十一、名をなくした少女
長年研究された術式は、神域にある神殿内にて描かれた。
石畳の床に緻密に彫り込み、神官たちは執念を燃やして術式は完成したのである。
望むのは、天の理も大地の理にも囚われていない存在。
理の外に居る者でなければ、何も成せない。
神官たちは神々の慈愛を疑っていない。
理の内にいる限りは、神々の庇護下に入ってしまう。
彼らが成す事には、世界の理に関係ない者が必要なのだ。
神官たちの神への敬愛は本物だ。
あまりにも強い思いは、外から見れば暗く淀んだ執念でしかなかったが、指摘してくれる存在は神域にはいなかった。
術式は力の巡りやすさから、円形が選ばれた。
そうして、理から外れる為に暗闇の神が眠る新月の夜を選んだ。
夜は天空神は存在できない。
天の神々とて眠るのだ。
だからこそ、最適の時間であった。
神官たちは術式を起動する。
長年の苦悩がようやく晴れるのだ。
彼らは盲目に天の神々を愛した。
自分たちこそが、神々の最大の理解者であると自負している。
ゆえに気づかない。
傲慢さ、盲信、濁る祈り。
全てが、毒と成り果てた。
すぐそばにある悲痛な叫びも、慟哭も、苦しみながら紡がれる救いを求めた声は届かない。
暗闇のなか、術式は眩い光を放つ。
術式を刻んだ部屋を埋め尽くす、強烈な輝き。
神官たちは歓喜に湧き、涙を流す。
我々の悲願が叶えられたのだ、と。
光は人の形を作り、集束していく。
神官たちの視界が正常な色彩を取り戻した。
光は弱まり、艷やかな黒い髪がさらりと揺れる。
まろやかな頬はみずみずしさがあり、閉じられたまぶたが上がれば、黒曜石のように深い色が現れた。
小さく色づいた唇は、少女の清らかな雰囲気を彩る。
小柄な体は、見た事もない不思議な意匠の服に包まれていた。
小さな足は、艶のある上質な靴が。
少女を包む全てが、未知に溢れていた。
神官たちは、咽び泣き、額を石畳に擦り付けるように頭を下げる。
大勢の大人が自身に向けてひれ伏す異様な光景に、少女は何も言わない。
ただ、目を僅かに細めた。
「おお、おお、理の外にある者よ」
「我らの願いに応えし者よ」
「我々に救いを」
さざ波のように、神官たちの願いが広がる。
少女は、神官たちを見渡した後に口を開いた。
「……貴方たちが、私を呼んだ声、ですか?」
それは年齢に見合わないほど、慎重な問い掛けだった。
だが、少女の容姿は神官たちが理想とした清らかで大人しい姿だった為に、彼らは彼女の問い掛けに深く考えずに答えた。
自分たちが、少女を呼んだのだと。
「ああ、貴女はまさしく我らが求めし者だ」
「聖女」
神官の誰かが言った言葉は、瞬く間に浸透していく。
「聖女様だ!」
「聖女様!」
この瞬間に、少女は聖女となった。
彼女の意思も、意見も、承諾もなく。
ただ、ただ、熱狂に支配された者たちの主観だけで決められてしまった。
相原楓という名前は、名乗る前から消えたのだ。
――お願い。
――助けて……。
――ああ、このまま、私は……。
こんなにもたくさんの人間がいるのに、これほど悲痛な悲鳴に気づかない。
ただ一人を除いて。
「……大丈夫。大丈夫、だよ」
名もなき存在となった少女の声は、神官たちの言葉にかき消された。
だから、悲鳴が僅かに和らいだことに気づいたのも少女だけだった。