月が綺麗
天使族の集落は、テントのような移動式の家屋で構成されている。マヤと呼ばれるその折り畳み式の家々は、断熱性に優れた電気羊の羊毛をふんだんに用いた高級品である。
行事や慣例により配置の移り変わるテントは、今日は中央の広間を囲うように構成されていた。中央にぽっかり空洞が出来るようドーナツ型に配置されたその並びにも、もちろん理由がある。
囲いを隔て奥にある中央の空白地帯で、小さな燠火が燃えていた。その周囲をグルリと囲むかのように、一つの集団が座り、各々なりに口に食事を運んでいる。
「明日……か……」
銀色の頭髪が、月光を受け止めその身に光を溜め込んだ。ミルクのように身体を伝う光を気にせずに少女、ミーナは不安げな顔をする。
「大丈夫なのか? 勝てるのか? やっぱり皆で……」
「その必要はない。この戦いは俺一人でカタをつけなければいけないと何度も言っているだろう」
「そうですよ、もう何回も話をしたでしょう」
「で、でもさぁ……」
漆黒の鎧に身を包み、兜で頭部をすっぽりと覆っているバルパはもう何度目かわからないミーナの言葉を否定した。
ヴァンスが一人で来ると言った、それならばその言葉を信じるのが弟子というものだ。
こちらが下手に数で攻めてしまえば向こうだってなりふり構わなくなるに決まっている。そうした場合、こちらがジリ貧になるのはわかりきっている。
「まぁ、勝てば良いんだし。大丈夫でしょ」
「……負けるんじゃないわよ、私達の命もかかってるんだから」
ヴォーネとウィリスが口の中に入れた肉を片付けてからそう言い、またすぐに食事に戻った。一応明日の勝負の結果如何では命も危ういというのに、ヴォーネは随分と健啖だし、ウィリスも随分と淡白だ。
バルパはそれを、二人からの信頼の証として受け止めることにした。
「申し訳ありません、レイを助けようとしてくれたばっかりに面倒を背負い込ませてしまって……」
「ちょっとお母さん、そういう話はもうしないって言ったでしょ‼ 同じ話を何回もするのはボケ始めた証拠だよ‼」
「聞いたミーナ、あんたもボケてるんじゃない?」
「色ボケエルフが良く言うわね」
口喧嘩を始めたミーナとウィリスに向かい合う場所にレイと、彼女に良く似た年若い女性がいた。レイの母親であるミリアもまた、自分の娘と同様その背中には羽を生やしている。
何を言われてもたじろがず頬に手を当てて笑っている様子は、もう少し年を重ねたレイもこうなるのだろうかというほどに朗らかだ。だがその行動の端々には、妙な色気があった。彼女にいいようにあしらわれているレイを見ると、彼女もまだ子供なのだなと実感する。
「勝てば全て解決する。勝てなかった時は潔く逃げてくれ、一人二人程度なら逃げ切れるかもしれん」
「少なくともいつ襲われるかもわからない現状ですし……私達は大人しく、ミーナさん達と行動を共にしますよ」
天使族の面々は、彼らが住み処を星光教に突き止められたと知ってもなお、どこかへ移住しようとはしなかった。ヴァンスに何かを言い含められていたのかもしれないし、彼らなりに思うところがあるが故の選択なのかもしれない。
バルパはここ五日間、間食含め一日に五回摂る食事の時間を除けば、持てる時間の全てを実験と修練に費やしていた。そのため彼はミリアとその夫であるガームを除き、彼らとまともな交流をしていない。どうなっているかは知らないし、知らなくてもよいと思っていた。
全ては終わった後に考えれば済む話でしかないのだから。
「俺が死んだ後のことは好きにするがいい。勝てば全て無駄になるがな」
「……」
バルパの隣にいたエルルが彼の脇腹をつんつくつんとつついた。そんなこと言うなとでも言わんばかりの表情だ。
「バルパが死ぬなら、私も死ぬから」
「そうか、死なんから関係はなかろう」
強気に言うバルパだが、正直なところ勝ちの目は五分もあれば十分だろうと睨んでいた。
勝機はあるが、そこを掴むことが出来るかは勝負の展開次第。最善を尽くしたならば後出来ることは、本番で全力を出せるように体調を整え、下手に気負いすぎないことだ。
彼が空を見上げるとそこには、一片の欠けもない綺麗な満月が輝いている。欠けることなく満ちている、白く光る球体。言葉にすれば陳腐でしかないものを、どうしてこれほど美しいと感じるのか、バルパは自分の感性を少し不思議に思った。
明日見る月は、今日と同じだろうか。明日もまた、こうして月を見上げることが出来れば、それに勝る喜びはない。
バルパは罵り合いからキャットファイトへと移行したミーナとウィリスの戦いを横目で見ながら、チビチビと杯に口をつける。酒ではなく果実水で唇を濡らしながら、バルパは空を長い時間、見上げていた。
耳をつんざく風切り音が、周囲一帯に広がっていく。その光景は天災と呼んでも過言ではないほど、人知を超えている物であった。
必死になって逃げ惑う魔物達が、飛行の余波の衝撃により全身をズタズタにされていく。天まで届けとばかりに雄々しく屹立していた樹木は、樹冠を一瞬にして散らし、表皮を傷つけながら横倒しになっていく。
森を南から北へ走っていくその災害の張本人は、どこか超然とした様子で空を見上げている一人の少年だった。
名も無き少年は一路聖剣目掛けて空を飛んでいる。魔物も、空も、重力も、彼の動きを妨げるほどの影響を持ってはいない。
彼は目に入る光を鬱陶しく思い、少しだけ首の角度を変えた。
「……満月か」
彼は何かを綺麗だと思ったことは一度もない。美術品も、美人も、宝石も、風景も、彼には等しくセピアモノクロームの塵としか感じられない。
少年自身そのことを一度たりとて不幸だと思ったことはない。自分にはやらねばならぬことがある。だからそれ以外の事柄は全て不要だと、そう心の底から思っている。
少年は空を見上げる。あの欠けのない月が落ちるまでに、ゴブリンの元まで辿り着けるだろうか。彼の思考は聖剣により埋め尽くされていた。
二人に、月の光が降り注ぐ。
月光は誰にも平等に、分け隔てなく光を与えてくれる。
たとえそれを美しいと感じようが、鬱陶しいと感じようが、どんな物にも平等に。
決戦の火蓋が切って落とされるのは、そう遠い話ではない。
夜明けが訪れる。そして日が昇り……舞台の幕が上がる。




