんですか?」「頑張らないとできないけどねー」聴いて簡単にできる人もいるが、私はそうじゃない。一つ一つ地道に音を取る人だ。音が取れると、あーそうかースゴイなー、と自分では思いもつかないフレーズに感嘆する。ミュージシャンの音楽に対する姿勢に感動する。なんて真剣に音楽に向き合っているのだろう。

 「ところでイズさんは野菜工場で働いてるんですよね?」「そう。レタス作ってる」環境問題は一向に解決せず、野菜はほぼ工場生産。プランクトンもいなくなって、魚も工場。肉も工場。養殖場というのか?自然の物もあるらしいが、高価なので私はよく知らない。私達庶民が口にするのは加工品が多い。人間の子どもは滅多に産まれない。そのうち人間も工場生産になるのではないか…「お仕事大変ですか?」「ううん、作業はロボットがするから、ほぼ見てるだけ。おばちゃんでも充分できるよ。たまにレタスも食べれる」

 そんな話をしていたら、ジョージ・ベンソンとアル・ジャロウのFour が流れてきた。二人ともとーっても歌が上手くて、とーってもリズムがいい。黒人は皆んなリズムがいいのだろうか?リズム音痴の黒人は居るのかな?「Four には歌もあるんですね」「そうなんだよ。私はこのテイクで知ったんだ」

 ジャズと呼ばれる音楽は大きく分けて二種類ある。歌とインストだ。歌はボーカルとも言って、文字通り歌が主役だ。歌手が歌って、楽器奏者が伴奏する。間奏などで楽器奏者のソロが入ることもあるし、歌詞がない歌を歌うこともある。が、やはり人間の声はいい。歌には力がある。私はサックスを吹くが、歌には敵わないとよく思う。ジャズを知らない人でも聴きやすいと思う。

 一方インストはインストゥルメンタルの略で楽器だけで演奏される。大抵の場合最初にテーマと呼ばれる主旋律が演奏される。次に各奏者のソロになる。ソロは即興で行われる。いわゆるアドリブソロだ。即興と言っても全て自由という訳ではない。全て自由のジャズもあるんだけどね。大抵は和音、すなわちコードに沿ってアドリブを展開する。ジャズはコードが凝っていたり、難しかったりするので、アドリブソロをする為にコードの勉強が必要だ。インストは、アドリブソロの面白みを感じるのにも勉強が要るかもしれない。聴いても楽しくない、難しそうなどと思われがちだ。でもね、心身を全て注いでる演奏を聴いたら、伝わるモノがきっとある。

 ジャズはやる側にとっては実に面白い。最初の頃は中々できないし、演奏するのが怖いな、と思うこともあった。音楽の中で、ジャズほど自分自身が裸にされる音楽は無いだろう。上手でも下手でも全部曝け出してしまうのだ。だから練習する。やっても全然できるようにならないのだが、もっと頑張りたいと思ってしまう。底なし沼にハマった感この上ない。

 私はセイにジャズ講釈を垂れた。たまにはいいだろう。こんな話はあまり人と話さない。セイは時々相槌を打ちながら興味深げに聞いてくれている。

 私は調子に乗って講釈を続けた。Four のように歌バージョンも有り、インストバージョンも有る曲は沢山ある。元々は歌曲を楽器だけで演奏する場合と、インスト曲が気に入ったのか後から歌詞がつく場合がある。Four は後から歌詞がついたタイプだ。人生には四つの大切なモノがある。それは"真実""名誉""幸福""愛"だ、という内容を歌っているらしい。英語分からないけど。

 そう言うと、セイは感心したように「そうですか」と言った。そして何か考えるように「イズさんもその四つが大切だと思いますか?」と続けた。私は少し考えた。「そうなのかな…。でもその四つは人によって違うんじゃない?生きてる世界に依るというか。"愛"は割と普遍的な部分が多いと思うけど、理解できない"愛"もあるよ」真実はいつも一つではないんだよ。

 ジョージ・ベンソンのFour が終わると、また違う奏者のFour が始まった。「ねぅ、この音源にはFour しかないの?」「そうなんです。Four ばかり10曲です」「めちゃFour が好きなんだね」「10曲のFour ですよ。何か感じませんか?」10曲のFour …10の4…確かそんなスラングがあったような…「わかった!10(ten)-4(four)だ!"了解"だね?」「正解です。さすがです」「ホントに?合ってる?何か嬉しいな〜」伊達に長いこと生きてないんだよ〜。「10曲のFour で"了解"なんて、友達はジャズ好きの暗号好きだね」などと和やかに10曲のFour を楽しみながらドライブは続く。

 Four シリーズが終わるとセイが音源を変えた。コルトレーンのBlue Train が始まった。「へー、これも友達の音源?」「そうです。この人ジャズ好きですね。この曲はイズさんも好きですか?」「好きだよー」Blue Train を初めて聴いた時は、これこそジャズ!と思ったものだ。渋いし、カッコいい。コピーしようとしたが、中々できず、コピー譜で練習した。コルトレーンのようにジャズ史に名を残したミュージシャンのアドリブソロは、楽譜として市販されている。大体の音はそれで分かる。が、吹ける訳ではない。自分でコピーするのとは違う。音使いが分かるぐらいだが、それでも私のような凡人には有益だった。

 2曲目はMoment’s Notice。この曲もいいよね。テナーサックス、トランペット、トロンボーンの3管でやってみたいな〜やれる時がくるのかな?

