近く、遠く
バルパが目を覚ます二日前、彼が意識を失ったその直後に時は遡る。彼が意識を失い勇者スウィフトと邂逅している間、彼を追い詰めた少年はとある教会の一画にいた。
「ぐっ……流石に今の僕じゃあ歴戦の猛者相手には少しばかり分が悪かったみたいだ……」
赤と黄、青の色とりどりのステンドガラスが陽光を変色させている尖塔、その中央部に少年の姿はあった。
全身は血まみれ、身体の自己修復が切れるだけのダメージを負ったせいで傷は全く塞がる気配がない。
彼は収納箱からポーションを取り出し、乱雑にかけた。彼の視線はステンドガラスの下、聖母が勇者へ聖別を行うモザイク画へと向けられている。
戦いの痛みは傷が消えても収まらない、だが今はそれ以上に、名状のし難い感情が彼の全身を苛んでいた。
「もうすぐ……もうすぐだ」
あの聖剣の持ち主は判別した、ならば後はそいつを殺し、自分が新たな持ち手として認められれば良い。
そうすれば聖剣の持ち手に、聖なる存在に、勇者になれる。そう考えるだけで薄い笑みが浮かぶ。だがそのひきつったような笑みはとある男の存在ですぐに消えた。
Sランク冒険者、無限刃のヴァンス。自分を圧倒しあのゴブリンを守った男。
彼を思い出すと、すぐその後に今の聖剣の持ち主、バルパと呼ばれていたゴブリンの姿が彼の脳裏に甦る。
「……どうして、僕じゃない。なんであんな奴が……」
それは嫉妬か、それとも苛立ちか。彼は気付けば爪先で絨毯を蹴り、指先を忙しなく動かしていた。
聖剣を持つ者、世界を救い皆の旗印となる者、それが勇者だ。
それを人間以外の者が持つなど、考えるだに恐ろしい。そんなあり得ないことが実際に起こっているという事実は、未だ自らを勇者に最も適した者だと信じて疑わない彼にとって、到底認められるものではなかった。
今自分がいる場所を確認するため、周囲を見渡す。恐らく教会のどこかの支部だということはわかった。モザイク画のイコンを見る限り、ロンパットかディグリウスあたりだろう。
どちらにせよ空を飛んでいけば魔物の領域へ行くのにそれほど困難はない場所だ。
彼は収納箱の中に手を突っ込み、今ある薬の残量を確認した。
「あと一週間分……聖剣さえ手に入れられれば、十分間に合うはずだ」
聖剣の能力は一般には公開されていない、それを知るのは勇者と肩を並べ戦った者か、もしくは星光教の上層部の一部だけだ。そして彼は幸いに、そんな上層部の一人と面識があった。通常ならば手に入らない瞬間移動の巻物を持っているのも、彼に融通してもらえたからという理由があった。
自らの生みの親にして自分の命令者、ホルンハイト枢機卿。少年は彼から聖剣の能力のおおよその所を教えてもらうことが出来ていた。
それは自らが使っている魔剣とは真逆の力だ。
彼の使う魔剣は、あらゆる物を減衰させる。敵対相手の速度を減速させ、敵対相手の攻撃の威力を減衰させ、減衰により相手の感覚を鈍らせる。徹頭徹尾相手を貶め、勝利を得るために魔王が使用していた名を忘れ去られた剣、それがこの魔剣だ。
対し聖剣の力はそれとは逆、彼の剣は自らのあらゆる物を増幅させる。
身体能力を増幅させ、魔力を増幅させ、攻撃の威力を増幅させる。聖剣を真に扱える人間は自らの血液を、生命力を増幅させることで、どれほどの攻撃を受けても死なないだけの不死身に近い強力な力を持つ。
「腐ってもあいつがその力を使えている……それが何より、不愉快だ」
その強力さを見違えたせいで、彼はゴブリンを仕留め損なった。彼はただその力の上澄みを使っているものだとばかり思っていた、そのために心臓を貫いたところで確殺したと誤認してしまっていた。
だが現にあのゴブリンが生きている以上、彼は聖剣の力をしっかりと使えていると考えた方が良い。認めるべきは認める、少なくとも今最も勇者に近い者はあのゴブリンだ。だがそれは何も、今後もずっとそうであるということではない。自分があの魔物を殺しさえすれば、聖剣の持ち主は変わるはずだ。そして新しい使い手に、自分がなればいい。
考えを纏めているうち、少しずつ思考が冷静さを取り戻していく。
(冷静さを失っては勝てるものも勝てない。焦らず、しかし止まらずに、僕は僕に出来ることをやればいい)
彼が何よりも求めて止まなかった物は、今や手の届く場所にある。現状の不満を嘆くより、将来の希望に思いを馳せた方がよほど有益だ。
「そうとなれば……善は急げだ」
体調は全快にはほど遠い、傷を負いすぎたせいでリハビリも必要になってくるだろう。だが幸か不幸か、自分がゴブリンと再会するまでにはまだ時間が残されている。
その間にコンディションを最適にまで持っていき、万全の状態で殺せばいい。
少年は収納箱から入っている水晶を全て取り出し、叩き壊した。向こうが連絡用に持たせているこの魔法の品も、今はもう必要ない。
向こうは自分に対し薬という形で鎖をつけた気になっている。そして現に今までは自分も彼らに従わざるを得なかった。だが雌伏の時を続けていても、牙は抜け落ちてなどいない。
少年は常に探していた。自らが星光教からの支配を脱却出来るその瞬間を、聖剣を手に取ることが出来る瞬間がやって来ることを。
彼が聖剣を欲する理由は、大きく分けて二つある。まず第一に彼は何よりも勇者に焦がれているということ、理由としてはこちらが大部分を占めているのだが、副二次的な二つ目の理由もまた、彼の自由のためには欠かせぬものであった。
聖剣の増幅の力さえあれば、自分の生命力を増幅させ、わざわざ薬を投与する必要がなくなる。一日に一錠飲まなければ死ぬこの薬による束縛から、彼は解放される。
「待っていろ……英雄気取りの、劣等種」
少年がステンドガラスをぶち破ろうとしていると、彼の耳に足音が聞こえ始めた。どうやらなんらかの異常を察した星光教がやって来ているらしい。
彼は飛び上がる寸前、結果的に自らの命を救ってくれたことになる一人の男のことを思い出していた。
(……全てが終わったら一度くらい、顔を出してもいいかもしれないな)
ホルンハイトの豊かな髭を思い浮かべながら少年は空を飛び、ガラスを突き破って教会を飛び出した。




