真白_01
AD 25××年、7月3日。
____《NEO・香港》、研究棟区、B(地下)8F。【ROOM:5】
暗闇に、ヒュウと光が灯る。淡く鈍く灯るその光は丸く円を描き煌々と輝き出した。
光につられて“何か”が動いた。むくりと起き上がった“何か”は、ゆっくりと瞳を開く。青い、空を閉じ込めたような瞳がこちらを見つめた。
パチパチと目を丸くして、興味深そうにこちらを見つめる瞳は「警戒」という感情を知らない。
ゆっくりと部屋全体に柔らかな光が灯り出す。玩具や天井から吊るされたモビール、宙を揺蕩う風船、ぬいぐるみの山…。
ガラス越し、ベビールームの真ん中に幼気な幼女がちょこんと座っていた。
肩を滑る黒髪、抱きしめたクマのぬいぐるみはもうクタクタになってだれていた。
灯りがついたから起きてきたのだろうか。少しボサついた髪を幼女は小さな手のひらで撫でつけていた。
こちらを見つめる無垢な瞳と目が合った。何かを伝えようとしているのか、はたまたただ意味もなく見つめてきただけなのか。
そうしているうちに幼女の隔離されている部屋に全身白づくめの防護服に身を包んだ大人が2人入っていった。
『昼寝の時間は終わりだ。次の課題を解きなさい』
部屋の中から微かに聞き取れた会話だった。まだ齢5つにも満たない幼女にかける言葉ではない。
山積みになった紙や本が幼女の前に置かれる。絵本や自由帳などではない。教科書や参考書のように見える。
「あんなに小さな子にこの課題はあまりにも酷じゃないか」
隣にいた同僚のルイスに話しかける。彼は公安の特務SPで幼女をS級保護対象として隔離して観察しているひとりだ。
「彼女は特別だろ」
「でも」
「彼女に《でも》は通じない。そういう決まりだ、国際間でのな」
「シカゴ国際救済協定…」
「第48条。《いかなる人権侵害においても地球を救うための犠牲は厭わないものとし、その内容は世界に公開しないものとする》だろ。考えたってどうにもできないんだ。あまり肩を持ちすぎるなアイザック」
「仕方がない、か」
「お前の悪い癖だ、すぐに感情に呑まれる」
「それが俺だよ。ルーイ」
「あだ名で呼ぶな。あと、とにかく監視保護対象に特別に情をかけすぎるな。お前はこれから彼女の監察医で、それはただの役職。仕事の一環だ」
「分かっているよ」
ふん、と鼻を鳴らしながらルイスはその場を後にした。
アイザックはしばらく幼女を見つめていた。
あの子が世界の命運を握っている。それでも彼女の小さな体に全てがかかっていると考えられないほどに幼い。特別に情をかけてはならない。保護観察対象者。彼女は今何を見ているのだろうか。
もしかしたら、常人のアイザックたちにはわからないものを見つめているのかもしれない。
希望の星、神の子ども…。そんなふうに彼女のことを呼ぶ研究者たちを幾人も見てきた。
確かに彼女は希望の星になるかもしれない。
あるいは…。
研究棟区を出て、海沿いに通る高速道路を走行する車の助手席にアイザックは乗っていた。
流線型の美しい黒塗りセダンの側面には【NEO政府容認公用車】を示す鷲のマーク。
自動運転が蔓延るこの時代にミッションで運転するルイスと共に誰も走らない専用レーンを駆け抜ける。
高速道路もかつては都市の要として発展してきた。しかし、荷物はアンドロイドによる空輸が基本となった現代では高速道路を通る車など【政府容認公用車】くらいなものだ。
欲しい商品は電子ホログラムで浮かび上がる仮想物を見て、触って、確かめることができる。
これもまた《NEO指定都市》の恩恵の一つだ。
人工物が多くを占める《NEO指定都市》の一つ、《NEO・香港》。世界ひいては人類、地球救済の要。
香港は主に《NEO指定都市》間の金融を司る金融都市。
繁栄国で名を馳せた【アメリカドル】は もはや世界の為替レートを占めるほどの価値などない。
《NEO指定都市》完成後の23世紀以降、為替レートを占めるのは【香港ドル】だ。
普段は着ないスーツの首元を緩めながら一息ついていると、ルイスが沈黙を破った。
「やっと担当が決まったな」
「……彼女のことか」
「そうだ。生命登録番号No.001225。識別記号【Y】。今のところ無事に成長している5人の実験体の末っ子だな。まぁ、血が繋がっているわけではないが」
「彼女にとっては決まらない方が幸運かもしれないな。自分の観察を請け負う医者なんて」
「まぁ、そういうな。お前の昇進だ。俺は素直に嬉しいがね」
「そうだね…」
番号で呼ばれる彼女たちは、名前を持たないという。世界を救う人工で作り出した子供たちに名前など必要ないということなのか、はたまた必要以上に情を注がないためか…。
「世界を救う天才児、英雄の子……神を自分たちで作る計画、ね」
「そうでもしなきゃ、俺たち人間は“この星”に住んでいられなくなるからな」
「そうしたのもまた俺たち人間だろうに…」
「俺たちの祖先な」
「地球にとってはそう大きく変わらないよ。どっちも人間だ。つまり俺たちだ」
アイザックは外を眺めた。右の車窓には地から生えた高いビルが移りゆく。
左の車窓には毒に犯された海が延々と広がっている。かつてはあの海も青く輝いていたというが…。
海水浴などしようものなら毒の水を飲んで数時間で死に至る。海鮮は水槽で養殖できるもののみに限られている。19世紀に水族館の原型ができたときくが、25世紀現在においては食料を補う奇跡の発明と言える。