 3曲目はLocomotion 。トランペット奏者のリー・モーガンがカッコ良すぎる。この人は音がいい。小気味良い。やっぱりトランペットはリーが1番と思わせる。

 4曲目はI’m Old Fashioned 。何を隠そう私はこの曲が一番好きだ。コルトレーンのテーマ演奏も包容力があって素晴らしいが、トロンボーン奏者のカーティス・フラーのアドリブソロが最高だ。古き良き時代の映画でも観ているように、じんわりと自分が温まっていくのを感じる。

 5曲目はLazy Bird 。アップテンポの曲だ。ケニー・ドリューの軽快なピアノイントロから始まり、テーマはリーのトランペット。いいよね。

 以上の5曲でアルバム『Blue Train 』は構成されている。アルバムタイトルは1曲目のタイトルと同じなのだ。私の趣味全開の解説を、セイはニコニコ聞いている。

 アルバムを一通り聴き終えた。再びタイトル曲のBlue Train が始まった。このアルバムは5曲編成なのだが、CDになった時かな、別テイクを入れて7曲になっている。6曲目はBlue Train で7曲目はLazy Bird である。1曲目、5曲目と同じ曲だが、アドリブソロが違うのだ。初期のジャズのアルバムでは、このような作りのCDがたくさんある。こうすればLPを持ってる人も興味をそそられ、新たにCDを買ってくれるだろうという作戦だな。

 Blue Train の次はLazy Bird だと思っていたら、Moments Notice だった。珍しいバージョンだ。これも別テイクだ。「この音源は友達が作ったの?」私は思わずセイに尋ねた。「そうですよ。この音源はアルバムを2回通り録音されてます」「へ〜凝ってるね」

 Locomotion も別テイク。I’m Old Fashioned は同じだった。Lazy Bird は別テイク。アルバム『ブルートレイン』が繰り返し録音されているようだが少し違う。別テイクなのだ。セイは気づいていないのか?「そうなんですか?全然分かりませんでした」と驚いている。ジャズに慣れてなければそんなものか…アドリブソロは全く違うけどな…「やっぱりイズさんはスゴイです。この音源も例のジャズ好き暗号好きの友人の物ですが、何か意味があるのでしょうか?」そうか、この謎を解いて欲しい訳だ。ブルートレインが2回か…何だろう?

 まず思いつくのは電車かな。ブルートレイン復活!なんてニュースも見たような…。年寄りが増えたから懐古趣味で寝台車にも需要があるのかな。しかし電車を示しているのなら、何故『ブルートレイン』が2回録音されているのだろう?「僕もそう思います」

 ブルートレインを舞台にした有名な推理小説もある。暗号なのだから小説にヒントがあるのだろうか?何の為の暗号だろう?それぐらいセイは知ってるんじゃないの?

 と思ったら、ナビが「まもなくナーノインターです。高速道路を出て一般道へ入ります」と告げた。そうか、そんなに走ったか…時刻は12時になろうとしている。

 「このままだと仏像のあるお寺に行くよ。この時間ではさすがに入れないと思うけど、どうする?」「そうですね。近くのホテルに向かいましょう」「了解」私はナビに案内を頼んだ。しばらく走るとホテルの地下駐車場入り口に着いた。「入ってすぐに出てください」と言いながら、セイはナビを操作し始めた。「ここからは運転記録が残らないようにしました。僕がナビします」えっマジで?一体私に何をさせるつもり?ちょっとビビるなぁ。でも、まぁ言う通りにしましょう。乗り掛かった船というやつか。もう驚かないぞ。深夜だからか、とっても静かだな、などと考える。

 その後20分程走っただろうか。久しぶりの運転で知らない道を頑張った。後半はどんどん周りに木々が増えてきて、山に向かっているのだと感じた。


 着いた所は林の中だ。と思ったら、少しスペースがあって、壁(?)がスーっと上がっていく。「その中へ車を入れてください」とセイが言うので、私は何とも言えない空間にそろそろと進んだ。ここはどこ?

 フィアットが進んだ先はどう見ても車庫と思われる。入ってきた壁がまた閉まって、明かりがついた。コンクリートで造られているようだ。車は5、6台入りそうな広さだ。天井も高い。「降りましょう」と言われて我に帰る。だがシゲシゲと見てしまう。こんな所にこんなモノが…。辺りを見回すと他にも1台車が停まっていた。車種は分からないが、よく見かける国産車だと思う。

 「やぁ、よく来たね」いきなり男の声がした。振り返ると、中年…より少し年代が上か…品の良さそうな学者風のオジサマがいた。「あなたがイズさんで、君がセイ君?合ってるかな?私はカガといいます。この館の家主です。ここでは何だから中へどうぞ」私達は荷物をトランクから出して、カガ氏に付いて歩き出した。カガ氏がセイの先生なんだろうか?さっきの言い回しでは初対面のようだが。しかし眼光は中々のモノだ。緊張感で背筋が伸びる。

 車庫はドア1枚で建物と繋がっていた。そこは収納庫らしきスペースで、またドアが2つあった。「こちらへどうぞ。あちらのドアはキッチンに通じています」とカガ氏に言われた。ドアを開けると食堂だった。南仏のリビングの感じで落ち着いた明るさがある。クリーム色の壁には、ドライフラワーや絵画が飾られている。ダイニングテーブルや椅子には高級な木材が使われていた。年代物のアップライトピアノもある。ピアノ前には眩いばかりの美女がいた。「この人は私のワイフ」カガ氏が紹介すると「ミキです」と言って美女は微笑んだ。セイが自己紹介をした。私の紹介もしてくれたので、私は軽く頭を下げたが、頭の中は?でいっぱいでフル回転している。 「お疲れになったでしょう?お腹空いてないかしら?簡単な物なら用意できるから」とミキさんが言って食事になった。

 本当に簡単なものがでてきた。レトルトのリゾットとトマトにドレッシングがかかったサラダ。飲み物はワイン。どれも美味しい。どれも高級に違いない。食堂の椅子は座り心地がいいし、テーブルも見た目より重厚感がある。シンプルなインテリアだが気持ち良い空間だ。

 カガ氏は地質学を研究しているらしい。特にこの辺りを調査しているとかで、こんな山奥に住んでいるのだ。仕方ないのでミキさんも一緒に住んでいる。近所に住んでいる夫婦が、週に3日ほど家事や庭仕事を手伝ってくれる。彼らは野菜の温室栽培を生業としており、今食べているトマトも彼らからもらったものだ。なるほど、美味しいわけだ。

