真白_02
アイザックはぽっかりと目を開いた。…どうやら寝ていたらしい。
電子データで書類管理を行う現代には似つかわしくない紙媒体の資料が、卓上の手元に広がっていた。寝落ちて大切な資料を晒しっぱなしとは相当に疲れが出てきているらしい。
資料の表紙には【ゼウス計画 逃亡被検体生態情報について】と書かれていた。
ぱらり、とアイザックは紙を捲る。そこには該当する被検体の生態情報が詳細に記されていた。
___識別記号【K】。生命登録番号No.000218。 年齢は15。
父親:イギリス人/遺伝子工学博士。母親:ロシア人/原子物理学博士。
容姿の特徴は銀髪、青い瞳。中性的な顔立ちで甘めのマスク。
性格は強引な一面を持つが基本的に交渉などの際は落ち着いてこちらの出方を伺う気質あり。冷静だが一部の物事において強く執着を示し、そのためにはどんな行動の制限すらも厭わない傾向が見られる。
追記事項:逃亡より3ヶ月経過。依然《NEO・ドイツ》内においてそれらしき死体の報告は挙がらず。逃亡経路は未だ不明。特務SPを3人増員。《NEO指定都市》の各被検体達をこれよりひと月以内に《NEO・ドイツ》へ移送。担当監察医も同行。移送ヘリコプターは各都市の研究棟区、E 78-C3にて配備予定。
______ルイスが、S級保護対象を逃したと知らせが入った時は耳を疑った。私情より仕事が優先。それで何度恋人に振られてきたことか。それほどまでに仕事人間のルイスが15歳の少年を逃した。いや、逃げられた、の方が正しいのだろうか____?
香港の高速道路を走ったあの日、ルイスはいつも通りアイザックに『仕事の一環』『役職にすぎない』と繰り返し釘を刺してきた。あれは自分に言い聞かせていたのか…?
飛び込んだニュースに言葉も出なかったが、ルイスも人の子だったのだと思う自分もいた。あまりに冷酷すぎて心配なくらいだったから…。
ルイスは荒れると、タバコと快楽に逃げる癖があった。
良さげな女を香港の裏道で見つけては手を引いてセックスに溺れる。終わったら果てた女の背を見て、タバコを吸うのだ。夢かも現実かも分からなくなるほどにお互いが狂うまで終わらない。
愛の言葉を囁くが、そこに本心はない。癒しを求める行為でも愛を確かめる行為でもない。苛つきや精神的不安を紛らわすための行為だ。
ひと時の快楽で現実逃避し自分を保つための行動。
半年前にドイツ視察に訪れた時、彼がいつにも増してシガレットの煙を纏っているように香ったのを思い出した。
彼は何かを抱えきれなくなったのかもしれない。何かが間違っているように思えたのかもしれない。あるいは前提としての在り方に疑問を抱いたのかもしれない。
彼はああ見えて意外と聡い人間だから、気がついていたって見て見ぬ振りができる。哀れな政府仕えのお役人さん。特務SPという立場にありながら自分が一番政府のやり方に口を出したいと思っている。
でも彼の立場でそれはできない。だから【K】に選ばせたのかもしれない。
もちろん彼は逃すつもりなんて毛頭無かっただろう。それでも逃してしまった事実は変わらない。
「君も意外と【K】についてちゃんと考えていたんだね、ルイス」
この書類が届いたのは2日前。ひと月以内の《NEO・ドイツ》移送。
あまりにも焦って策を講じているように感じるのは気のせいだろうか。
ピピッ、と腕につけたバングルがきらりと光る。くるりと一周撫でると、バーチャル執事のアルが電子ボイスで要件を読み上げた。
『アイザック様の生体コードを認証しました。NEO政府より緊急通達を受け取っております。____NEO政府より通達。識別記号【Y】の移送予定は7日後の13:00より開始。担当監察医アイザック=リドスは【Y】とともにヘリコプターにて《NEO・ドイツ》へ移送。到着後の敷地案内等については後日順を追って連絡予定…とのことです』
