飲んで飲まれて飲み込んで
私は特別なことが出来るわけじゃない。私は特別な何かがしたいわけじゃない。
手に汗握るような冒険も、颯爽と助けてくれる王子さまも、私には必要ない。
だって私、ヴォーネ=イスゲルニアは……普通に生きて、普通に死にたいのだから。
夜になっても空を飛んでいる小さな鳥達が、必死に夜目を利かせて羽ばたいている姿を、一人の少女が見上げていた。
少しだけ尖った耳、ほんのりと赤く染まり体温の高そうな肌。
ずんぐりむっくりやへちゃむくれとまでは言わなくとも、全体的に丸っぽく子供っぽい体つき。
空を憂鬱そうに見上げている彼女はヴォーネ。元バルパの所有奴隷であった、一人の少女だ。
着ている赤いワンピースは扇情というよりかは清楚な印象を抱かせ、髪に着けている真っ赤なブローチがアクセントとなって強さを演出している。
清潔感のある腰に提げているポシェットには彼女の種族、ドワーフ族にとって何より必要な炎、命の灯が入っている。
「ほらほら、あんまり飲んじゃ駄目よって言ってるじゃない」
「うっせぇ、奴隷じゃなくなったなんてよ、めでてぇ話じゃねぇか‼ やっぱよ、人も魔物も自由に闊達に生きてなんぼだろう?」
「愛ゆえの束縛、というものもあると思いますよ?」
「うっせぇぞルルの嬢ちゃん。異性を束縛なんて下策も下策。束縛なんかしなくても帰ってくるように男を調教して始めて一流の女ってやつになれんのよ」
「うへぇ、おっさんの絡み酒はあんま楽しくないなぁ……あ、バルパも飲む?」
「要らん、戦闘力が減る」
「あ、ミーナ。私にそのワイン頂戴」
「ダメ、お前酒弱いだろうが。酔った勢いで男に持ち帰られちゃうぞきっと。中身はどうであれ、見目麗しいエルフ様だしね」
「うっさいわね、いいから寄越しなさい‼」
おおっと声が上がり、エルフであるウィリスが酒を一気に飲むのを囃し立てる声がそこかしこから上がるのがわかる。
ヴォーネはそんな喧騒を感じながら、涼しくなり始めている夜風に当たっている。
酒場を出てすぐの路地裏、明かりの届かぬ場所で彼女は空の星々を見上げていた。
酔ったから夜風に当たってくると言って出てきたのだが、実際のところかなり酒に強い彼女はほとんど酩酊していない。
ただなんとなく、外へ出てきて時間を潰しているのだ。
空を見上げると、赤く大きな光が一つ見えた。その星の名前がなんというのか、ヴォーネはしらない。だが中でもその星は、一際輝いているように彼女には思えた。
その周囲に、まるで強い輝きを放つ星を引き立てるかのように幾つもの弱々しい光が散らばっている。
「まるで……私みたい」
強い光の近くにあって、霞んで消えていってしまうどこにでもいる普通の星。それが彼女には、強く輝いた生を生きるバルパ達の中にいるヴォーネ自身のように思えた。
思わず口に出た言葉を、訂正する気にもならない。自分が主役ではなれないことを、彼女自身よくわかっていたから。
自分が他人と違うのではない、むしろその逆。ヴォーネのような者は、世界中の至る所にいる。普通の生活を送れるだけがとりえの、どこにでもいる普通の女の子。ほんの少し容姿に優れているという自覚はあるけれど、それだって大多数の人間と何かが大きく変わる訳でもない。
ヴォーネがバルパ達へ抱く感情は複雑だった。
まるで物語の主人公のように颯爽に駆けていくバルパ、そしてそれに必死で追いすがろうとするミーナ達。自分はそれを最後尾でずっと見つめていた。
最初に抱いたのは嫉妬とやっかみだった。どうして自分じゃなくて彼ら彼女らに才能を与えたのだろうと、ヴォーネは世界を作った神を怨んだものだった。
だが一緒に過ごしていくうち、嫉妬は羨望に変わった。そして羨みは卑屈に変わり、最後には畏敬となった。
何かに打ち込める、全力になれる。それは言葉にするには簡単で、実行し続けるのはなんと難しいことだろうか。
ヴォーネは進んで、自分の才能のなさに落ち込み、挫折してしまうような普通の女の子だ。だからこそ転んでも立ち上がり、負けても心は屈さず、最後まで頑張り続けることが出来る皆を、自分とは住む世界の違う人種なのだとそう考えるようにした。純粋に尊敬するようになってからは、精神の均衡は取ることはより容易になった。
コンプレックスは感じない。彼らのような人達と行動が出来るこの瞬間を、ヴォーネはありがたいと思うようになっていた。
だけど劣等感はなくとも、どことなく疎外感のようなものを感じてしまう。それは自分から壁を作ってしまっているがゆえの錯覚であることはわかっていても、それでも中々どうして心というものは思い通りにはいってくれない。
だがそんな風に複雑な思いを抱えながら珍道中を続けるのも、もう終わりだ。
次にドワーフの集落へ行くことが出来れば、ヴォーネの旅はそこで終わるのだから。
(終わって、欲しいのかな? それとも……終わって欲しくは、ないのかな?)
考えても、答えは出なかった。
だからヴォーネは踵を返し、酒屋のドアを大きく音を立てて開く。
「エールを一樽よこしなさい‼」
今感じているこの凝りを、酒で一気に流してしまおう。
ヴォーネは皆からしきりに鳴らされる口笛を聞きながら、運ばれてきた樽を持ち上げ、どんどんと傾けていく。
自分の嫌な気持ちも、好ましい気持ちも、全部一緒に流してしまおう。
酒を飲んで全部忘れて、明日からはまたフラットな状態で頑張ろう。
ゴクゴクと大きな音を立てながら酒を飲んで行くヴォーネを見て、皆がさっきまでとは比べ物にならないような大声で囃し立て始める。
こんなことで一番になっても、何も嬉しくないんだけどな。
そんな風に自嘲する彼女の口許は、しかし緩い弧を描いていたのだった……。