プロローグ
銃を構えた。
自由を謳う少年が逃げ出した。
研究所内にけたたましくサイレンが鳴り響く。かつてない緊急事態に場内はほとんどパニック状態に等しい中、少年と自分の間にだけ緊張が走る。
少年の両耳にはサファイヤのピアスが光る。
自分以外の誰も、ここに駆けつけてくるものはいなかった。
少年は真っ白な服を翻し、自分の方へ向き直った。なにも持たない少年だった。自分の体以外なにも。
それでも少年は逃げ出した。強固な警備の穴を見つけて、己の信念だけを武器に。なにも持たない、何者でもないからこそできたのだろうか。失うものがない人は、こんなにも強く揺らがない。
「逃げるのは諦めろ、No.000218。いや、”K“ だったか」
「どちらでもいい。僕に名前はない」
そう冷たく言い放って、少年は叩き割られた窓の方へと歩みを進める。
一歩たりとて、躊躇なんてものは感じられない。真冬の冷たい空気が吹き込む。
「止まれ!お前はS級保護対象だ。できれば撃ちたくはない」
銃を構えた手が震えている。訓練で何度だって撃ち抜いてきた人形とは訳が違う。本番想定の訓練がこんなにも役に立たないとはこの時まで知らなかった。
少年が立ち止まった。
「S級が逃げたら困るよね。国の、いや世界の存亡がかかってる。僕の肩に、全部」
少年の肩が震えた。否、体ごと震えていた。
「全部全部全部!! この僕にかかってる! 世界の全てが、だ!」
振り返った少年の瞳には怒りと絶望が滲んでいた。小さな肩に世界の存亡がかかっている。彼は生まれた時からそうなる運命だった。数奇でも偶然でもなく、必然的に。
再び少年の顔を見ると、瞳から感情が抜け落ちて刹那、羨望と切なさがよぎった。
「僕は、普通の“人間”で居たかった…自由で居たかった」
神に祈るように、白い吐息まじりにつぶやいた少年があまりに美しすぎて目を奪われた。
自分を見つめる少年の瞳に射抜かれ、一瞬の動揺が体を走った。
道徳に背いて生み出された少年。銃を構える自分。自由のない生活。行き過ぎた保護。
この状況の何もかもが、間違っているように思えた。
動揺を読み取ったように、少年が窓に向かって走り出した。
気がついたときには少年は窓に手をかけていた。
遥か下にある地上のことなど構いもせず、飛び立とうとしている。
「待て!行くな!!」
少年はこちらを向いて笑った。
「 ______________ 」
少年はそう言うと窓から飛び立った。羽をはやした天使のように______。
少年の誕生日、2月18日のことだった。
その日から、研究所内は蜂の巣をつついたような大騒ぎだった。どうしてこうなった、管理責任者はなにをしていた、まだ見つからないのかと上から矢継ぎ早に責め立てられる毎日だ。
「あれはS級保護対象だったんだぞ!世界があやつにかかっておる!なぜ見つからん!公安はなにしている!!」
「不明です。現在手は尽くしていますが…逃亡経路がわからないのです、彼しか少年の最後を見たものはいません」
「あいつはなぜ逃した!なんのためにわざわざ高い金を出して雇ってると思ってるんだ!」
取調室のミラーガラス越しに、政府機関の役人は怒りをあらわにした。
研究所の所長も首を傾げるばかりでなにも言えない。
ミラーガラス越しに、少年の最後を見た男の取り調べが行われている。
男は同じこと言うばかりで一向に進展はない。
少年が逃げてから、3日がたった。
15歳の少年の逃亡経路は何千人の大人が頭を捻っても、いまだに見つからない。行方不明だ。
秘密裏に生み出されていた少年の行方を世間に公表することはできない。
捜査は完全に停止、行き詰まっていた。
「ルイス、頼むよ。捜査が行き詰まってる。最後を知ってるのは君だけなんだ」
「俺は何度も話しただろう。あったことを1から10まで全部だ」
「いいや、君は大事な質問にいつも答えない。なぜ逃した、ルイス」
「わからない」
この3日間、取り調べを受けるたびにルイスはわからないと答え続けていた。
「…同情したのか?」
「本当にわからないんだ。あの瞬間、銃を構えたら手が震えた、全てが間違っているような気がしたんだ」
ルイスは空を見た。なにもない白の天井は少年の服を思い出させた。
飛び降りた後の経路はなんとなくわかっていた。
下から水の音がしたから、少年は研究施設の玄関口外部にある深い噴水に飛び込んだのだろう。
その噴水は研究所の全施設からの水を管理している。水勢はすごいが、そのまま下水に続いていたはずだ。
もしも窒息せずにあの水圧と水勢に耐えられたなら、少年はもうこの国にはいない。
《NEO・ドイツ》からの逃亡は不可能だと言われている。
でもあの少年なら逃げていそうだ。なんとなく。
だんまりを決め込んだルイスの様子に捜査官もお手上げだった。
首を振って合図する。「無理です」と。
「時間だルイス、終わりにしよう。また明日も頼むよ」
その声はルイスに届いていなかった。
ルイスはこの3日間ずっと少年の言葉を反芻していた。
少年が逃亡する前、自分に残した最後の言葉を_____。
「僕は戻ってくるよ。その時が来たら___」
⌘
そこで目を覚ました。起き上がると、ベッドがギシリ、と音を立てる。
起き抜けなので、常時はまとめている前髪が垂れてきて、グシャリと掻き上げた。
アジアンテイストのミステリアスで妖艶な顔立ちがベッドサイドのランプに照らされる。
a.m.4:05
起き抜けにタバコを吸おうとしたら、空のケースとジッポライターが目に入った。空のタバコ箱をグシャリと潰してベッドから降りた。
少しクセのある髪をきちんと直してから出勤しなければ…。
顔を洗って歯を磨く。
スウェットからオーダーメイドスーツに着替え、鼻まである長い前髪をワックスで撫でつけてセットする。
イヤーカフをつけたら準備は終わりだ。
カーテンを開けて、まだ朝日が顔を出す前の薄暗い窓を見た。映り込んだのはひどく疲れた顔の自分だった。
「まったく、やってらんないよな。嫌にもなるか」
ぼやきはすぐに薄闇に溶けて静寂が戻ってくる。
打てば響くような返答もない。ルイスはいつも通りのルーティンワークを終わらせて、肌身離さずつけているAIバングルをくるりと一周撫でた。
AIの返事が返ってきた。
「おはようございます、ルイス様。今朝の起床時の脈拍は60といつもに比べ高いようですが…」
「おはよう、セイ。そして様付けを外せと何度言えばいいんだ?脈拍が高いのは夢見が悪かったからだ」
「…左様ですか。すみません、様付けはつい癖で。直します、ルイス」
「AIがきいて呆れるな」
「まったくですね」
ハハハ、とセイが笑う。腕のバングルがほんのり熱を持つ。
「さて、今日も気張って行くか。相棒」
「そうですね、ルイス」
ルイスは車のキーを持ち、部屋を出た。