 この館は二階建てで東西に長い造りになっている。一階部分は今私達がいる食堂、キッチン、玄関ホール、研究室である。二階は客用の寝室と夫婦の寝室である。

 そんな事を話しながら食事をしていたら、さすがに疲れが私を襲ってきた。「もうお休みにならないとね。明日の朝はゆっくりしてらして」とミキさんに促され、私とセイは寝室に行くことになった。

 食堂から玄関ホールに通じるドアを開けると、またまたいい感じの雰囲気だ。薄暗くてはっきり見えないが、向こう側にあるドアは研究室に通じているのだろう。ホール中央奥に螺旋階段があったので、セイと2人で上がった。荷物はセイが持ってくれた。セイに聞きたい事は山ほどあったが、疲れていた。明日にしよう。階段を上がって一番端、即ち西の部屋を私は使うことにした。セイは隣りの部屋だ。ひとまず私達はここで別れた。

 部屋のドアを開けると明かりがついて、綺麗な透き通るような女性の声が挨拶してきた。「こんばんは。ユウです。御用の際はお声掛けください」この部屋のAIさんと思われる。見回したがロボットはいない。声だけかー。このタイプはずーっと見張られてる感があるんだよな。「お世話になります。よろしく。今日は疲れているので、もう寝ます」一応丁寧感を出さないとね。いい感じでお付き合い願いたい。しかしAIが居るという事はカメラや盗聴器もあるのか?取り立てて隠すことはないが…。

 部屋は南仏の田舎の家みたいだ。ベッド、机、椅子があり、バスルームもある。インテリアが19世紀みたいでいいね。むしろ好きかも。

 とりあえず私はベッドに寝転がると自分の端末をチェックした。いつものように宣伝のメールばかりだ。削除した。他に見る物は無さそうだ。次に常備薬を服用した。これを飲まないと明日が大変だ。それからシャワーを浴びながら、長かった今日の事を思い出していた。何故ここでシャワーを浴びているのか?考えた。カガ氏は私の名前を知っていた。セイが伝えたのか…。一体どういう事になっているのだろう。まー明日でいいか。


 翌朝目覚めると午前9時を回っていた。よく寝た。ぐっすりだ。昨日のハードさを取り返した。

南側のカーテンを開けて見ると目の前は山だ。赤や黄色や緑やらで見事なものだ。紅葉が始まっている。自然か豊かというのは素晴らしいと感心して、下を見ると庭らしきものがある。空き地みたいなものだ。庭の周りは樹木だ。西側のカーテンを開けると、手を伸ばせば触れられる距離に枝葉があった。

視線を室内に戻す。家具類は質が良さそうだ。アンティークというやつか?研究所と聞いたが、スポンサーでもついてるんだろう。

 身支度をしてドアを開けると廊下に出た。昨夜も見てるはずなんだが、元気な朝に見る景色は別物だ。廊下は館の北側に位置し、東西に延びていた。小さめな窓があり、カーテンが開いていた。窓の外には、やっぱり木がある。館は樹木に囲まれているようだ。一応セイの部屋をノックしてみた。返事は無かった。とっくに起きて研究室にでも行っているのだろう。

 昨夜上がってきた螺旋階段を降りた。何故螺旋階段なんだろう…中心に近い所に数字が書いてある。段は不規則だ。どうしてだ?

 玄関ホールに着くと研究室の扉が気になった。ノックしてみたが返事が無い。返事が無ければ入れないよね。そんな事よりお腹が空いた。食堂で何か食べさせてもらえるだろうか。

 食堂のドアを開けると眩しさに驚いた。ミキさんがいたのだ。美しすぎて光り輝いている。ライトでも当たっているのか?朝からスゴイな、と思ったが、そんな事は億尾にもださず「おはようございます」と丁寧に挨拶した。

 「あら、イズさんお目覚めね。おはよう。何か召し上がる?」よく見るとセイとカガ氏もいた。ミキさんに照明が当たっているので、他の人に気づくのが遅れるのだ。彼らは朝食を摂っていた。2人とも挨拶を交わし、私も朝食をいただくことにした。

 「あらあら初めまして。昨夜遅くにいらしたイズさんね」温かく響くような声がした。「私モリといいます。この家の家政婦みたいなもんね。時々手伝いに来てるのよ。ご飯は何食べる?お米?パンもあるわよ」よく喋りそうだなー。私はパンを頼んでテーブルに着いた。

 昨夜と同じメンバーでの食事タイムだ。私は話題を探した。「ミキさんは本当にお綺麗ですね。女優さんみたいです。カガさんもテレビで拝見したような気がします」と言うと「まあイズさんお上手ね」とミキさんが意味あり気に微笑んだ。「大昔の女優で私とよく似た方がいらしたらしいわ。でも似てるだけよ。今頃その方は亡くなってるんじゃなくて?」私は曖昧に「それもそうですね」と答える以外にないな。ミキさんは美しい。そして怖い。

 研究室を見せてもらうことになった。ドアは二重になっていた。つまりドアを開けるとまたドアがあるのだ。秘密にしてるのか、温度設定をしてるのか、他にも二重ドアの理由があるのだろう。

 研究室には石なのか岩なのか、そういった物がたくさんある。地質学を研究してるだけある。分析用だろうか?機器類もある。コンピュータもあって、雑多な雰囲気だ。 

 「分析か進んで整理されたものはちゃんと仕舞ってますからご心配なく」とカガ氏が説明してくれる。後方にドアぐらいの棚があって、そこに保存するらしい。

 「イズさんはこれらを見て何か思いますか?」「う〜ん、とりあえず思うことは無いですね。ある程度地形や歴史を勉強すれば、違って見える気がします」まぁ、これが正直なところだ。

