恵美子の世界
私はホラー小説を18年以上書き続けています。今は発達障害の認定を受けて障害者の作業所で働いています。
今回の小説は私がやっている対話型小説前田という企画の転載です。ファンタジー小説で、400字詰め原稿用紙換算で6枚の短編です。
読んで頂いた方々に有意義な時間を過ごしていただければ幸いです。また、なにかしら作品に刺激を受けて、元気を与えることができたなら、それが私の何よりの本望であります。
1
恵美子はぬかるみに足を取られた。52のダメージを受けた。恵美子の最大HPは101だから、そこから52を引いて残りHPは49だ。
HPが尽きると人はどうなるか、それは誰にもわからない。一般的にその状態は死と呼ばれるが、死後の世界を正確に伝えたものはいない。
あ、また恵美子はぬかるみに足を取られた。58のダメージを受けた。
恵美子は死んだ――暗転した視界の中で小鳥のさえずりが聞こえてきた。木々が生い茂り、葉擦れの音が響く森の中に恵美子はいた。大きな木の太い枝の上でぐったり倒れている。
恵美子は口から泡をふいていた。
ブクブクふかれるその泡の一つ一つが合体して、風船ガムのようにどんどん大きく膨らんだ。恵美子の体はその大きな泡の中にすっぽりと覆われた。
恵美子の体を包んだ大きな泡は、風に乗って飛んで行った。木々の合間を縫ってどこか遠くへ飛んでいく。小鳥達がさえずりながら後を追いかけていた。
しばらくして、恵美子は目を開けた。
「オハヨウ」
大きな泡を後を追いかけていた一羽の小鳥が日本語でそう言った。恵美子は目をぱちくりさせて、辺りを見渡した。
そこは、コンサート会場だった。壇上には人間と同じサイズのリスやイタチが、バイオリンやチェロといった楽器を持っていた。動物達のオーケストラだった。
客席に視線を移すと、そこにも人間サイズの鳥達がイスに腰かけていた。皆一様に笑顔で恵美子にオハヨウと言っている。
恵美子はそんな不思議な光景に目を奪われていた。ここはどこだろう、私は一体どうしたのだろう、この化け物は一体何者なんだろう。様々な疑問が脳裏を駆け抜けていった。
「マイクです」
壇上にいるオーケストラの指揮者がスタンドマイクを持ってきた。恵美子はわけも分からず、指揮者の指示通りにマイクの前に立った。
その瞬間、客席が割れんばかりの歓声と大きな拍手にわいた。皆が皆、これからなにが起きるか理解しているようだった。
恵美子はマイクを手に取った。バックのオーケストラが曲を奏で始めた。それは恵美子が大好きな曲だった。
恵美子は子供の頃から歌が好きだった。歌手になりたいと心の底から願い続けた。その夢は大人になっても叶うことはなく、いつしかどこかへ置いていってしまった。
歌手として、歓声に包まれた大きなコンサート会場で歌うことは恵美子の夢だった。もし生まれ変われたら今度は歌手になりたいと願ったこともあった。
その夢が、今、実現しようとしているのかもしれない。
恵美子はマイクに声を乗せた。拡声された音量がコンサート会場の隅々まで届いた。観客達の耳を駆け抜けていくその声色は、とても心地よくてキレイだった。
恵美子は歌いながら驚いた。いつもより声が出る。自分の理想としていた高い音も、低い音も、自由自在に出すことができる。
恵美子は、大好きな歌を、完璧な声で、観客達に届けることができた。
やがて恵美子の歌に酔いしれていた観客は全員総立ちで恵美子に拍手を送った。恵美子は恥ずかしそうにしながらも、お礼を告げた。
「ありがとうございました」
恵美子がそう言った瞬間、コンサート会場の照明が消えた。辺りは暗闇に包まれた。
恵美子は困惑した。バックにいたはずのオーケストラや観客達の気配も完全に消えていた。
少しすると、恵美子の前に一筋の光がさした。暗闇を切り裂くように表れたそれは、再び世界を光で明るく照らし出した。
恵美子はまばゆい光を手で防いだ。
手の隙間から差し込む光は、新しい景色を映し出していた。恵美子がいたはずのコンサート会場はいつしか病室へと変わっていた。
恵美子の目の前には、若い頃の恵美子の両親がいた。ベッドで横たわる母はお産を迎えているのか、苦しそうな顔をしている。その母の手を父が強く握りしめている。
「がんばれ、がんばれ、もうすぐ赤ちゃんが生まれるぞ」
父は母を励ましていた。母は脂汗をかいて身もだえしている。恵美子はその光景をじっと見つめていた。
やがて――産声と共に赤ちゃんが生まれた。それは紛れもなく赤ん坊の頃の恵美子だった。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
父も母も、生まれた我が子に感謝していた。恵美子は右目から涙を流していることに気づいた。
「父さん母さん生んでくれてありがとう」
恵美子は生んでくれた両親に感謝した。その声は両親にはどうやら聞こえないらしかった。恵美子はさきほどからのおかしな出来事を振り返り、今ようやく自分が死んだことを悟った。
うっかりとぬかるみに足を取られたことは覚えている。あんなのが自分の最期だったのか。これは走馬灯? わからない。だがここが現実じゃないことはわかる。寂しい、一人だけの世界。
恵美子は下を向いた。もう現世には戻れないのかと嘆き悲しんだとき、目の前に最愛の夫の姿が映った。
「恵美子、大丈夫か?」
そこは、病室だった。夫は恵美子の手を握って声をかけ続けていた。
「うん、大丈夫よ。あなた」
恵美子は微笑んだ。よかった。本当によかった。また戻ってこれたんだと恵美子は思った。
ここが本当の世界なのかどうかはわからない。でも恵美子はこの現実を大切にするだろう。
恵美子は命の重さを知った。HPが1になった。
了
いかがでしたでしょうか。
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