また明日
アラドは執拗に自分を風俗街に誘おうとするヴァンスから逃れ、一人で街をぶらついていた。しばらくすればあの人もツツあたりと色街へ出掛けてくれるだろう、そして帰ってきたときには奥さんに大目玉を食らっているに違いない。そうなれば面倒の可能性が大きく減ることは明らかなのだから、無理難題を吹っ掛けられる可能性が十分にある今のうちは避けておくのが無難だろう。
ヴァンスはアラドの剣の師匠であり、決して替えの利かない絶対的な存在である。誰よりも信頼しているのと同時、誰よりも迷惑を受けているのだから頼もしいのかそうでないのか微妙なところだ。だがこと戦いにおいてはあの人より上はいない、そうでなくては誰があんな自堕落で適当な人間を師匠として仰ぐものか。
そんな失礼な考えを抱きながら、アラドは中心街をブラブラと歩いていた。そして急に慌ただしくなったせいでなんとなくそのままにしていたあの二人のことをどうするべきかと考える。
いや、普通ならもう考えるまでもない。自分には待ち人がやって来ていて、ここに滞在する理由は無くなった。師匠の奥さんであるスースさんが着いてくれれば夜にでも出発しなければいけないくらいに状況は逼迫しているはずだ。約束の日時から既に一週間近く経過しているのだから今ごろ師匠を待つお貴族の方々はヒステリックに罵っているに違いない。
だがここですぐにリンプフェルトを後にしてしまってはバルパとの約束を果たせない。もし仮に一緒に魔物の領域へミーナを連れていくのならば、ヴァンスとスースにも話を通しておく必要もある。だが師匠がそれを許してくれるだろうか、アラドが今悩んでいるのはそこだった。あの人の行動原理はかなり長い時間を共にしているアラドであっても掴みきれていない、もしミーナが気に入らないならば最悪セクハラ紛いのことをして追い返したりすることも有り得る。
「うーん、どうしたら……」
とりあえずなんにしても師匠に話を通す必要があるな、それならやっぱり一度戻った方が良いか? ……いや、それじゃあダメだ。あの人は基本的に実物を見ないと面倒だと切り捨ててしまうタイプだし。幸いなことにミーナは美人だから、恐らく実際に会わせれば師匠は喜んで受け入れてくれると思う。そこまで人となりを知っている訳じゃないけれどミーナは悪い子じゃなさそうだからきっと大丈夫……なはず、大丈夫……だと良いなぁ。
自らの師匠への不安に胸を苛まれながら、とりあえずアラドは二人に事前に聞いていた宿を目指すことにした。
二人の泊まっている祝福の宿り木亭は比較的中心街から近い場所にあった。以前自分達がしっかりとお金を稼げるようになる前にお世話になったことが何度かあったので特に道に迷うようなことはなかった。
入り口の扉を開くと懐かしい受付のおばちゃんが顔を出す。とりあえずミーナの場所は聞いていた、二階の階段を上がってすぐのところにあるらしい。そこへ向かおうとしてから入り口近くの食堂に目をやる。ここの肉料理は力仕事の後には美味しく感じる濃いめの味付けなんだよなぁとしんみり思い出に浸っていると、見覚えのある人影が二つ見える。
どうやらまだ食事を終えていなかったようだ、ということはまだバルパはここにいる。どうしよう……もう行ってしまっているものだと思ってたのに、とバルパの方を向く。
そしてアラドは自分が師匠のことを思いすぎていたあまりにポカをしでかしていたことに気付く。ヴァンスは基本的に自由気ままなため、勝手に行ってしまったり自分一人で魔物の領域へ行ってしまったりする可能性が非常に高い。だからこそまだ完全に夜更けになる前にミーナに話を通そうとしたのだ。だがその段階でまだバルパが居るのならこの話は彼女にバルパの行動を悟らせてしまう。
そっと息を殺してミーナの背中とバルパの顔を見るアラド、気が付けば彼は魔力を耳に流し込み聴覚を強化していた。普段はマナーや礼儀にうるさいアラドがそんな倫理にもとる行為をしたのは、単にバルパの表情がどこか寂しげだったからだ。
自分達の前ではもしミーナになにかあれば貴様らを殺すと啖呵を切りそうなほどに殺気だっていたあの男が、今は母親に行って欲しくないと縋る少年のように見える。
「あ、あのさ……」
ミーナが下を向きながらモジモジと体を動かす。だとすれば母親はミーナか、彼女よりもバルパの方がはるかに年上だろうに。
「アタシ……もっと頑張るからっ‼ いつか、その……」
ミーナの表情は彼の側からでは窺えない、だが彼女の声が震えているのがわかった。いや違う、彼女もまた求めているんだ。自分が頼れるような強い男を、そしてそんな男から頼られたいという感情を持て余しているのだ。
「バルパの隣で、戦えるようになるからっ‼」
「止めておけ」
直ぐ様バルパの否定の言葉が響く。ビクッとミーナが体を震わせた。バルパの声はどう聞いても冷酷そのもので、その顔の酷薄さからは彼がミーナのことをはっきりと突き放そうとしているのがわかる。
だがアラドには、彼の顔はまるで助けを求めているようなものにしか見えなかった。
アラドはミーナがどんな思いで戦うと言っているか理解しているのだろうか、普通女の子は戦いなんて好まないことが多いのに。
ミーナはアラドがどんな気持ちで自分に厳しく言っているのかわかっているのだろうか、あの冷酷さの厚い皮の中に潜む優しさに、気付いているのだろうか。
「俺の隣で戦うことなんてしなくて良い、俺はお前にそんなことを求めていない」
バルパがしたのは拒絶だった。世界から拒絶される自分の側にいることを拒絶することで結果として彼女を守るためのそんな不器用な訣別の言葉。
「……そっか。……わかった」
バルパの言葉に小さく肯定を返すと、ミーナは立ち上がり体を翻す。必然アラドと向かい合う形になっていたが、彼女が俯いてしまっているおかげで気取られることはなかった。ミーナは下を見ていた。今彼女はどんな顔をしているのだろう、それが気がかりだった。
「……じゃあな」
「うん、それじゃあまた明日」
互いに顔を合わせることなく別れの言葉を伝え合う二人、おそらく両方とも、これが今生の別れになることをわかっているようにアラドには見える。それでもまた明日とミーナが言っているのは、彼女なりの意地というやつなのだろう。
階段を上る際にチラとその横顔が見えた。赤く腫れ、しかし涙だけは出ていない顔。必死に泣くのを我慢して、限界を迎えそうになっている顔。
その顔を見た瞬間、アラドはそれ以上考えることを止め気配を殺した。階段を駆け上がりミーナの話を聞く。彼の頭の中はそれだけでいっぱいになっていた。




