十六、箱庭の決意
青い空。
そよぐ草花。
緩やかに流れる小川。
そして、龍王と眠る春の宮。
今のレティシアナが知る世界は、とても小さい。
龍王と出会い春の宮に来てから、外に出たことがなかった。
必要ないのではなく、許されない立場になったからだ。
龍王の至宝は、宝だ。
龍王に安らぎを与え、彼に幸福を招く。
それだけで言えば、とても素晴らしい存在だろう。
だが、至宝とは龍王唯一の弱点でもある。
至宝が苦しむことがあれば、龍王は悲しみ。
至宝に絶望が降りかかれば、龍王も儚くなる。
唯一であるからこそ、強みであり、弱みになるのだ。
龍王の至宝にレティシアナがなったことを知る者は少ない。
東国にいる父王と母親は知っているだろう。二人には隠すことができない。
レティシアナが龍王に謁見した際に同席した神国の重鎮以外は、春の宮に住む存在が誰なのか知らない。
至宝が居る。
それだけだ。
レティシアナの世話をする侍女たちも、素性までは知らないのだ。
名を偽ることがないのは、レティシアナの名前がありふれていたから。
春の宮は、初代龍王が造り上げた場所。
神々が深く関わっていた頃の建造物だ。
神秘に包まれた、至宝を守る為にある箱庭。
「……ごめんね」
レティシアナをここに連れてきた龍王は、悲しそうに謝った。
そして、レティシアナに選択肢を与えたのだ。
強制したくないと、自分の意思で決めてほしい。
そう言って、落ち込んだ。
謁見の間で見た、神々しいまでの威厳はどこにもなかった。
たくさんの悪意に晒されてきたレティシアナは傷つき、思考が鈍くなっていたけれど。
出会ったばかりの龍王が何故、こんなにも優しい眼差しをするのか分からなかった。
レティシアナの行動に一喜一憂し、彼女に選択肢を示しておきながら、選ばれなかった場合に備えて落ち込みながら口をむぎゅっと引き結ぶ姿に心が軽くなるのを感じた。
この時のレティシアナは、心が疲弊していた。
だから、決めるまで時間をもらったのだ。
重要な決断であったからこそ、慎重になっていた。
そして、龍王との交流が始まった。
与えられた時間は、ひと月。
龍王は、レティシアナを気遣ってくれた。
彼女の眠りが浅いと知ると、自作の歌を披露してくれた。
子守唄にしては、激しく情熱的で、そして素晴らしいほどに音痴であった。
それでも、ベッドに横になるレティシアナに対して真剣に歌ってくれたのだ。
すぐに騒音が酷いと春の宮に仕える者たちから苦情が入ったが。
めしょっと、落ち込みながら楽器を片す龍王を見て、自然とレティシアナは笑ってしまった。
食事も共にした。
龍王は人参が嫌いだと、この時に知った。
人参をフォークで突っついて、なんとか食べなくて済むように苦心する姿に可愛いと思った。
彼は、自分を取り繕うことをしない。
ひと月の間に、転げて大笑いする姿を何度も見た。
そして、悲しい時は隠さずに悲しむ。
表情がころころと変わり、美しいのに、おかしい人だと思った。
ああ、自分もこんな風に表情豊かに過ごしたい。
一国の姫として、レティシアナは行儀良く過ごしてきた。
けれど、毎日が変化の連続である龍王を見ていると、今まで囚われてきた事柄が小さなものに見えてしまう。
悲しみや辛さは、まだある。
でも、前を向きたい。
レティシアナは強く願うようになっていた。
いつか、全ての傷を過去にして、生きたいと。
その時、隣には龍王が居てほしい。
「わたくし、至宝になります」
約束のひと月より三日早く、レティシアナは願った。
この時も、龍王は人参と格闘していた。