「7日後……思っていたよりずっと早いね」
『S級保護対象者【K】が逃亡したことで相当に焦っているのだと思われます』
「ユイは起きているかな?俺がうたた寝するくらいだから彼女も寝てるかも」
『ユイ様の生体情報は【起床中】になっています。バイタルも安定しております。体温が少し高いようですのでお昼寝から起きられたばかりかもしれませんね』
「起きているなら直接話に行こうかな。ユイの執事にも言っといてくれ」
『執事ロンにメッセージを送信いたしました』
「…10年間過ごした香港にさよならしないとね」
アイザックはキャンディとチョコレートを白衣のポケットに詰めて自室を出た。
廊下を渡って反対側の棟へ向かう。ここから先は通行許可コードのないものは入れない。
ガラスの扉にバングルをかざすとポォーンと間抜けな音を立てて扉がスライドした。
『____通行許可コードを確認。通行人はアイザック=リドス医師』
薬物臭い匂いがした。ここからは実験棟ゆえにいつ来ても薬と消毒液の匂いが充満している。横を見れば防護服に身を包んだ職員達が何やらしているのがガラス越しに見える。
地球を救うために穀物を品種改良したり、食料品に蔓延している疫病の散布薬の試作品を作ったり、【Y】に与える投薬のサンプリングをしたり…。
彼らの仕事を横目で見つつ足早に通り過ぎて、目的の部屋に着く。
____【ROOM:5】 生命登録番号No,001225 識別記号【Y】
「やぁ、ユイ。調子はどうだい」
「起きたてですよ、アズ」
「だろうね、俺のとこの執事が体温高いって知らせてきたよ」
「…筒抜けだったなら聞かなくてもよかったのでは?」
「これも観察の一環。挨拶だよ」
「観察の一環で挨拶って理屈通ってないです」
「じゃあ挨拶ってことにしよう」
「アズって実は面倒くさがりね」
「おや、筒抜けだったかな?」
「単なる仕返しよ。10年も一緒だもの、それくらいわかる」
目の前の真っ白な部屋に佇む主人にガラス越しで話を振る。
10歳には見えないほどに大人びている。
背中の中間まである黒髪をさらりと流して、少女が近づいてきた。
漆黒を閉じ込めた瞳と目が合う。よく見ると黒の中に揺らぐブラウンがいた。完全に真っ黒な瞳という訳ではないらしい。
「今日はこの部屋から出てもいい日?」
「ああ。俺の部屋で話そうか」
「迎えにきてくれたってことですか」
「そうだね。王子様じゃなくてごめんね」
「金髪で碧眼だからある意味では王子様かも」
「褒めてくれてるの?」
「さぁ?どうでしょうね」
アイザックは【Y】のことを【ユイ】と呼ぶ。名前がないならつけてあげようと思ったからだ。アイザック以外に呼ぶのはお互いの執事くらい。
ユイもアイザックのことを【アズ】と呼ぶ。これは信頼の証。
監察医になる以前にただの医者としてNEO政府に雇われていたアイザックは保育器で眠るユイを大切にお世話してきた。試験管から生まれ、親がわからないなら自分だけは優しくしてあげようと思った。
そう思っていたら、監察医の依頼が回ってきた。身体機能が安定した1歳児の頃からは別の医者がユイを受け持っていたため久しぶりに彼女を見たときに「ああ、こんなにも大きくなったのか」と感慨深かった。離れた5年間がこんなにも恋しくなるとは思っても見なかった。
幸せにしてあげたいと思った。
だから彼女に名前をあげた。
誰からも識別記号で呼ばれる彼女に【唯一の子】という意味で【ユイ】と名付けた。
いつしかこの名前だけがアイザックとユイを繋ぐ絆になっていた。
次回投稿日は来週の木曜日になります ☆~
ここまでお読みいただきありがとうございました!