名はない、あるのはただ…… 2
戦いは激しさを増し、治っていく傷の上に新たな傷が生まれては、更に大きな裂傷がそれを強引に開く。
「がああああっ‼」
バルパの攻撃は苛烈であり、少年はその一撃を受け苦戦を強いられていた。
そもそも彼とバルパとでは、基本的なスペックの差がある。
少年があくまでも自らの身体能力をベースにして戦っているのに対し、バルパは変質化させた魔力をその身に宿すことで自らのパフォーマンスを高めて彼と切り結んでいる。
以前戦った時には腕力では勝っていたが、自らの短所を埋めてくるように新たに戦闘技術を開発されては少年には如何ともしがたい。
力、速度、そのどちらもが自分に不利。
だがそれでも魔剣の力と、自らが欲するよりも先に植え付けられたその異常な回復能力だけが、今の彼の戦闘における優位だ。
バルパの蹴りが少年の胸を撃ち据える。後方に跳ねる彼に再び追撃、少年は敢えて衝撃を殺さずに大きく後ろへ飛んで行き、そのまま空中でその衝撃を殺した。
「はあっ……はあっ……」
名も無いまま彼は名を手に入れたゴブリンを睨み、口許の血を拭う。走っていた赤い線は手のひらで押し潰され、薄い赤のシミになって肌に擦りこまれる。
バルパがガリガリと丸薬をかじる音が、少年の強化された聴覚に届く。
今やバルパが回復を行うその僅かな瞬間のみが、少年が息をつける唯一つのタイミングだった。
「よこせ……」
彼は魔剣を握る、その相貌に醜いゴブリンを映している。その眼窩は嫉妬と怒りの炎で燃え尽きかねないほどだ。
自分は、文字通り、なんの誇張もなく全ての人生を、勇者になるというそのために注いできた。自分の努力が、献身が、目の前のゴブリンに負けているだなどと、彼は思っていない。
勇者になることに具体的な指標などない。だが、聖剣を持つことは勇者になるためには必ず必要なことだ。聖剣を持つことは、彼が何よりも焦がれ、夢に見て、憧れた、そんな彼にとっての目標だったのだ。
今その目標が、自分の人生の標が目の前にある。
「だというのにその持ち主は……僕じゃない」
彼はふとしたお遊びで手渡された魔剣を、いともたやすく使うことが出来た。
勇者になりたかったというだけでその剣を使ってきた魔王に対して思うところはそれほどなかったために、彼はその魔剣を自らの愛剣とした。
所詮は聖剣が手に入るまでの腰かけだ、そう考えているが故に扱いはそれほど丁寧ではなかった彼にとっての愛剣は、ただの代用品でしかなかった。
使えば強くなれるから使ったという、ただそれだけの理由で彼は剣を握った。
一番欲しい物には手が届かない、そして欲しいなどと思ったこともないような物ばかりが自分の手の中へやって来る。
無辜の少年少女達の遺体、顔も知らぬ人間達からの命令、投薬を行わなければ生きることすら出来ぬ身体。彼はそんなものなど、何一つ求めてはいなかった。
少年が欲しかったのは、ただ勇者になって、伴を連れるという……年若い子供なら誰でも一度は夢に見るようなものだけだ。
それが少し前、ほんの一週間前に手が届くところまで行ったのだ。ヴァンスなどという規格外な男に邪魔をしなければ、既に決着は着き今ごろ自分は完全に自由の身になっていたはずなのに。
目の前にいるのは、ゴブリンだ。
何千体、何万体と屠ってきた魔物となんら変わらぬ、ただのゴブリンなのだ。
「それなのに、お前は…………」
お前は僕の持っていない物を、全て持っている。悔しさと痛みから、少年はその言葉を飲み込んで胸にしまった。
輝く聖剣、自分のことを守ろうとしてくれる戦友、同行者、賛同者、命を預けてくれるもの。
そんなもの、僕には一つもないじゃないか。
どれだけ願ったって、一つもくれなかったじゃないか。
なのにどうしてアイツには全部あるんだ。
少年にはバルパの一挙一投足が、自分を嘲るようにしか見えなかった。
(今まで僕が頼ってきた強さという唯一の芯すら……こいつは奪おうとする)
勝てると確信して抱いたはずなのに、今自分は押されている。
一週間足らずの時間で、ここまで差が縮まってしまっている。
少年は自分が窮地に追い込まれ、今目の前にいる者こそが今代の勇者であることを認めた。
だが認めても、その闘志は些かも衰えない。
「僕は……僕が勝つ。お前を倒して……次の勇者になればいいっ‼」
少年は自らの優位、滞空能力の差による制空権を最大限に活かすため、高く高く飛び上がった。
魔力の消耗、致命打を喰らうこと、そんなことを気にしている段階は既に飛び越えている。
今、自分に出来ること、それは……
「全身全霊を持って、お前を超えるっ‼ ゴブリンの勇者、バルパッ‼」
少年は自らの全力をもって魔力を振り絞り、両手をバルパへと向ける。彼は今この瞬間、バルパを自らの好敵手として認識し、彼を自らが超えるべき相手として認めた。
魔力感知を使い少年の行使しようとしている魔法の規模を感じ取り、バルパはニヤリと笑った。
そして彼の醜悪な笑みを見て……少年もまた小さく笑った。




