見え方の違いは、立つところの違い
「……あれ、逃げてないの君達。逃げないと捕まると思うけど?」
「……」
「……何? 話してくれなくちゃわからないよ、僕は人間なんだから」
話を遮られるなどと考えてもいなかったダンが彼に唯一まともに話しかけられるヌルの方を向いてから、持っていた剣を収納箱へと入れた。
「あ、あんなことしちゃって……どうするつもりなんですかっ⁉」
ヌルが見たくもないとばかりに顔を下げながら一点を指差す、その先に見えているのは眠れぬ街を一層煌々と照らし出す真っ赤な炎だ。威嚇音を出して全身を爆ぜさせる炎の勢いは凄まじく、流石に異変に気付いたからか、ポツポツと人の姿が見え始めている。
ヌル達はダンが好き勝手を始める様子を、テントから少し離れたところにある雑木林の中から見つめていた。
屋根を炎の柱でぶち抜いたかと思えば嫌な音を立てながら建物の支柱が折れ、賭博場は一瞬にしてただ火にくべるための木材に成り果てた。
そんな光景を呆然と見つめていた彼女達の前に、ダンが轟々たる爆音を鳴らしながら現れた。傷はおろか服の一片たりとて燃えていないその様子を見れば、誰がこの騒ぎを起こしたかなど今更尋ねるべくもない。
「衛兵が来ちゃいますよ、ここの兵士達は強いって評判なんです」
「強いという評判が流布している、それ自体が弱いってことなんじゃないかな」
「何をワケわからないこと言ってるんですか‼ 私達の命もかかってるんですよ⁉」
人目につくような大火事を起こしている時点で、目の前の男が自分達のことをあまり深く考えていないことはわかった。こんな衆人環視、かつ厳戒態勢の中でただの少年少女達が追っ手を振り切り逃げられるとは到底思えない。
奴隷でなくなって自由の身にしてもらったとはいえ、自分達には寄る辺もなければ先立つものの一つもない。このままでは遠からず再び奴隷の身分にやつすことになるのは明々白々。
恐らく自分達に今出来ることはどんな手を使ってでもこの目の前のダンの信を得て、彼の庇護を得ることだ。
後ろの元奴隷達の方を見ても、彼女達の反応はあまり芳しいものではなかった。黙りこくるだけならまだマシな方で、中にはダンへの恐怖を露にしているものもいる。
こんなものでは助けようなどと思ってくれるはずもない。最悪身体を使ってでも請わなければいけないだろう。
「ああ、お金がないってことかい? それならこれあげるから、どこへなりと消えてくれて構わないよ」
ダンがほいっとなんでもないかのように巾着袋を渡す。それを受け取りそこねたヌルの足元に、バラバラと金貨が広がった。
「それだけあれば仕事を探すまでの足しにはなるでしょ、身なりをきちんとすればどこかで下働きをするくらいなら出来るんじゃないのかな」
今まで見たこともないような大金を渡されて口の中に唾が溜まった。
しかし金に溺れそうになる前に彼女は現状は既に金銭でどうにかなる場面ではなくなってしまっていることを思い出し、ブンブンと首を振る。
「私達じゃここから無事に逃げ出すことは出来ません」
「……そうなの?」
「はい、身ぐるみ剥がされてから以前よりもっと酷い目に遭って、死んでしまいます」
「ふぅん、そっか……じゃあ取り敢えず、逃がしてあげるよ」
ダンは地面に触れてから、元奴隷の六人を乗せられるだけのプレートを作り出した。
「この上に乗って」
「……え?」
「いいから」
圧縮されたのか、少し黒っぽく変色した土に立ちすくむ女子供をなだめすかして乗せ、最後にヌルがその上に足を踏み入れる。
中には彼女より年上に見える女の子も、年齢が全く読み取れない魔物のような子もいたが、ダンという少年に唯一耐性のあるヌルが実質的なリーダーのような立ち位置になっていた。
(……一体こんな板の上に乗せられて、何をされるんだろう)
ヌルは一瞬板ごと投げ飛ばされ、が夜空の星になる自分達を想像して身を固くした。
怖がる彼女達の様子を見ても、ダンの態度は変わらない。
「いたぞっ‼」
「捕らえろ、ウチのシマでやらかしたことをあの世で後悔させてやる‼」
「ひっ⁉」
ヌルが慌てて声をあげるより早く、野太い男達の声を聞いて何人かの子達がブルブルと身体を震わせて板の上で身体を横にする。中には失禁しているものもおり、正直ヌルも少しだけ漏らしそうになっていた。
以前身体に覚え込まされた暴力の痕は、今も彼女達の精神を蝕んでいる。
「……なるほどね、僕も……こんな風に見えてたのかな」
「何を言ってるんですか、早く行かないと……」
「喋ってもいいけど、舌を噛まないようにね」
ヌルは一瞬のうちに自分の身体に強い圧力がかかるのを感じ、思わず体勢を崩した。次いで感じるのはまるで宙に浮いているかのような浮遊感。
(……いや、というかこれはまるでとかじゃなくて本当に……)
グングンと遠ざかる男達の影、眼下には絵画のワンシーンのように燃え盛る賭博場が見える。少し顔を上へ向けると、星々が身近に感じられる距離にまで近付いている。
「空……飛んでる……」
「飛行はある程度のレベルになると必須技術だからね。……まぁ、飛べなくても戦いようはあるって、最近思い知らされたんだけど」
平然とした様子で五人を乗せた土のプレートを掲げているダンの声が下の方から響く。恐らく彼は両手で私達を持ち上げながら、空を飛んでいるんだ。
現実味のない出来事ばかりが連続したせいで、気持ちの整理が未だについていない。
だが何事もないまま空の旅を続けているうちに、心がじわじわと現実に追いついてくる。
(ああ、私……もう、奴隷じゃないんだ)
安堵から顔を手の中へ埋める彼女、その指と指の間からは、自分以外の者達もまた似たような感慨を抱いていることがわかった。
安心したからか、喉が渇きを覚え、腹の虫が鳴った。
生きている、そう実感することが出来ると、瞳が水気を増すのがわかった。
「…………」
声を出すことも、恐らく二度と味わえない空の景色を美しいと感じることも出来ぬまま、彼女達は自らに訪れた幸運を噛み締めていた。




