隣
凄い勢いで空を飛んでいったヴァンスが帰ってきたのは、アラドとスースがミーナと宿の支配人に謝り、気を取り直してミーナの修行でも始めようかとスースが言い出したところだった。魔法を使うために外にある宿の私有地に集合していたことが幸いし、ヴァンスが再び天井をぶち壊しながらやって来るといった悲劇が起こることはなかった。
ガハハとお腹をボリボリ掻いて悪びれる様子のないヴァンス、そんなヴァンスの頬に一足早い紅葉を作るスース、勢い良くはたかれ過ぎたせいで頬をパンパンに腫らしてもなおガハガハと笑うヴァンス。きっとカオスという言葉はこういう場面を示すために作られたに違いない。
ひとしきり夫婦喧嘩が終わり、ヴァンスがバルパをどこに置いてきたのかを皆に教えると再び悲鳴が上がった。
「はぁっ⁉ 魔物の領域に放り投げて来ただって⁉」
「おう、それはもう思いっきり」
「なんでっ⁉ バルパ死んじゃうよぉ、やだぁ、死んじゃやだよぉ、バルパぁ………」
今にも泣き出しそうな顔をしてしゃがみこんでしまったミーナを見て流石にやり過ぎたと感じたのか、鼻の頭をポリポリと掻くヴァンス。妻のスースの方を見て助けを求めるも彼女は顎をしゃくって自分でなんとかしろとでも言いたげな様子だ。
「あー……ミーナ、泣かんでも良いだろう」
「だって……だってバルパ、死んじゃう……やぁ……」
一応スースの弟子になるということでちゃん付けを取ったミーナ呼びでヴァンスは続けた。
「なぁミーナ、お前にとってバルパっていうのはそんな簡単に死んじまうようなタマの男かい?」
「ぐすっ…………そんなわけないだろっ‼ バルパは強いんだっ‼」
「ああ強い、あいつは曲がりなりにもこの俺様に一撃入れたんだからな」
その言葉に機嫌を良くしたのか、ミーナが鼻をすんすんと鳴らしながらも胸をふんぞり返らせた。得意気なその顔はさっきまでより少しだけ明るい。
「へ、へへんっ‼ そうだぞっ、ヴァンスさんは腹から血がドバドバ出てたってバルパ言ってたもん‼ だから次はバルパが勝つもんねっ‼」
「バルパの強さを信じてるんだな」
「うんっ、私を助けてくれたあの日から……バルパは私のヒーローだからっ‼」
話ながらにこやかになっていく彼女は、その一言を発すると同時に花のような笑みを浮かべた。目の下に白い線を残す彼女の頭を、ヴァンスはガシガシと乱暴に撫でる。
「じゃあ信じてやらなくちゃな、あいつの強さを。あいつの帰りを」
「…………うん」
またすぐにしゅんとしょげるミーナを見て口調と裏腹に喜怒哀楽の激しい弱気な子だなとヴァンスは苦笑する。
「ミーナ、あいつが今やってることは必要なことだ。少なくとも俺はそう思ってるし、あいつも同じ思いだろう」
「……うん」
「男が強くなるために出掛けていくのを笑顔で見送るっていうのが、良い女ってやつの条件なんだぜ。嬢ちゃんも本当にバルパのことを思うなら内心はどうあれ、表向きはなんでもないって顔をしてなくっちゃ駄目だ。そうじゃないといざってとき、バルパがお前を気にして戦えなくなるかもしれないだろう?」
「……わかった」
「なら、よし。じゃあスース、後は任せた。俺はちょっくら出掛ける」
「あんたはもう……ホントに人の言うこと聞かないな……」
「んじゃーなー」
ヒラヒラと手を振りながら、ヴァンスは再び空を飛んでどこかへ行ってしまった。だが先ほどまでと違い、スースとミーナの顔はどこか明るかった。
「よし、それじゃあさっさと始めるよ。一週間でバルパが帰ってくるってんならその一週間で度肝抜いてやるくらい強くなりな、あたしはスパルタだからね」
「はいっ、師匠‼」
バルパが魔物達との死闘に明け暮れている間、ミーナもまた彼女もまた強くなろうと改めて気を引き締めた。
いつまでもバルパに頼ってばかりではいられない、いてはいけない。ずっとそれがわかっていて、でも自分一人の力ではどうしようもなくて彼女はただ無力を嘆くことしか出来なかった。だが今、偶然と幸運のおかげとはいえ目の前に自分が強くなれるためのチャンスが転がっている。
今はまだ、彼の隣に立って戦うことは出来ない。そう、今はまだ。
だけどきっといつか、彼の隣で戦いたい。
ミーナはバルパの隣で強力な魔法を使う自分を幻視しながら、スースの声に耳を傾かせた。輝かしい未来を掴み取ってやるのだと、心意気も新たに。