 私達の様子を見ていたセイは、「地学とか考古学とか人類学などは密接に関わっているんですよ。どこを勉強しても面白いですよ」などと言っている。私は考古学とか人類学という言葉自体に引っかかる。若い頃そんな勉強しただろうか…カガ氏やミキさんも同列で私の胸をよぎる…ブルートレインの暗号は解けたのか?私の中にモキモキと現れるこれらの疑問は一体何なのか…なんだか背中がゾワゾワしてくる。どうして?ブルートレインが通り過ぎる感覚が何なのか?教えて欲しさにセイを見る。あぁ、セイの眼が竜巻を起こしているのだ。グルングルン…

 ちょっと整理整頓しなきゃいけない。耐えられなくなってきた。「私、庭に行かないと、と思うんです。いいですか?」セイとカガ氏は頷いた。


 螺旋階段を上がった。不規則な段だ。自分の部屋から携帯サックスを持って庭へ出た。二階から見える庭とは違っていた。名前はわからないが、大きな木が何本もあった。道路から見たら、ここに館があるとは思えないだろう。

 庭の端の木の根元に座った。携帯サックスをケースから出して組み立てる。音量は少し小さくしておこう。まずはBlue Train でも吹くか。自分の出している音はサックスのコルトレーンのパートだ。リズムセクションやトランペット、トロンボーンの音をイメージして吹く。テーマを2回繰り返す。アドリブの出だしのフレーズはコルトレーンぽくするといい。その後もノレそうだ、私なりに…

 「それは何ですかい?」いきなり声を掛けられた。見上げると、人の良さそうなオジサンがいる。ああ、モリさんの旦那さんかな。夫婦で手伝いに来てるって言ってたような。旦那さんは庭担当か。

 「これは携帯サックスです。実際のサックスには及びませんが、持ち運びが便利なんですよ」「そうですか。いい音ですねぇ」「ありがとうございます」「今の曲は?何て名前の曲ですか?」「ブルートレインていうんです」「ブルートレイン!青列車ですなぁ」何だか嬉しそうだ。「青列車は懐かしいですよ。祖父がね、土砂を運ぶ仕事をしとったんですがね。列車でね、行き来しとってね。この辺りじゃ、その列車を青列車と言うとったんですよ。そのうちトラックに代わってしまったんだけど…。ちょっと淋しかったけどねー。青列車は公園に展示されてね。ワタシは好きでよく見に行ったもんです」

 その件りを聞いた途端、私の中に衝撃が走った。私の脳裏に青列車がマザマザと姿を現したのだ。それからマーゴという女の子、そういえばマーゴの眼はセイの眼と同じだ。どうして忘れていたのだろう。頭が痛い。背中がゾワゾワする。「どこか具合でも悪いですか?顔が真っ青だよ」オジサンが心配そうに覗き込む。「そうみたいです。私部屋に帰ります」消え入りそうな声で、そう言うのがやっとだ。私はフラフラと歩きだした。


 やっとの思いで螺旋階段を上がり部屋にたどり着いた。寒気がする。布団をかぶって目を閉じる。

「どこか具合でも悪いですか?体温が高くなっています」ユウさんだ。「気分が悪いから休みます。大したことないないから大丈夫だよ」と言っても報告するんだろうな。でも彼女の仕事だから仕方ない。

 それよりマーゴだ。マーゴは若い頃の友達だ。ジャズの入り口を作ってくれた人だが、付き合いは1年も無いだろう。大事な大事な友達なんだ。当時私はジャズ初心者だった。マーゴはまあまあイケてたと思う。当時の私にはマーゴの実力などわからなかったけど。一緒にセッションに行ったり、ライブを聴きに行ったり…。マーゴに教えてもらったことはたくさんある。

 そうだ。マーゴは考古学を勉強してるからナーノ県に行くことになって…ナーノ県にはブルートレインが展示してあるから一緒に見に行こう!て話になり、それで…どうしたかな…あー身体が痺れる感じがする。今までマーゴのことを思い出したことは無かった。完全に記憶外だった。どうして忘れてしまったのだろう。そして今急に思い出したのは何故だろう。発熱までしてる。

 ドアがノックされた。「セイさんがいらっしゃいました。ドアを開けますか?」とユウさんが言うので、通してもらった。

 セイが部屋に入って来た。そう、その眼はマーゴの眼なんだよ。「大丈夫ですか?モリさんか心配してました」セイはベッド脇で私を覗き込む。その眼はマーゴの眼だ。単刀直入に行こう。「セイはマーゴなの?」

 セイは黙って私を見つめた。言葉を探しているのか…「僕はマーゴではありません。遠縁の者です」極めて冷静にセイは答えた。セイがマーゴのはずはないか…ジャズ分からないしね。しかしどう見ても直系親族。顔そっくりじゃん。

 「マーゴはどうしてる?」セイはゆっくりと窓際の椅子に座った。そして言った。「全部思い出したんですか?」「ううん、よくわからない。断片的」「そうですか」表情は変わらない。「マーゴは私の友達だった。大好きだったんだ。セイにそっくりだよ」「そんなに似てますか?」「似てるよ。私達ナーノ県へ一緒に行ったんだ。そして青列車を見た。青列車はコルトル山を走ってた。「なるほど」「それが知りたかったの?」「そうかもしれません」

 「あの音源はマーゴが作ったの?」Four とBlue Train の音源のことだ。「そうです」やっぱりそうか。「どうしてセイが持っているの?暗号はマーゴに聞けばいいじゃない?」「聞けないんです」「どうして?」「先日マーゴは亡くなりました。あの音源は遺品の中から見つけました」えっ、亡くなった…マーゴの軽やかな笑顔が頭をよぎる…「マーゴ、サックス上手くなったかな…」「多分時々吹いていたと思います」「フーン」本当かな?テキトーに答えてたりして。私とマーゴでセッションする。楽しそう。でもそれはできない。悲しいけど涙なんか出ない。今まで忘れてたぐらいなんだからさ。

