1-6 犬も死体もありえない
新築住宅に囲まれた中に築四十年の二階建てマンション「羊歯ハウス」はあった。駅からとスーパーまで十五分ほどの距離と車を所持していない学生にしてはやや不便よりの立地も家賃の安さと治安の良さを鑑みれば良物件だといえよう。そんなアドバンテージをぶち破るようにして吾妻屋の愛車である赤いトヨタのSUVはゴミ置き場の前に駐められていた。
ゴミ置き場に設置するには似つかない無断駐車禁止という張り紙も全ては吾妻屋による度重なる無断駐車によるものだ。
つい先日もそのことで吾妻屋はこっぴどく叱られたはずだったが、そんな記憶はどこにもないというふうに今日も誰もゴミが出せないように率先してその場に車をぴったりと横付けしている。
「お前さあ、この前泣くほど怒られたじゃん。本当に反省してる?」
「ここしか駐めるとこないからさ。悪いとは思ってるけど」
「反省、してないんだな」
「反省はしてます。でも、駐めるとこないししょうがないよね」
こいつのこういうすぐに開き直るところずるくて、でも世渡り上手いよなと思う。俺だったら、一度泣くほど大人に怒られたら二度と同じことしようとは思わない。というか、普通大人になったら大人に泣くほど注意されることもなくなるはずなんだけどな。
子どもの頃から変わっていない。図々しいとも取れる態度も吾妻屋が頭を項垂れているとじゃあまあ反省しているならと許してしまいそうになる。きっと子犬なら飼い主のお気に入りのカップを割っても許されるとかそういうものを同じで、吾妻屋から溢れ出る空気が許してやるかという気持ちにさせるのだ。
許すもなにもそれを決めるのはここの管理人で俺ではないのだけれど。
「じゃあ俺、荷物置いてくるから」
キーケースはアイパッドとマックブックの間に挟まれて、下敷きになっていた。取り出すために一度、アイパッドを出さなくてはいけなかった。ポーチを買ったほうがいいかもしれない。
「そう、僕も一緒に行くよ」
「いいか、絶対に、着いてこなくて、いい!」
俺は吾妻屋の両肩を掴んで、懇願した。その一瞬だけは周りに声が響いて恥ずかしいなんてこと考えなかった。しっかりとアイロンされたシャツに皺がつくほどぎゅっと握りしめて、彼の大きく開かれてぼんやりとした両目をまっすぐ捉え、音節を区切りながら言った。
「え、まさかここまで来て僕だけ車で待ってろって? 桐子のこと迎えにいってやったのに?」
肩に乗った手を振りほどき、地団駄を踏んだ。
「上がったら小一時間はダラダラするし、車をどっかに寄せてろ。邪魔だから。あと迎えに来てくれるならせめて車で来てくれ頼むから」
俺はもう一度吾妻屋に懇願した。本当に心の底から次からやってほしいことを頼んだ。これを頼んだのは通算何度目のことだろうかと刻まれた記憶に封をして。
吾妻屋は小さく俺にだけ分かる舌打ちをした。瞬きと呼ぶには長い時間伏せた。それから拗ねた子どもみたいに頬を膨らませて俺達のつま先しか見えない地面をじっと見つめる。これが俺がこいつを許してしまうお決まりのパターンだ。
いじけている吾妻屋の腕を掴んで運転席の前まで引きずって連れて行き、自分で鍵を開けさせる。でかい体が運転席に収まりエンジンがかかるのを見届けてから俺は運転席の扉を閉めた。
温めたキーケースは手の中でよく馴染んでいた。
ふと、振り返ると吾妻屋は俺のがら空きの背中に向けて中指を立てていた。目線があってからはその指が今度は二本になり、おまけにようやく自分と目があったなと勝ち誇った笑みさえ浮かべていた。
俺は大人しく敗北を認めて背中を向けて家に帰った。
「どうもおまたせしました」
助手席のドアを開けた途端、彼のお気に入りの金木犀の消臭剤が程よく香ってきた。シートを前倒しにし、アイマスクを付けてふて寝している運転手は、心にも思っていない謝罪を無視すると、アイマスクを片目分持ち上げて、眼球だけをこちらに向けた。
