嫌い、嫌い、大嫌い
バルパが馬車を出ようと背中を向け、歩き出す。
ウィリスは彼の視線が自分から外れるのと同時、その顔を上げた。
言葉で語らず背中で語ろうとするその様子をジッと見つめる彼女の瞳は、不安げに揺れている。
はらりとめくられた布が元に戻る。幌の中には沈黙と、女達だけが残っている。
ウィリスはジッと見つめていた、既に何もないはずの虚空を。まるでそこに何かを見いだしているかのように、食い入るようにジッと。
彼女には既に、周りなど見えていなかった。そんな余裕など、今のウィリスにはなかった。
呆けているようで瞳だけは強い光を発している様子を見て、ルルがヴォーネ達の方を向く。
「私達は、ちょっと外の風に当たって来ますから」
それだけ言うと、彼女は有無を言わさぬ様子でヴォーネ達と共に馬車を出た。
その場にはミーナとウィリスだけが残る。人が減ったことも、今のウィリスには差して気になるものではなかった。彼女の気になるものは、別の場所にある。
それは勿論、バルパの正体についてのことだ。
ウィリスは彼のことをずっと、人間だと思い続けていた。彼が右手につけている腕輪は自然視界から排除されていたし、時折聞こえてきた彼に関する言葉は、ずっと虚言として片付け続けていた。人間に使役されるなど疎ましいと彼へ厳しい態度で接し続け、頑なに彼への態度を変えなかったのは単に、そうしなければ感情の行き場がなくなってしまうからだった。
ウィリスは人間が嫌いだ。そして亜人のことは、好きでもないし嫌いでもない。
彼女は人間に浚われ、人間によって酷い目に遭った。その怒りのやり場として、バルパは適任だったのだ。ミーナとする口喧嘩は自分が人間と仲良くなれるはずなどないという認識を確固たるものへ変えるために有用だった。だから彼女は無意識の内に、バルパの正体についての詮索を止めていた。そして周りの皆も彼女のその意をなんとなく汲み取り、ウィリスの前では彼の正体についての話題を取り扱うことはなかった。
ウィリスは呆けた顔をして、ぺたんと椅子に座り込む。自然と下を向く顔、視界いっぱいに木目の見えるテーブルが広がっている。
「……なんで」
なんでアンタが、魔物なのよ。その言葉を出すことすら自らの負けを認めてしまうようで嫌だった。
彼女の胸中は、ぐちゃぐちゃだった。
自らの怒りの矛先にいるのは、まったくもって関係のない濡れ衣を着せられた男。
自分の激情はただ周囲を徒に不快にさせるだけの癇癪でしかないことはわかっていた。
だがわかっていてもなお、それを止めることなど出来なかった。
だって憎しみが、自分を帰れなくし、自分達に狼藉を働いたアイツら人間を憎まなければ……自分は感情を持て余してしまう。
感謝するだけで満足できるくらい素直なピリリのような娘だったのなら、腹の底で何を考えていようと顔には決して出ないレイのような強かさがあったのなら、きっとまた話は違ってきたことだろう。
だがウィリスはそんな風に強くはなくて、素直に感情を出せるくらいに、子供でも大人でもなくて。
故郷を離れて、皆に会えない悲しみを胸に抱えたまま笑えるほど、彼女の心は強靭ではなかった。人間を憎み、奴隷になったことを嘆き、フラストレーションを誰かにぶつけなければ壊れてしまうほどに、ウィリスは脆い。
今ここで、バルパにとうとう現実を叩きつけられたことで、彼女が現実逃避をすることは不可能になってしまった。
ウィリスの前に、現実が音を立ててやって来る。
自分が今までしてきたことは紛うことない八つ当たりであり、間違っているのは自分であり、憎むべき自分の主は、ただ善意から助けてくれただけの同胞であった。
「……なんで」
同じ言葉を繰り返す。
なんで、どうして、こんなのおかしい。
だって、だってもしバルパが魔物なのだとしたら、私は一体……
とりとめもない思考が空転を続ける中、冷たくなったウィリスの手のひらに温かさがやってきた。少し目線を下げるとそこには、自分よりも少し小さい手のひらが見える。
「バカだなぁ、お前」
そこにいたのはミーナだ。彼女の体温を知りようやく、今この場には自分以外に人がいるのだという事実に理解が追い付いた。
「もうな、面倒なこととか言わないよ。だってお前、アホの子だもんな」
いつものように喧嘩腰な言葉のくせ、その物腰は妙に柔らかい。ウィリスは行き場のない思いを抱えたまま、顔を上げる。
「もうな、深く考えんなって。バルパは良い奴で、私が口喧嘩の相手ってことで良いじゃん。それなら前と何も変わらない……だろ?」
「……うるさい」
彼が良い奴だなんて、とうに知っている。それを知ってても……いや知ってるからこそ、幾らでも厳しい言葉がかけられたのだ。
偉そうな口を叩いて、人間のくせに。
人間のくせに……私に手を差し伸べようとするな、バカ。
ウィリスは強引に彼女の手を振りほどく。
「バカ、バーカ、バーーッカ‼」
それから立ち上がり、精一杯の虚勢を張った。
ウィリスは深く考えることが嫌いだ。だって考えれば考えるだけ、自分のバカさ加減と、世界の理不尽さを理解してしまうから。
ウィリスは人間が嫌いだ。だって人間は自分達に酷いことをしたから。
彼女は鼻で大きく息を吸った。
やり場のない感情を、吸気で希釈させるかのように。
目を瞑り、ここ数ヵ月の怒濤の日々を思い返す。つかない心の整理を途中で放り投げ、彼女はあるがままでいようと決めた。強引に現実と自分との折り合いをつけ、目を大きく見開く。
「アンタなんて……大っ嫌いなんだから‼」
ウィリスは人間が嫌いで、魔物も嫌いだ。
その中でも特に、彼女はバルパとミーナが……大大大嫌いだ。
嫌いと叫ばれたミーナが、フッと小さく嗤う。
それを見たウィリスが、自分をバカにするなと彼女を詰った。
批判を述べる彼女の顔には……爽やかな笑みが浮かんでいた。