 「暗号が示していたのはコルトル山なの?」「それは分かりません」分からない?言えないのか…秘密が多いな。「わかったよ。でも私もコルトル山に行きたい。行くんでしょ?」セイを見た。少し慌てたように見えた。「わかりました。相談してみます。イズさんの意向は伝えますが、どうなるかはわかりません」「わかった。相談してみて。結論が出たら教えてね。私しばらく休んでるから」「はい、何かあったらすぐ連絡くださいね」そう言うとセイは部屋から出て行った。

 私は身体がダルくてベッドから起き上がることが出来なかった。目を閉じた。できればこのまま眠ってしまいたい。マーゴの笑顔が浮かんだ。どんなサックスを吹くんだろう。どうして私はマーゴのことを忘れていたのだろう。

 セイは相談すると言った。カガ氏とミキさんに?それとも他の誰か?端末でコルトル山を調べた。館からの距離を調べようとしたが、館がわからない。ここは一体どこなんだ…


 「イズさん、お加減いかがですか?」という声でハッとした。眠っていたのか?部屋を見回したが誰もいない。「イズさん、お食事召し上がりましょう」また声がした。モリ夫人の声かな。どこにスピーカーがあるのかわからない。「気分が優れないので、もう少し横になってます」と答えた。身体はまだ熱を持ってる気がする。「わかりました。少しは食べた方がいいから、食事はセイさんに持って行ってもらいますね」モリ夫人の声は優しい。ホッとする。

 ドアをノックする音が聞こえた。「セイさんがいらっしゃいました。お通しします」ユウさんは先ほどの会話をしっかり理解している。よくできたAIだ。

 セイがトレイを持って現れた。「ありがとう」私はテーブルへそろそろ移動した。眠ったせいか、精神的にも体力的にも回復しているようだ。「いただきます」美味しそうなさつまいもがある。これは食べたい。「美味しいですよ。僕はもう食べました」「話があるんでしょ?いいよ。話して」「はい、ではお食事中ですが…。コルトル山について調査しました。明日早朝向かいます。イズさんも同行していいそうです。どうしますか?」「もちろん行くよ」マーゴは何をしていたのか知らないといけない。「わかりました。明日早朝午前5時に出発します」「わかった。よろしく」「少し元気になりましたね」「さつまいもが美味しいからかな。モリ夫人に喜んでたって伝えてね」「わかりました。明日楽しみです」そう言うとセイは少し笑って部屋から出て行った。今は…夜8時だな。明日の朝は早い。もう寝た方がいいかな。さつまいも最高に美味しいな。

 食事後はシャワーを浴びた。ほぼ体調は戻ってきた感がある。お約束のメールチェックをして、ロクなメールがないんだけど、その後荷物の整理をして常備薬を服用。ベッドに入って考えを巡らせた。


 明けて朝は4時半に起きた。昨日は寝てばかりいたせいか身体は爽快だ。身支度を整えて駐車場へ向かう。途中の食堂にはカガ氏、ミキさん、セイがいた。「おはよう。パンとコーヒーくらいどう?お腹空いちゃうわよ」とミキさんに促され、それらをいただいた。やっぱりパンもコーヒーもとっても美味しい。 

 「じゃあ気をつけて行ってらっしゃい」「事故のないように」「はい、行ってきます」と当たり障りのない社交辞令のような挨拶をして出発だ。

 「フィアットで行きましょう」とセイが言った。驚いたことにセイは運転席に乗り込んだ。運転できるんだ。ま、こんな山奥ならパトカーに遭遇することもないか。

 私が助手席に乗り、車庫のシャッターが開くと再び驚いた。霧が立ち込めていたのだ。フワフワと霧が流れてきて、辺り一面真っ白だ。夜明け前で空は暗い。これでは私は車を運転することなどできない。

 セイはライトも点けずに走り出した。見えるのか…セイの横顔を見つめた。こんな霧の中を運転できる眼を持っていて、コンピュータにも精通している。他にも人間離れした能力を持っているのかもしれない。セイは人間ではないのか…?そうかもしれない。だが人間かそうでないか、わたしはどっちでもいい。セイはセイだ。


 向かってきては流れていく霧を見つめて、まるで雲の中を走っているようだと感じた。フィアットに乗って雲の中か…幻想的で現実から乖離している感覚だ。心は素直に静かになっているようだ。

 「色々確かめたいことがあるんだけど」私は切り出した。「わかりました。何でも聞いてください」セイもその気になったのか。「まずフィアットは盗聴、追跡されているのかな?」「その点はご心配なく。盗聴も追跡もされていません」そうか。とりあえずセイを信じよう。「目的地まではどのくらい?」「時間にして20分くらいです」なるほど。少しは話ができそうだ。 

 「じゃあ、私の憶測だけど、キーボードで私に声かけてきたのは偶然じゃないね?計画の上だね?」「はいそうです」澱みない返事だな。「計画というのはカガ氏の館に私を連れて来て、私の記憶を取り戻すことだった。合ってる?」やっぱりそうか…。

「マーゴは暗号を遺して死んだ。あなた達はその暗号を解けなかった。だからマーゴの友達だった私を連れて来た。何か知ってるんじゃないかと期待したわけだね」「そうですね」

 「私が記憶を消されてることを知っているということは、カガ氏が私の記憶を消した張本人だということだ」セイは私をチラッと見て「思い出したんですか?」と言った。「いや、ハッキリ思い出した訳じゃない。でも会ったことはあると思う。ミキさんも。あの館にも行ったことがある。螺旋階段に覚えがあるから」小間切れの記憶の断片にはカガ氏やミキさんや螺旋階段の映像も含まれる。

 「どうやって私の記憶を消したのかな?」「当時は多分催眠術だと思います。僕には分かりませんが」そうだよね。24歳じゃ産まれてないよね。「私とマーゴの付き合いは記憶を消さなきゃいけないほど、都合が悪いことだったんだね」セイは沈黙している。

 「そして今度は思い出させようとした。ご飯美味しかったけど、何か入っていたんじゃないの?記憶をハッキリさせる薬とか…」「そうかもしれません」曖昧な答えだ。「モリさんにも青列車のはなしをさせてさ…」「あのエピソードは本物らしいです」そうなんだ…。「でも私はコルトル山のことしか思い出さなかった。コルトル山は違うんでしょ?既に調査済みだった?」何の調査だか知らないけどな。「そうですが…どうして分かったんですか?」「それはね、コルトル山の話以来、セイの表情が微妙に強張って見えたから」「僕の表情が…イズさん観察眼スゴイですね。なるほどなぁ」

 霧はまだ晴れない。相変わらず雲の中をフィアットは走っている。もう20分くらい経ったのではないのか。もしかして話をするために適当に走っているのか?