「長かったね。待ちくたびれたよ」
深い溜息とともに吐き出されるやけにねちっこい嫌味だって、空調の整えられた車内で精一杯考えたとなればまだ可愛げがあるものだ。
既読無視して待たせたときは鳩と機嫌よく遊んで待っているくせにたった一分待つだけで待ちくたびれたというのは、俺が学生時代にこいつを甘やかし過ぎたせいだろうか。断じて違うと思いたいものだ。
シートベルトをしている間だって、ネチネチと遅いだとか、これだから待つのは嫌なんだと俺が出すあらゆる細かな音にかき消さるくらい小さな声で呟いている。こういうのはいつだって反応したほうが負けのゲームだ。明らかに引っかかるように暴言に変わっていく言葉を無視していく。黙っていれば、ハゲだとかバカだとか今どき小学生でも言わないような暴言のラインナップが並んでいき、やがて収集がつかなくなってきて引けに引けなくなった吾妻屋も同じ言葉をループさせていて壊れたおもちゃみたいになっている。
「で? どこに探しにいくか検討があるんだろうな」
荷物を置きに言っている間にふと気がついたことだけど、俺はまだ犬探しの依頼を受けた話を聞いただけでどこに探しにいくか聞いていなかった。
俺の今日この後の予定全てを決定すると言っても過言ではない非常に重要なことだ。
吾妻屋はアイマスクを外し、腕を組んでさらりと流れるように言った。
「羊歯公園だよ」
は?
空いた口が塞がらないとはこのことだろう。実際俺は空いた口が塞がらなかった。
こいつ、今羊歯公園って言ったのか。
俺は、スマホで今の時間を思わず確認した。現在昼の三時過ぎ。羊歯公園自体がここからそう遠くないところにある。車で行くなら十分ほどのところだ。しかし、問題は羊歯公園そのものにある。
敷地面積はドーム一個分。ランニングコースもアスレチックコースも完備されている市内最大級の新緑公園。それが市立羊歯新緑公園だ。近所にある児童公園の半径一キロ圏内を探すのとはわけが違う。
園内には博物館もあるし、温室もある。そんなところで犬探しの依頼を高級チョコで引き受けるには労力に釣り合いの取れない場所だ。
「お前、もしかして説明端折ったけどさ、その小学生が一時間犬探した公園も羊歯公園か?」「そうだよ」
あっけらかんとそう答えながら、吾妻屋はカーナビに住所を打ち込んでいる最中だった。
そんなところで犬を歩かせていなくなれば大人が一時間探したって見つからないのは当然のことだ。むしろ最悪の場合、犬どころか小学生も迷子になって帰ってこれなくなる可能性すらある。
「聞くけど、今から行くのか」
「うん。今から行くよ。もちろん。期限は決めてないけど生き物だからなるべく早く見つけた方がいいじゃん?」
「まあ、それはその通りだけど」
「では! 羊歯公園に出発しまーす」
吾妻屋はアクセルを踏み込んだ。まるで遠足に行くような雰囲気で俺達は進みだした。暗くなるころ、最悪でも日付が変わるまでには俺達は犬を見つけて帰ってこられるように祈った。
この後に起こることを知ったら吾妻屋は小学生が泣くのをほうっておいてでも、犬探しを引き受けたりしないだろう。
そうだ。見つかったのが犬だったら良かったんだろうな。
それが、俺達のパンドラの箱でさえなければ──。
これから起こることを知らない呑気で馬鹿な俺達は、走行中スマホで流行りのプレイリストを流していた。特に高校の文化祭で流したミセスなんかは盛り上がった。
「僕が桐子と同じクラスじゃなかったのっていつだっけ」
「中一のときと、高二の時」
「あとはずっと一緒?」
「そうだ」
「へえ」
そして沈黙。吾妻屋の思いつきで話すだけ話して途中で興味をなくしてしまうのももう慣れたことだ。それから、俺達はミセスを流したまま一度も会話することも信号で止まることもなく羊歯公園に到着した。