一の姫と森の魔王 01
その朝、森には霧が立ち込めていた。
「おはようございます! 魔王様、素敵な霧の朝ですよ」
霧の朝は湿っぽくて視界が悪く、あまり素敵じゃなかろうに…
「お散歩日和でございます。ささ、お召し替えを」
あまりにうるさいので、私は仕方なくベッドから出た。
お召し替えを、と言いながら手伝ってくれるわけでもない。
クローゼットを開けて服を選び、全て自分の手で着替えをする。
「今日も男前ッ! 惚れ惚れしちゃいますよ!
あ、ドア開けてください」
私を先導しながら、ドアの前で待っているのは緑色のヘビだ。
口が達者で、あれこれと指図だけする。
一人暮らしの寂しさを紛らわしてくれるこいつは、名をリムという。
リムは幅広い知識がある。人間の常識ですら私より心得ているようだった。
太さは私の親指ほどで、長さもせいぜい一メートル。
彼の脳はどうなっているんだろう?
「解剖はお断りですよ!」
そして、時々、私の心を読むのだ。
日課にしている朝の散歩も、こいつが言い出したことだ。
日がな一日、魔術の研究に明け暮れている私に
『動物は運動しないと、循環しなくなります!』
と言って、無理やり朝の散歩をさせるようになった。
だが、こいつの言うことは正しかった。
散歩することによって、血流と共に体内の魔力の循環もよくなり、考えの巡りすら促されて研究も進むようになったのだ。
それに直接、森の中を見て回ることで、いろいろ気付かされる。
本を読んだだけではピンと来ない命の循環や季節の巡り。
人間社会から見れば引きこもりのような私も、森に居れば、自然の一部だと感じられるのだった。
シュルシュルと樹の間を器用に進んでいたリムが、突然見えなくなった。
「魔王様! こちらに来てください」
何か見つけたようだ。
呼ばれて行ってみれば、一抱えもありそうな布の塊が落ちていた。
何だろうと覗き込むとモゾリと中で動く気配がする。
悪意や危険は感じないが、念のため手を触れずに布を解く。
毛布くらいの大きさの布の中には、女の子が一人眠っていた。
私は驚いて、すぐに女の子を抱き上げた。
生きてはいるものの身体が冷たくなっている。
一晩中、ここに放置されていたのか?
いや、それより今は急いで温めないと。
私は家の前へ転移した。
直ぐに中に入り、まずは暖炉の火を大きくする。
森の湿気を吸った服を脱がせ、柔らかいローブで包んだ。
暖炉の前の長椅子に寝かせて、軽めの毛布を掛ける。
しばらくすると、青白かった頬に赤みが差した。
そのうち目覚めるだろう、と思った私はあることが気になった。
「リム…」
「なんですか、魔王様?」
「目覚めたら、この子は私を怖がらないだろか?」
「なにせ魔王様ですからね。怖がっても仕方ありません」
ここで、しっかり訂正すべきことがある。
「リム、私は魔王ではないよ」
「そうでしたっけ?」
緑色のヘビは空惚けた。
私はごく普通の人間だ。
魔力を多く持ち、適性もあったので魔術師になっただけだ。
しかし、どうも人間社会に馴染めない。
それで、森の奥に引きこもって研究三昧の暮らしをしているのだ。
リムとは、この森で出会った。
側に寄ってきてウロチョロしていたが、危険はないので放っておいた。
だが、あまりにもモノ言いたそうにしていたので、言葉を話せるよう魔法をかけた。
私と話せるようになったことに、いたく感動したリムが勝手に『魔王様』と呼んでいるだけなのだ。
話が逸れてしまったが、私が怖がられないか心配したのはそういうことではない。
小さな女の子が、知らぬ場所で知らぬ大人の男と二人きり…
平気でいられるものだろうか?
「魔王様!」
「だから、魔王ではないと…」
「彼女が目覚めたようですよ」
長椅子のほうを見れば、確かに女の子が目を開いていた。
黒い髪に目の色は深めの青だ。
ぼんやりしているようなので、そっと話しかける。
「…大丈夫かな?」
「……」
「どこか痛い所や、辛い所はないかい?」
女の子は首を横に振った。
「寒くない?」
「…あったかい」と言うと、ふんわりと微笑んだ。
ドッキ~ン!!!!!
その表情が、私の心臓を直撃した。
森で突然ヒグマに遭遇した時も、こんなことはなかった。
なんらかの攻撃魔法なのか?
だとしたら属性は? 聖属性? それとも!?
「属性は《可愛い》ですね」
リムよ、私の心を読むな!
しかし、可愛い…そうだな、確かに可愛い。
彼女はなんて可愛いんだろう。
「…様! 魔王様!!」
眠たそうな彼女を、じっと見ているとリムがしつこく話しかけてきた。
今、忙しいのだがな!
「魔王様、お嬢さんが眠ってしまう前に、温かいミルクでも差し上げたらいかがでしょう?」
「そうだな」
さすがリムだ。ただ小煩いだけではない。
「なにか失礼なこと考えてらっしゃいますね」
「いや、リムは頼りになると思ったところだ。ありがとう」
おやおや、七色の霧が立ち込めそうですよ、と言うリムを置いて、飲み物を作ることにした。
収納空間からミルクとハチミツを取り出してカップに注ぎ、魔法で混ぜながら温める。
熱くなり過ぎないよう注意だ。
ウトウトしている彼女に、声をかける。
「ミルクを温めたから、飲みなさい」
いや、飲んでごらん、のほうが優しい言い方だったかな?
…などと思ったが、彼女は気にせず受け取り、ゆっくり飲んでいた。
ああ、可愛いなあ。
飲み終わったところで、訊いてみた。
「君の名前は、何ていうの?」
「一の姫」
「…」
もう少し話を聞きたかったが、あまりに瞼が重そうな彼女を、もう少し寝かせることにした。
それにしても…
「一の姫、とは」
「ひどいですね」
リムもどことなく怒っているようだった。
姫、と付くのだから当然、生まれは最低でも領主の家。
問題は『一の』だった。
一の姫とは最初に生まれた女の子に、とりあえず付ける名前だ。
次女なら、二の姫になる。
とりあえずの呼び名なので、正式に命名された後は使われることはない。
彼女は、八歳くらいに見える。
この年齢まで命名されていないなら、相当な事情がありそうだ。
「魔王様、私にもミルクいただけますか?」
考え込んでいると、リムが強請ってきた。
「ああ、ちょっと待っててくれ」
私もお茶を飲んで、落ち着いたほうがいいだろう。