 私の憶測は続いた。「私は役に立たなかった。始末しろ、とカガ氏に言われた?」セイは何も答えなかった。「マーゴが死んだ今、イズは用無しだから、事故に見せかけて崖から落とせ、とか?」セイを見つめる。ああ、ホントにフィアットは宙に浮いてる気がする。これは現実なのか…それとも異空間なのか…。

 ややあってセイが言った。「たとえそう命じられたとしても、僕はイズさんを守ります。マーゴはイズさんを大切に大事にしてきました。僕もそうしたい」セイは言い切った。「そう…ありがとう…」それだけ言うのが精一杯だ。前を見た。霧が、時の無い世界に手招きするように流れていく。マーゴ、死んでしまったんだね。一体どうして?おばちゃん同士で再会したかったな。と、ふと閃きが降りて来た。セイだ。セイがこんなにも優秀だからかも…。だからマーゴは…。

 いやいや感傷に耽っている場合ではない。しっかりして言う事言わないと。「あのねマーゴの音源のことだけど。私思うんだけど、あの暗号はもっと単純なんじゃない?マーゴが私のことを大切に思ってくれてるなら、私を変に巻き込むような暗号を残さないと思うんだよね」「それはつまり?」「ブルートレインは2パターン録音されてた。最初のブルートレインは楽譜にもなってる、よく知られたテイク。後のブルートレインはオルタネイトテイクなんだよ」「オルタネイトテイク?」

 ジャズのCDでは、オルタネイトテイクとして同じ曲が入っていることがある。アルバムを作る時、1曲全て1発録りということはない。(あるかもしれないけど) 2、3回録っていたりする。LPを出す時は1曲ずつ構成されていたものが、CDに変わった時少しおまけをつけなきゃ!と思ったかどうかしらないが、同じアルバムだけど、CDにはオルタネイトテイクも特別に入ってるぜ!だからLP持ってる人もCD買ってくださいよ。という感じかな。

 マーゴの音源で伝えたかった暗号はオルタネイトテイクだ。だからブルートレインが2回通り入っている音源を作った。でもジャズに慣れてなかったセイには全部同じに聞こえた。セイはブルートレインが走ってたコルトル山だと思った。暗号がオルタネイトテイクなら調査すべき場所がある。

 セイの眼に緊張感が漂った。「それはどこなんですか?」「それはね、たまたま地図を見てて発見したんだけどね、オウタネ山。マーゴはオウタネからオルタネイトを連想したんだよ。ジャズの人だから」少し顔が笑む。ま、正解かどうか分からないけどね。

 「なるほど、すぐに向かいましょう」と言って、セイはオウタネ山に向かって走り始めたようだ。眼の中にナビでも入っているのかな。便利すぎる。セイはすっかり元気になっちゃって「イズさん早く言って下さいよ。あーちょっと距離あるなぁ」なんて言っている。I’m Old Fashioned は元テイクのままだった。単に別テイクが見つからなかったのか?マーゴも好きな曲だからか?それとも私へのプレゼントなのか?


 しばらくしてセイはフィアットを停めた。運転席を降りて辺りを見回している。空はうっすら明るくなってきたが、霧は晴れず、私には白い景色しか見えない。

 「ありました。オウタネ山でした。イズさん、サスガです」唐突だなぁ。一体何がみえるの?「イズさん、どうします?一緒に行きますか?」「行く」実はこれは昨夜から決めてあった。マーゴとセイが関わっている何かを出来る限り見届けたい。その場になると優柔不断になることは分かってる。自分が1番関心がある事を見なきゃいけない、と心に決めてきたのだ。「わかりました。行きますか」

 少し走ってまた停車した。セイが「ここで降りますよ」と言う。私も慌てて降りる。相変わらず世界は真っ白で、視界は手の届く範囲だ。いきなりセイが視界に入ってくるとビックリする。「イズさん、これを着てください」とビニール製(?)の物を渡された。広げてみると、安価な白っぽい携帯用のレインコートのようだ。えっ濡れるの?と思っていると「カメラ避けのウェアです。下から履くように着てください」との説明があった。そうか、例の透明マントか。ウェア版もあるんだ。着てみると全身すっぽり包まれる。霧に同化してるような…眼の部分だけ透明になっている。宇宙服…いやいや廃棄物処理場の作業員かな。次にセイは自分と私をゴムベルト(?)で繋げると「行きましょう」と言って歩き始めた。

 世の中真っ白だから寸前にならないと何があるか全く分からない。セイの後ろ姿も何となくしか見えない。そんな視界で、半ば引き摺られるように私は歩みを進めた。草木が生い茂った薮のような所を歩いていることは分かる。バキバキ木が鳴るし、それらしき匂いもする。私は必死で歩いた。まるで余裕が無かった。セイはゆっくり歩いてくれていると思う。

 10分ほど歩いていたか…急にセイが立ち止まった。「金網があります」と言う。ほう。立ち入り禁止ということか。しばらく金網に沿って歩いた。「これを見てください」そう言ってセイが示した箇所を見ると何か書いてある。えーと、’’これより先は特別自然保護区 立ち入り禁止"と読める。そうして人が入らないように制御してるようだ。「入れないじゃん、どうするの?」と聞くと「必ず出入り口はあるから大丈夫です」とにこやかに言われた。

