接触
それは腹もこなれ、ようやく食べる前の鋭敏な動きを取り戻せたと感じられた時のことだった。
「やああああああ‼」
ゴブリンのあの歯軋りをするような耳障りな高音ではない叫び声が彼の耳に届いた。間違いない、人間の女の声だ。ゴブリンは早足で駆け、自らが強さを調べられる距離にまで近づきつつ人間の様子を観察した。今のところこの強さを感じる力はあまり強くはないため、自分が強さを調べるよりも女の姿が目に入る方が早くなった。
人間の女がゴブリンがいくつか出てくる部屋で一人戦っていた。その戦い方はまだ剣を使い始めたばかりの自分にも稚拙だとわかるくらいに下手くそだ。
なよなよとした線の細い女である。顔以外は灰色のローブに覆われているために体つきを窺い知ることは出来ないが、それでも剣を持てそうな体格はしていない。
音を立てて気付かれないように走り、強さを測ることが可能な距離にまで近づいた。そして自らの考えが誤りであったことに気づく。
目の前の女はかなりの強さを持っている、少し前の女よりは弱いがそれでも力を持っていることには変わらない。一体自分は何度間違えれば済むのだと自分の頭の悪さに憤りを覚える。相手は自分の場所を正確に把握している可能性もある、もしかしたらあのやられそうな状況は演技かもしれないのに迂闊にもほどがある。周囲を見て、そして他にも人がいるかを探す。どうやら彼女以外に人影はないようで自分を嵌めるための罠ではなさそうだということに少しだけ警戒を緩める。しかし自分より強さが弱いからといって、それは即ち自分よりも弱いということではない。強さというものは単純ではなく、武器、身体能力、満腹具合等様々なものに左右されるとわかっている。油断した自分と万全な目の前の女ではどちらに軍配が上がるのかは戦ってみるまでわからない、彼は鉄の剣をしまい一番強い剣と念じながら袋に触れた。なんの輝きもない、所々のかけたボロい剣が右手に収まる。しかしその強さは今まで見てきた物の中で一番だ。あの強者には劣るがそれでも自分と目の前の女との戦いを有利にするだけの力はある。
とここまで考えて彼は既に自分が女と戦う気でいることに気付いた。ゴブリン相手に一方的とも言える戦いを続けていたせいかフラストレーションが溜まっていたせいかもしれない。
ゴブリン相手に不覚を取ろうとしている女の声は演技だとは思えない、そしてここは出口からそこそこ遠い。援軍が来るまでに時間はかかる、そして援軍が来たならば逃げれば良い。どんどんと戦う方向に思考がシフトしていく。
ゴブリンの一撃を女はもろに腕に受けた、ローブが切り裂かれピッと赤の線が走る。強さが減る、いきなり強さが変わるとはどういうことだと彼はとりあえず判断を保留し岩影に隠れた。
女の持っている杖から炎が出た。炎はうねうねとまるで蛇のようにのたくりうちながら女を襲ったゴブリンに襲いかかる。ゴブリンは体をかきむしり、そして倒れた。はぁはぁと息をしながらも杖を曲げるとそれに従うように曲がる炎がゴブリンに向かっていった。
一匹、二匹、三匹と引火していき、四匹目のゴブリンの顔を炙ったところで炎が消える。そして女の強さは更に弱まっていた。今の力はもうほとんどゴブリンと変わらない。
力は変動するのか? 炎を出すと力は減る?
残るゴブリンは三匹、対する女は一人きり。どうやら既に限界が近いようで、片膝を地面に着けながらなんとか倒れずにいるという状態だ。
「……っく、ちょっと迷宮を甘く見てたか……」
女は言ってしまえば死に体だ、今の様子を見る限り脅威になるとは思えない。
つまり現状自分が強者であり、彼女は弱者だ。それならば……彼女から情報を引き出せないか? よしんば引き出せないとしても鉄の剣を使えば良い訓練相手にはなるだろうし、彼女をゴブリンなんぞに殺させる選択肢はないように思える。
何か変な態度を見れば殺せば良いし、油断しなければ今の彼女には負けないはずだ。
もちろん不安はあった、自分の知らないなんらかの力という不確定な要因はどうしてもつきまとう。だが今よりもリスクの少ない状態が早々やってくるものではないということもまた事実であった。ここに人間がやってくる頻度はそれほど高くない、だから死にかけの人間を発見する確率なんぞゼロに等しいだろう。この現状は概ね自分に有利だ。
ローリスクハイリターンの選択というものは博打ですらない。名も無きゴブリンは装備を確認してから走り始めた。結果としてこの選択は自分を強くしてくれるものだと疑わないで。
ゴブリンは最早慣れ親しんだ相手だ。自分の種族であり、そして今は対人戦と手加減攻撃をするための良い練習台だ。それはつまり既に自分とゴブリンとの間には隔絶した実力差があるということを示している。
女に意識を向けているゴブリンに奇襲をしようと背後に回り、音を立てないように近付いていく。
真ん中で下卑た笑い声をあげているゴブリンの背に剣を当て、スッと引くように横に移動させる。それだけでまるでバターのように胴体が切れていく。手首を捻り角度を調節し斬り上げの形でその横にいたゴブリンの側頭部に剣を叩き込む。左に残っていたゴブリンに牽制として盾を当てるとそれだけでゴブリンは体をひしゃげさせ前に倒れこんだ。
脆いゴブリンを片付けることは容易であり、名も無きゴブリンは戦闘の最中も数歩ほど離れた位置にいる女に意識を割くことが出来ていた。
女は相変わらず息が荒いままだったが、その瞳は突然やってきた襲撃者の正体を見破らんとギラギラと光っている。
ゴブリンは目の前の女には強さが残っていないことをもう一度確認してから、次に取るべき行動を吟味することにした。
自分は今人間の持つ情報を欲している。それは火の玉といった技の数々や強さの種類、袋の中の品々の横に書いてあるミミズののたくったような線の羅列、聞きたいことはたくさんある。殺さずに言うことを聞かせるために一番良いのは相手を屈服させることだ、だがそれに関しては問題はないように思えた。現状力の差は歴然としているし、向こうが何かをしようとすれば即座に首を落とせるだけの距離を維持している。それを理解しない人間ではないだろう。
となると次に大事になってくるのはどうやって意思の疎通を行うかだ、向こうの言葉を聞き取ることが出来ることは少し前に観察を失敗した時にわかっている。だが自分の言葉が人間に通用するかはわからない。彼はとりあえず話してみることにした。