表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
239/388

間違い

 結局女の名前を聞くことはしなかった。そして同時に、自分の名前を伝えることもしなかった。知り合いと挨拶をしているのは聞こえたかもしれないから、もしかしたら名前は聞こえたかもしれない。だが最も重要なのはあくまで、彼女の名前を自分が知っていないことだった。

 その本当の名前を知ることが嫌だったのではない、下手に不利益を恐れたわけでもない。

 ただなんとなく、酒場でのあの空気が壊れてしまうのが嫌だったから、だから聞かなかった。自分が態度を変えなくても、真実を伝えたらむこうはそうはいかない。あの世間慣れしていなそうな貴族令嬢は、気にするなと言えば言うほど気にするタイプだ。

 だから冒険者と貴族の御子息様じゃなくて、冒険者と世間慣れしていない箱入り娘という関係がベストだったのだ。きっとお互いのためにも。

 空が白み始めるまで続いた酒を片割れしか飲まない酒宴は、店仕舞いが始まることで終わりになった。

 既に彼女を狙おうとしていた男達の姿はなくなっていたが、万が一といういこともある。ヴァンスは彼女を家の近くまで送ってやることにした。

 リスタンの街は、大きく分けて三つの区画に別れている。

 スラムやいかがわしい店のある三等区画、そして一般人が軒を連ねる二等区画、最後に貴族様の邸宅や王家お抱えの職人達が邸宅を構える一等区画。

 飲む打つ買うがワンセットとなるアングラな世界であるから、もちろん二人が酒を酌み交わしたのは三等区画だ。

 一歩外を出れば追い剥ぎに遭いすぐさま襲われ何もかもをも奪われる……というほど治安は悪くない。実は三等区画の方が、二等区画よりも事件の件数自体は少なかったりもする。

 娼館や賭場がひしめいている三等区画は、基本的には裏組織ウィンダムのシマだ。末端まで完全武装な彼らは、スラムの奴等が完全に終わってしまわぬよう、最低限の治安維持活動を行っている。

 武器も持たぬ人間が、全身をガチガチの装備で構えた武装集団の前でおっぱじめようなどと思うはずもない。

 騎士団もウィンダムも数の揃っていない第二区画より、一歩間違えれば即殺される第三区画の方が結果として治安は良いというわけだ。

 謎の塊を運搬する運び人や、一体なんだかわからないが人型の物体を海に投げ捨てたりする処理人等彼らがある程度の仕事を斡旋したりもするので、下手なことさえしなければまぁ数人に一人は生き延びることも出来る。

 だがもちろん治安が良いとはお世辞にも言えない。事件になってもいない件数があったり、気付けば身ぐるみが剥がされている程度のことはよくあることでしかないからだ。

 ヴァンスはうだうだと頭の中でまとまりのない思考を並べていると、気が付けば一等区画へとたどり着いていた。

 ああだのうんだのと適当に相づちを打っていただけなのに、彼女には気分を害した様子も見られない。


「あ、ここで大丈夫です」

「おお、そうか」


 途中屋根の上のあたりから幾つかの視線を感じたりもしたが、結局一度も襲われたりはせずに無事やって来ることが出来た。

 というかこいつ、どうして五体満足で三等区画に来れたんだろう。

 もしかしたら、どっかに護衛がいるのかもしれない。自分で気付かない奴となれば相当の手練れだろう。

 それより更に薄い可能性として、目の前の女が強いという可能性もあるが、どうにもそうは見えない。

 魔法使いにしても動きがお粗末すぎるし、こいつにまともな戦闘能力などないだろう。


「じゃあ、またっ‼」

「おう、またな」


 特に再会の約束をした訳でもない。

 会う場所を指定した訳でもないし、会おうと言葉にした訳でもない。

 だがどうしてかヴァンスは、こいつとはもう一度会うかもしれないと思った。

 だからというわけではないが最後に、彼が大声で叫ぶ。時刻は朝近く、近隣住人達からすれば迷惑なことこの上ないが、そんなことは今のヴァンスにはどうでもいいことでしかない。


「俺はヴァンスだっ‼」


 最初は名前がないと不便だからと適当に名付け、そして今ではなんやかんやで結構気に入っている自分の名前を耳にした彼女が、笑った。

 距離が大分離れてしまっているせいでその表情は見えなかったが、ヴァンスは彼女が笑っているに違いないという意味もない確信を持てた。


「す……スーって呼んでくださーいっ‼」

「スースだな、わかったっ‼」

「違いますっ‼ スーですっ‼」

「スースだな、わかったっ‼」

「べろべろじゃないですかヴァンスさん、全然話聞いてくれないっ‼」


 大声で叫び合う二人は、傍から見れば質の悪い酔っぱらいにしか見えないだろう。事実ヴァンスはかなり酔っているのだし、それも強ち間違いとは言えない。

 何か言いそうな彼女に手を振っていると、ハッとしたような顔をしてスースがどこかへ行ってしまった。

 ヴァンスは帰ってこないだろうかとちょっとだけ待って、そのまま背を向けて第二区画に取ってある宿屋へと戻っていく。


「ガキか、俺は」


 そうですよと言ってくれる声がないせいか、彼の足取りは行きよりも少しばかり重かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