 セイの言った通り出入り口があって、私達は中に入った。といっても再び薮の中を歩く。またもセイが立ち止まった。「ここに非常口があります。しかし何年も使われてなかったようなので、鍵を探しますね」非常口が見えるんだ。スゴイね。「どのくらい使われてないの?」「設備は30年くらい前の物でしょう。この非常口は1度も使われてないかもしれません」そんな事あるの?あの立ち入り禁止標識から察するに国の建物だよね。全く税金の無駄遣いだ。「中に入るの?」「入りますよ。人手不足で管理はロボットがやってるから大丈夫ですよ」「でもロボットだって不審者には警戒するでしょ」「大丈夫です。報告はするかもしれませんが、攻撃してくる事は無いと思います」あぁ、そうかもしれない。少し前にロボットが人間を殺したとかで大問題になった。勝手に潜り込むのは良くないと思うが、私のマーゴに対する使命感の様なものに、私の全身は逆らえない。ロボットが攻撃してこないのなら、少し安心だ。

 程なくセイは非常口を探しだした。「このタイプは外からも入れます」そう言ってまたゴチャゴチャ操作を始めた。眼はいいし、機器には強いし最強だ。「開きました」さすがセイ。


 中を見ると、今度は真っ暗だった。再びセイに引き摺られるようについていく。施設内ということで平坦な床は歩き易い。しかしこの暗さは繋がって内と迷子になってしまう。

 しばらく歩くと何やら広範囲にほんのり明るさが見える。もう少し進んで、私は「プラネタリウム…?」と思わず呟いた。でも何か違う。近づくにつれ気がついた。そう!これはライブアプリの裏側の基盤だ。しかしドームの天井のように大きい。広い。どういう事だろう。ここはオウタネ山のはず…。という事は、オウタネ山の木々はライブアプリから生えている⁈

 ライブアプリの基盤から視線を下に落とす。薄暗がりの中に鈍い光沢の尖端が丸っこい円錐が見える。ズドーンと下まで円錐からの円柱があるようだ。ふと目の前の柵に気付く。柵は円柱の周りを遊歩道みたいに囲んでいる。円柱の直径は3メートルくらいだろうか。ああ、こういうのテレビで見たことあるな。もしかしてミサイル?大陸間弾道弾?えー!

 大昔、冷戦時代と言われてた頃だ。木が生えている地面がスライドして、ミサイルの頭が出てくる映像を見たことがある。その時も驚いた。半ば呆れたけど。サンダーバードの見過ぎじゃない?そして今目の前にそれを見て、もっと驚いている。わざわざライブアプリでカムフラージュして、こんなの配備してるんだ。迎撃用かな。まさか攻撃用じゃないよね。税金使って、全く。

 「イズさん走りますよ!」急にセイが叫んだ。いつのまにかセイと私を繋いでいた腰ベルトは外されていた。「もうすぐ爆発します!走って!」は?爆発?頭が追いつかなくて「ムリ!」と叫ぶ。「じゃあ」と言ってセイがかがんだ。おんぶか。「はい」と言っておぶさった瞬間セイが走りだした。はや〜い。私が走るより速いから。セイは力持ちなんだな。何でもできてスゴイな、と呑気な事を考えていたら、バーンと風圧がきた。ホントに爆発してるらしい。

 セイの背の上の私の頭の中ではFour が流れていた。Four 、四つの大切なもの…セイはどうしてミサイル基地を爆破してるの?マーゴはどうしてこんな暗号を残したの?ねぇ、それがあなた達の真実?あなた達の名誉?あなた達の幸福?あなた達の愛?私は無力な自分を哀しむ。私は無力な自分を諦めるしかないのか。


 また爆発の風圧が襲ってきて、私達は飛ばされたと思う。私はそのまま意識を失ったようだ。気づいた時はフィアットの助手席にいた。目を開けて辺りを見回すと、セイが運転している。「イズさん、大丈夫ですか?」と聞かれる。私は少し体勢を変えてみる。身体全体が痛重い感じがしたが、動けない程ではない。「何とかいいみたい」と答えた。セイは「コレ飲んでください」と言ってドリンクをくれた。「何?」「強壮剤みたいなモノです。身体痛いでしょう?僕もさっき飲んだんです」「ああ、ありがとう」

 窓の外を見ると、霧は随分晴れて景色も見える。たまに人家らしき建物も有り、人里まで下って来たようだ。

 「オウタネ山にあったモノを見ましたか?」セイから切り出してきた。「うん、ミサイルだよね?いつもあんな事してるの?」「まぁ色々です。依頼があればやるんです。僕達は生きるために色々やらなければならないんです」「そうなんだ」生きるために…本当にそうなんだろうか?「ねぇ、このまま隠れちゃえば?ほとぼりが冷めるまでウチに居ていいから」半ば懇願だな。でも君は私の大事な人の子孫なんだ。危ない事、恨みを買うようなことはしてほしくない。私がそんな事言っても無駄なのか?私は目の前の若者を引き留めることもできないのか。セイは何も言わない。言わないのか…。

 ややあって、セイは両側に大木が生い茂っている場所でフィアットを停車させた.「イズさんお世話になりました.色々教えていただきありがとうございました.本当はアパートまで送ってさしあげたい所ですが、ここより先は運転できません。僕は行きます。イズさんに会えるのを楽しみしていました。マーゴが言ってた通りの方で…。ジャズ講釈も楽しかった。決して忘れません」そう言うと爽やかな笑顔でセイは行ってしまった。私は…黙って見てる他ない。

 しばらくボーっとする。助手席を降りる。どっこいしょ。先程より身体の痛みが軽くなった気がする。セイのドリンク効果だろうか?フィアットの後ろを歩く。運転席に乗る。またどっこいしょだ。帰るか。運転に集中だ。

