#16 足入れ
「結婚式まで半年以上も先なのに、ずいぶん早い【足入れ】になったわねえ。」
新品のパリッとした赤いスーツに身を包んでいる恵子おばさまは、車の後部座席で頬に手をあててニコニコと笑いました。
私たちを乗せた車は、綾小路家を出て錦町の五色家へと走っています。
車のトランクには、最低限の生活用品が入った私の旅行カバンと通学カバンが積まれていました。
「お忙しい中、【足入れ】のご挨拶に付き添っていただき、ありがとうございます。」
私は白い正絹の振り袖が床につかないように気をつけながら、隣に座るおばさまにお辞儀をしました。
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ちょうど一ヶ月前、綾小路家と五色家の結納はつつが無くとり行われました。
そしてやはり【女学院を卒業するのと同時に結婚式をあげることとする】とお父様が主張したので、私は麗さまの意を汲んで【足入れ】をすることにしたのです。
【足入れ】とは、婚前に【婚家】に【嫁】が式までの期間に一泊したり、婚家と在家を行き来することです。
今日は仲人であるおばさまと五色家のご家族に挨拶をした後、一か月は連泊するつもりです。
もちろん【足入れ】期間中は、女学院に通うこともできますし花嫁修業もしていただく予定です。
「それにしても、五色家の麗さまはみつきさんに一目ぼれですって?
隻眼で怖い方という噂だけど、意外な一面もあるのね。」
「怖いなんて、とんでもない。悪い噂に過ぎませんわ。
麗さまはとても優しい方です。それでいて美しくて品が良くて、知性もあって、それから・・・。」
麗さまのことを思い浮かべながら話すと、おばさまはニヤニヤしながら私の背中をたたきました。
「ごちそうさま!若いって良いわね!!」
私は恥ずかしくて、車を運転している斉木さんをミラー越しにチラリと見てしまいました。
女性だけの空間なら恋の話も良いのですが、このような場面の男性は気まずいに違いありません。
おばさまは周りの様子など気にする風でもなく、話を続けます。
「軍人は戦争が始まればなかなか家には戻れないかもしれないし、今夜が勝負かもね!」
「勝負?」
「【足入れ】は結婚までの期間に婚家のご家族に気に入って頂いたり、花嫁修業をするのが目的だけど、いちばん大事なのは麗さまとの肌の相性よ。
つまり、夜の営みね。」
「夜の・・・?
やだあ、おばさまったら・・・。」
今度は確かに斉木さんの視線を感じます。
私は帯にさしている扇子を取り出し、扇いでいるフリをして顔を隠しました。
「男性が苦手なあなたでも、性のしくみは女学院で習ったわよね?」
おばさまの声に熱が入ります。
居たたまれない気持ちになりながらも、私は弱々しくうなずきました。
「ええ、まあ。」
「流れにまかせて、お相手に身をゆだねてね。
あ、事前に電気は消しておいたほうがお互いのためよ。
いい? コトが済んだら、騒いだり泣いたり感情を表に出さないで『良かったです』とひとことだけ言うのよ。」
あからさまな夜の営みについての助言を受けて、私は五色家の門をくぐるまで顔の火照りが取れませんでした。
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「ようこそいらっしゃいました。私は奥女中の女中頭、八重子です。」
見覚えのある細い目の女性が、私を見て微笑みました。
それは以前、紘次郎が買収しようとした女中でした。
おばさまが車から荷物を下ろしている間に、八重子が私にだけ聞こえる声で囁きました。
「本日は、あの二枚目さまはご一緒ではなかったのですね。」
「先日は家の者が、たいへん失礼なことをして申し訳ありませんでした。」
私は冷や汗をかきながら頭をさげました。
八重子は涼しい顔で微笑みました。
「いいえ。
かえってこちらこそ、書生さまの提案に乗るフリをして麗さまに言いつけたのですから、お互いさまでは?
お嬢様には本音を言いますが、あたしゃ顔と口が良すぎる男は信用しないことにしているんです。
主以外はね。」
八重子の方が紘次郎より一枚上手だったということでしょう。
私を先導する八重子を見たおばさまが、あとから来てそっと耳打ちしました。
「こんなに若いのに女中頭だなんて、相当なやり手ね。」
「私もそう思います。」