名前
「あなたの名前は何というんですか?」
それは蜘蛛と蝙蝠が複合的かつ立体的に襲いかかってくる十八階層の階段で休んでいる時のことだった。ルルはとうとう我慢しきれずに彼に自らの心の中で燻っていたその質問をぶつけたのだ。
今ならば自分の発言が無下にされることがないともわかっていたし、それなりの信頼感系を築くことには成功していると感じていたからこそ出た言葉であったが、ゴブリンの答えは彼女の想定とは違う。
「俺に名前へはない」
「そんなわけないじゃないですか、教えてくださいよ」
もしかしたら彼は名前を持たないような人間なのかもしれない。そういう種族がないとは言えないし、世を捨てているために既に自らの名前を捨てているという可能性もあった。そのため鎌かけとしての意味の強いこの質問ではあったが、彼女は自らの想定が甘かったことを再び知ることになる。
「それならばお前が名前を付けろ」
「……え?」
ゴブリンは自分の名前がどうであるかも、自分が誰からどのように呼ばれるかもどうでも良かった。魔撃においては名前を意識することは上達への一番の近道であったが、自分の体にかける身体強化は純粋な魔力の循環でしかない以上名付ける必要も……とそこまで考えてゴブリンは考えた。
もしかすれば自らに名前をつけ、それを意識して身体強化を使えば以前よりもその効率は上がるのではなかろうか。身体強化も広義の意味では魔法にカテゴライズされるため、彼の思考は案外的をいているように思えた。
「うん、そうだな。それが良い。お前が俺の名前を決めろ」
「そ、そんな……急に言われても……」
「それなら適当に付けるから良い、そうだな……うん、俺の名前は今日からダンジョンとでも呼ぶが良い」
「そんな適当な名前絶対ダメですっ‼ あとで後悔するのはあなたなんですよっ⁉」
「ふむ、そうか……それならもういっそのことルーナとかはどうだろうか?」
「名前の由来をお聞きしても?」
「俺がこのダンジョンで出会った女から一文字ずつ取った」
「ネーミングセンス&デリカシー0男っ‼ そんな変な名前で呼ぶくらいなら私が名前を決めますっ‼」
「だからそう言ってるだろ、うるさいやつだな」
「うるさくさせてるのは誰ですかっ‼」
「ほれ、ドラゴンステーキだ」
「わぁ、美味しそう……って騙されませんよ?」
「ついでにこのパンタールのケーキもつけよう」
「わぁい」
二人はもぐもぐと料理に舌鼓を打った、時間の経過が皆無である袋には大量の甘味が入っていたのだ。彼女が甘いものが食べたいと話をしてくれたことから甘味の存在を知り出せるようになったのである。これもまた彼女のおかげで食べられるとわかったもののひとつだった。彼は今までこの白くて円柱状の物体は地面に転がして相手の注意を逸らすか、もしくは投げられる鈍器として使うと思っていたため最初に食べられるとわかった時は思わず食べたくないと感じてしまったりもしていた。もちろんそんな感想は切り分けた一口を口にいれたその瞬間から綺麗さっぱりと消え去ってしまったのだが。
「もっきゅもっきゅ……ほうへふへ、はふははっへほうへひょう」
「食べてから喋れ、ケーキは逃げない」
「ふぁい、あむあむ……んっくん。パルパなんてどうでしょうか?」
「良いぞ」
「これは『蛮勇』バルパティアから取ったもので……って、そんな簡単に決めちゃって良いんですか⁉」
「ああ、名前があれば良いのだから細かいことは気にしない」
「名前ってあんまり細かいことではないと思うんですけどね……」
名も無きゴブリン、バルパは自分をバルパだと認識して身体強化のための魔力を張り巡らせた。そのまま立ち上がり、砂ぼこりがたたないよう少しルルと距離を取ってから動き始めた。
新たに名前を得たからか、心なしか体のキレが良くなっている気がした。もしかしたらそれは自分の気のせいかもしれないし、実際にその可能性の方が高いだろうと思えたが、彼は心こそが戦闘と魔撃においては重要であるためにそれはさほど気にはならなかった。
フワッと自分が右手に持つ剣が軽くなったような気がしてくる、彼は本能の赴くままそれを横に凪いだ。するとその瞬間、茶色く錆びギザギザとしていた刃先が張りつめた弓のようにピンと立った。刃先は一本の剣の切っ先として相応しいものへと変わり、鈍く光を吸収していたはずの刀身は視認することが困難なほどに光輝いて見える。
言い知れない違和感のようなものを感じながら、彼の目の前に今までとは次元の違う切れ味が顕現した。まるで空気すら切り裂くように鋭いそれは、見るものの呼吸すら切り裂いてしまうのではないかと思えてしまう鋭さを持っている。
「…………」
パチリと瞬きをする、するとまるでさきほどの出来事が嘘であったかのように以前となんら変わらぬボロ剣が彼の手の中に収まっていた。
「……気のせいか」
彼は数度素振りをし、剣の感触がしっかりと戻ったことを確認してからルルの元へ戻った。
「…………」
「……」
「……どうかしたか?」
「いえ……なんでも、ないです」
「そうか」
「はい」
帰ってからのルルの様子はどこかおかしかったが、バルパはそれ以上何かを言うことはなく食事を平らげた。
「でも、いや……そんな……」
彼女のその呟きは、幸いにも彼の耳に届くことはなかった。
 