 高速道路に入ってオートドライブモードにする。少し気が抜けたせいか、どうして私はセイを止められなかったか、という考えがグルグル回り始めた。さっきリクエストしたビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビィ」が私の目を涙という液体で満たす。そしてどんどん流れ落ちる。

 私は全てを受け入れて、強く逞しく生きていくんだ。本当にそうだろうか?他人事だから、何もできないのでは?現在世界で起こっている戦争を停めることはできない。大切な友人の子孫を止めることもできない。さっきまで隣にいた子なのに。結局何にもできない。無関心と変わらない。

 エヴァンスのピアノは慰めてくれてるのか、他人事なんだから落ち着けと言ってるのか.聴けば聴くほど、私も冷静になっていく。

 地球上には苦しんでいる人がいる。自分は音楽などをやってのほほんと生きていていいのか。そのように考えている自分もいる。何かできることがあるのでは…


 アパートに戻って来た。AIのランちゃんに軽く挨拶。「無事に帰って来てくださり、大変嬉しいです」と喜ばれて満更でもない。

 フィアットを返却しなければならないが、疲労のため後回しにする。自室に行き、私のテナーサックスがあるのを確認して、ベッドに傾れ込むように横たわる。さすがに疲労困憊だ。やっぱり面倒だと思い、レンタカー屋にフィアットを取りに来てくれとメールした。長々とした了解メールが帰ってきて、程なく端末からフィアットのキイが消えた。  

 ふと気になってモニターをつけた.オウタネ山でテロがあり、私が指名手配されてたら大変だ。世の中どうなっているのか確認しなくては…ところがそんな報道はまるで無かった。どうなっているんだろう?夢だったのか?一応検索してみると、'オウタネ山で地震、震度3'という記事があった。地震か…みんな嘘つきだな…指名手配犯は免れたようだ。

 モニターを開けたついでにメールチェックをする。やたらと広告が多い。やたらとHappy Birthday という文字が踊っている。思わずカレンダーを確認。何と!今日は私の誕生日だ。そうだった。バースデー休暇だ。

 たくさんのメールの中に我が子からのメッセージもある。我が子も立派に自立した大人だ。とはいえ母の誕生日を覚えていて、メールを送ってくれることは素直に嬉しい。少しの近況も添えられ、健康で周囲と仲良くやってそうだ。充分だ。

 子どもの父親、つまり私の相方はもういない。何年も前に亡くなった。彼の名はボル。結婚経験者なら理解できると思うが、夫婦というものは色々ある。晩年の私達は腐れ縁同志のような関係だ。同志を亡くして、私は自分の半身をもがれた気がした。これからどうしたらいいか…

 悲しみと途方に暮れている時のことだ。政府から"高齢者労働促進法"なるものが施行された。この法律は、手っ取り早く言うと"働きたい高齢者はどんどん働きましょう!"というものだ。今までもそういう風潮だったが、今回は強力だった。今法律では"働いてくれるなら健康医療メンテナンス費用を国が出す”"今ならキャンペーン中で美容整形もサービスする“というのだ。

 少子化対策と引きこもり対策がうまく作用せず、この国には働き手がいなくなってしまった。外国からも働き手が来ない。これでは税金が徴収できない。国が回らない。そのため現在生きている人に頑張ってもらうしかない、という流れで生まれた苦肉の策である。医療の進歩は凄まじいから、これで何とかなる、と考えたのか。

 しかし「じゃあ働こう」みたいな人はいなかった。一般庶民は今まで散々働いてきたのだ。また働いて税金を納める人生をしたくない。至極当然の思いだな。

 ところがある日を境に変わった。おばあさん役をしていた85歳の女優が、ものすごく若返ってメディアに現れた。「あの人若く見えるよねー」なんてレベルじゃない。どう見ても30代。スタイルはいいし、話し方も全然以前と違う。今後医療費は要らないらしい。

 これには世の老人達もマイッタ。あの女優は政府の広告塔だとわかっているのだけれど、瞬く間に世の中は若返った老人だらけになったのだ。聞けば労働は軽作業でもいいらしい。長時間働かなくても全然いい。もちろんバリバリ働きたい人はそれも良し。「税金納めたるわ」「おしゃれにお金をどんどん使うわよ」世の中そんな人だらけになった。街も活気が出てきた。景気という言葉を久しぶりに実感した.

 と言ってもそんなに甘くない。医療メンテナンスをしても働かない人には厳しい罰があるらしい。契約違反だね。老人に戻されるなんて噂もあって、ホントの所は知らないが…

 適度に働いて生活を楽しむ人生もいいかも…私もそう思った。若返ればサックスの練習もできる。そして身体メンテを受けた。手術が終わって麻酔から目覚めた時の感動を今も覚えている。「からだカル!」と声に出してしまったほどだ。若い時はこんな風に身体が動いたんだ…としみじみ思った。鏡を見ればお肌はツルツル。皺もない。

 かくして私の身体は若返った。心はそのままだが…。退院時には看護士から「まあ!イズさん、お年が半分くらいになりましてよ」と言われた。そういう貴方は何歳なのかしら?

 それ以来レタス工場で働いている。家族に年齢不詳の者がいてもやりにくいだろうと思い、一人アパートで暮らすことにした。自由を謳歌したいしね。ジャズサックスも頑張りたい。コルトレーンを追いかけてね。とにかく地道に練習するだけだ。

 多分今年で112歳かな。休暇中に病院へ行って身体メンテをしてもらわないと。

 だんだん眠くなってきた。セイ死ぬなよ。できれば今の仕事は辞めてほしい。マーゴ、私はもう少し頑張るよ。マーゴぐらい吹けなきゃね。

 何だか2人の顔がぼやけてきたな。セイのくれたドリンク、何か入っていたんだろう。また忘れちゃうのかな。忘れたくないけど。

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