18世紀半ばから始まった最初の工業化、イギリスの「産業革命」。ここから人類は大きく工業開発の道へと進む。初期の軽工業中心の発展から、19世紀後半には電気・石油による重工業中心に移り行く。ここから人類は『大量生産・大量消費』を主流とした時代を築く。
そして大きく道を踏み外した。
工業化推進による環境悪化、国の発展に伴う人口増加、人口増加による住居区拡大による森林伐採…。かつては『地球温暖化』と言われていた。それは25世紀現在でも解決には至らず、先に音を上げたのはこの【地球】だった。
穀物は軒並み疫病にやられ、家畜に与える餌すら生産が追いつかぬほどに困窮していた。海鮮は養殖で補い、家畜は人工肉で対応。野菜は人工培養。しかしそれも厳しくなってきた。あと数年で野菜はなくなり、栄養素を補うためにサプリメントになるそうだ。
よもや地球に住みながらに宇宙食を食べる日が来ようとは思わなかった。
この環境悪化によって滅びた国も多くある。かつて繁栄を見せていた《日本》という国も滅びたとか…。あの国の浄水技術は《NEO指定都市》での水分確保に大いに役立っている。
環境悪化が本格的に懸念され始めたのは21世紀のことだ。しかし大きな解決策は見つからぬまま時だけが無慈悲に過ぎていった。
そして誕生したのが《NEO指定都市》だ。環境破壊及び地球破壊の原因を解決するために生み出された発展都市。この都市は世界に3箇所設けられた。ドイツ、パナマ、香港だ。
《NEO・ドイツ》____世界最高峰の研究機関が集う「学び」の都市。
研究機関の一つに世界生物機関、【EARTH】を併設。
表向きは家畜の生態情報開示、人工肉の生成、人体に必要な栄養素を考慮した食品の開発などを行なっている。
しかしここで秘密裏に行われているのが人工授精によって人の手から天才児を作る計画、【ゼウス計画】だ。
男女の天才科学者同士の遺伝子を掛け合わせ、IQの高い子どもを生み出した。
世界各国政府が莫大な資金を注ぎ込んで行っている計画。
彼らの思考力がきっと世界を、地球を救うと信じてやまない政府の馬鹿どもが考え出した計画だ。
道徳に背く行為ゆえ、一般市民からの非難があるのは当然として情報は隠蔽されている。
生み出された子どもたちは受精卵ごとに識別記号をつけられる。最初に用意されたのは26の遺伝子だった。AからGまでの7つは受精せず、その場で実験中止に追い込まれた。HからJまでの3つは出生前診断で遺伝子欠陥が発覚で中止。
最初に生まれた成功例は11番目の遺伝子【K】。発育、知能指数ともに問題なしの天才児だった。現在は10歳で、《NEO・ドイツ》にて実母とともに隔離、育成中とのこと。
続いてL、Mは受精まで行きつくも流産に終わる。
2人目の成功例は【N】。Nは代理母出産により誕生した初めての成功例だ。今年で9歳になる。こちらも現在《NEO・ドイツ》にて隔離育成中。知能に問題はないが、精神の弱さが指摘される…。
続くO、Pは出生前診断の遺伝子欠陥が発覚、中止。
【Q】、【R】は初の試みとして双子を生み出し成功した。現在は8歳になる。《NEO・パナマ》にて隔離発育中。しかし発育が遅いことが懸念される…。
S、T、Uは受精に行きつかず中止。
V、W、Xは生まれて数時間ともたず死亡してしまった。
こうして生まれた末っ子が【Y】。アイザックが監察医を担当する幼女だ。知能指数、発育ともに問題なし。現在5歳で、《NEO・香港》にて隔離発育中。
最後の遺伝子【Z】については、現在は凍結保存中で、5人の天才児に欠陥がでた際の交換人材となる予定らしい…。
アイザックは深くため息をついた。
「ゼウス計画…あまりにも非人道的すぎるね…」
「おいおいアイザック、幸せが逃げるぞ。…そんなもんさ、所詮人間なんて。お上(政府)は命をどうも思いやしないさ。保身が第一だ。地球が終われば一巻の終わり」
「代理母出産、実の両親を知らない子どもたち…本当に彼らの知能以外に求めるものがないなんて…」
「いや、厳密には代理母出産が始まったのは【N】から先の子どもだけだ。それまでは実在の研究者から遺伝子を調達していたからな」
「【N】以降はかつての冷凍保存された遺伝子から生み出されたから、代理以外に出産の道がなかったってことか」
「そういうことだ」
_____代理母出産。【ゼウス計画】において、識別記号【N】以降の子どもたちは亡くなった研究者たちの遺伝子を冷凍保存していたものから受精させた。そこで厳しい身体チェックを通過し、異常な母性兆候(産んだ子どもは私が育てると言うなど)のないものを代理母として起用した。出産後は機密保持のため母体主は然るべき方法で処分されるという。
「俺はせめて担当するあの子に幸せでいて欲しいと思うよ」
「【Y】にか?彼女があの研究所の中で暮らす限りそれは叶わぬ願いじゃないか?」
「それでも精一杯、俺にできることをしてあげたいんだ。医者だからね」
「その考え方だと保育士の方が向いてるんじゃないか」
「ルーイ、俺は案外面倒見がいいんだよ?」
「狂ってんじゃないのか?彼女にはそんな施し意味もないんだぞ」
「狂っているかもね。でも彼女を見たときそうするって決めたんだ。君も少し目を凝らしてみたら気づく時が来るかもしれないよ」
「警告か?」
「嫌だなぁ〜、ただの助言だよ。勘繰らないで欲しいね。そんな時来るとも限らないし。頭の片隅に留めておいて欲しいだけさ」
「ほんっと、嫌なやつだよ。アイザック、お前ってやつは」
「最上の褒め言葉をどうも、ルーイ」