ハンバーグに添えられた人参を恨めしそうに口を尖らせて見つめる彼を見ていたら、自然と口にしていたのだ。
「へ……」
人参に勝てない自分の情けなさを自覚していた龍王は、間の抜けた声を出した。
そんな姿も、好感が持ててしまう。
「俺、人参……」
「わたくしが代わりに食べます」
「歌がうるさいって……」
「わたくしは好きですわ」
「え、えっと、すぐ、泣くし」
「感情豊かですものね」
「大声で、笑う、よ?」
「可愛いですよね」
全部肯定され、龍王の頬が赤く染まる。
「家族と、別れることに、なるよ?」
至宝は弱点だ。
ただ至宝を守るだけではいけない。
至宝の素性が知られれば、家族が人質にされる可能性がある。
だから、至宝は春の宮に居なければならない。
外界から遮断され、手紙も出すことを禁じられるのだ。
だから、龍王は選択肢を出した。
このまま、春の宮で至宝として過ごすか、外の世界で自由に生きるのかを。
不安そうな龍王に、レティシアナは微笑む。
「覚悟のうえです」
「で、でも」
狼狽える龍王を見て、レティシアナは胸が温かくなる。
ひと月の交流は、レティシアナに自分を選ばせる為ではなく、真に案じてのことだったのだと分かったからだ。
傷ついたレティシアナを楽しませたい、笑顔になってほしいと願っていたのだろう。
だからこそ、迷いなく選ぶことができたのだ。
「わたくしは、龍王さまのおそばに居たいのです」
「レティシアナ……」
「わたくしを、貴方の至宝にしてください」
決意が伝わったのか、くしゃりと龍王は顔を歪めた。
そして、ぼろぼろと泣き出す。
「あっ、ありがとう……っ」
龍王は、レティシアナと離れることを覚悟していたのかもしれない。
龍王の至宝への思いがどれほど強いのか、レティシアナには分からない。
だけど、自分の気持ちよりも、レティシアナの意思を優先してくれたことが嬉しかった。
そんな龍王だからこそ、共に在りたいと思ったのだ。
「ふふ、わたくし。龍王さまの笑顔が一番大好きですわ」
そう言ったレティシアナに、龍王は涙を拭い、嬉しそうに微笑んだ。
まるで可憐な乙女のような笑みは、実に龍王らしいと思った。
婚姻を結んでから、レティシアナは優しい時間を過ごしてきた。
龍王を深く愛している。
だから。
「旦那さまの苦しみを、わたくしに教えてください」
昼食の場で、他に人は居ない。
旦那さまと二人きりになりたいと、人払いをしたからだ。
ぽろりと、旦那さまのフォークから人参が落ちる。
人参を克服しようとしている旦那さまは、なんて可愛いのかしら。
レティシアナは愛しげに龍王を見つめた。
「な、なんで……?」
動揺する龍王に、レティシアナは穏やかに笑う。
「朝起きたら、袖が濡れていました。泣いたのでしょう?」
「え、あ」
悲しい時は声を出して泣く龍王が、誰にも知られずに涙を流した。
それは、想像しただけで胸が痛くなる。
「何があったとしても、わたくしは貴方を嫌いになりません。愛していますもの」
レティシアナの柔らかな声に、龍王の目から涙がこぼれた。
「わたくしの最愛の方。貴方の悲しみ、苦しみを背負わせてください。わたくしは、貴方に報いたいのです」
龍王は、「ふっ、ぐっ」と嗚咽を噛みしめる。
彼はレティシアナの心を癒やしてくれた。
今度は、レティシアナが彼を支えるのだ。
至宝だからじゃない。
彼を愛する者として、そばに居たい。
ようやく思考を始めたのは、二人で乗り越える為だからと思ったから。
貴方がわたくしを笑顔にしてくれた。
ならば、傷ついた貴方の笑顔はわたくしが守りたい。
「ありがとう」
泣き笑いの龍王の目からは、悲痛さは消えていた。