戯れな慈悲
月が大地に青白い光を投げ掛け、一等星が赤みがかった光を発する夜長。魔物の領域の奥地、ルアラ族と呼ばれる人食種の集落は、飛び散る赤と降り注ぐ白が混じり合い、大地というキャンパスに凄惨な色合いを描き出していた。
そこにポツリと立っているのは、一人の少年。彼が自分の右手に持っている黒い剣を素早く振ると、付着していた血が放物線を描いて血に落ちていく。
返り血を全身に浴び、身体中が赤黒く染まっている少年は、あたりに広がる血の臭いに顔をしかめた。
彼は周囲に広がる惨状ではなく、自分の頬についた血を嫌がり、半袖のシャツで強引に頬を拭う。だがもちろんシャツも血まみれなため、頬にはよりベットリと血の跡が残ってしまい、彼は収納箱からタオルを取り出し、顔を拭いた。
真っ白な手拭いを赤く染めてから顔を上げれば、その端正な顔が月夜に照らされる。
パッチリとした二重、薄く縦に長い瞳孔、そして僅かばかり逆立つ毛髪。好き勝手生きる猫のような印象を見るものに抱かせる少年は、自分の足元に広がっているルアラ族の少女をジッと見つめる。
彼らは人を何よりの御馳走とする異常な風習を持っていた。
人肉食などおぞましいにもほどがあると上に目をつけられてしまい、そして結果として彼が派遣された。
魔物の領域は広く、人的資産は限られている。だから根絶やしにするのは上が決めた者達で、捕まって楽に死ねないような目に遭うのもまた上に選ばれた者達だ。それを決める決定権は彼にはないし、不服を申し立てることも彼には出来ない。命を握られている彼には、始めから拒否権などというものは存在しないのだ。
集落の人間を皆殺しにし、子供から妊婦の中に居た胎児までを軒並み殺し尽くした少年は、目の前で息絶えている少女を見つめ続けていた。彼女は目の前で殺されている父親目掛けて手を伸ばそうとしたまま、力尽きている。その顔には強い感情が浮かんでいたけれど、家族などというものを持ったことのない彼には、それがなんなのかはわからなかった。
「君が……人の肉さえ食べていなければ良かったのにね」
少年の独り言は、夜空に溶けて消えていく。感傷的な場面でも、彼の顔は能面のように動かない。感情が抜け落ちた少年は、それ以上何を言うでもなく収納箱に手を入れ、そこから手乗りサイズの水晶を取り出した。
「r11061、現況を報告せよ」
その水晶は彼についている監視の目であり、それと同時に彼に行動の指針を与えてくれる羅針盤でもあった。何も考えずに従っていれば、自分が生きる意味が与えられるその魔法の品は、彼にとっての人生の方位磁針だ。
「全員殺したよ、取りこぼしはいない」
「そうか、では次の任務を言い渡す」
ホルンハイトの声ではなかった、彼以外にまともに事務的なこと以外で会話をした人間はいない。お偉いさん方の声の区別は、少年にはついていなかったし、つける義理もないと思っていた。
「第三部隊と連絡が途絶えた」
「だからどうしろと?」
「次は蜥蜴型亜人種のサンプル採取だっただろう、少し迂回する形にはなるが念のために確認をしておこう。南南東を拐う形で情報を集めろ」
「了解」
「ただしそろそろ天使族の足取りも掴めそうなので、あまり時間はかけすぎないように」
「そもそも薬が切れるから、あと一週間しか活動できないじゃないか」
「そうだな、こちらからは以上だ」
水晶球が不活性を示す黒ずんだ緑色へ変色する。
少年は何も言わず玉をしまい、それから再び少女を見やった。
死にながらも生きている少女と、生きながらにして死んでいる自分。一体どちらが最高で、一体どっちが最低なんだろう。
必死になって父親に手を伸ばそうとしている少女を見ていると、彼女の顔に影が差した。
少年は上を見上げる。そこには翼をこれでもかというくらいに拡げ、自らの存在をアピールしているドラゴンの姿があった。
血の臭いが竜を呼んだのか、それとも空から動かぬ大量の餌を見つけて駆け寄ってきたのかはわからない。ドラゴンはグングンと高度を落としながら、こちら目掛けてやってくる。
飛来する軌道から考えると、その狙いは少女と父親の死骸だろうと思えた。餌だけ確保してからまた空の旅へ戻る。きっと竜の頭の中はそれでいっぱいで、目の前にいる人間の存在など考慮にも入っていないのだろう。
自分を無視したドラゴンにむかついたわけではない。
自分が殺した死体を横からかっさらわれるのが嫌だった訳ではない。
だが気が付けば、彼の口は小さく句を唱えていた。
「魔剣奉刀」
少年が言葉を発すると同時、右手に持つ黒剣から可視化出来るほどの濃密な魔力が溢れ出した。全身を濡らす血よりもより赤い光が、彼の全身を覆い尽くしていく。月光すらも通さぬその赤黒い光が、血化粧よりも鮮烈に彼を赤く染める。
「……邪魔をするのは、感心しないよ」
少年は一歩も動かぬまま、小さく剣を振る。その剣速は速いと形容するのも生ぬるいほどの速度があり、剣が元あった場所とは違う位置に置かれているという結果から斬撃が繰り出されたことが辛うじてわかった。
溜めもなく、腰も捻らず、手首のスナップだけで放たれたその一撃を食らったドラゴンは、自らの死を直感する間もなく脊椎ごと真っ二つに叩き斬られた。
その死体が二手に別れ、少年と親子を避けるように左右に飛んで行き、べちゃりと汚い音を立てて着地した。
「殺した後で助けるなんて、面白いね」
ちっとも面白くなさそうな顔をしながら、少年は剣先を下へ向けた。
先ほどまで放たれていた光は既になく、病的に青白い肌が月に照らされ更に白くなっている。
剣から再び血を取り、少年はグッと地面を強く踏み、そして大きく空へジャンプした。
そのまま足元から魔力を放出させ空を飛んでいく。少し急がないといけないな。そんな風に考えながら、少年は最後にもう一度少女の死体を見た。
少女の死体のすぐ横では、目玉を見開いたドラゴンの半身が横たわっている。
彼はすぐに視線を上げ、飛行速度を上げた。
「まだまだ遠いな……勇者への道は」
少年の言葉は、風切り音に紛れて魔物にも聞き取れぬほどのものでしかなかった。
その口元は、僅かに歪んでいるように見えた。




