寡黙少女の饒舌な舌鋒 1
木々がざわめき、網の目から零れるかのように木漏れ日が地面に降り注ぐ午後。
少女は何を思ってか、目をすがめながら雲一つない青空を見上げていた。右手を顔の上へ置き、影を作りながら斜め上を見つめる彼女の身長は決して高くない。
「…………」
黒い髪が突然の来た強風にあおられて大きく翻る。まるで体を支柱としたフラッグのようにバタバタと風にたなびく髪は黒。漆黒の毛髪は、きつい日差しを反射して黒っぽい茶色に変色している。
けだるげな少女、エルルは空を見上げながら思った。眩しい、と。
目に有害なほど眩い太陽光を見つめていると、目に痛みが走る。反射的にフッと視線を下げると、激しい光を見ていた名残か、黒い線のようなものが虚空に映った。
あの時の光はもっと眩しかったけど、全然目が痛くはならなかった。
不思議に思いながら、彼女は少し離れたところで食事の準備をしている一人の男の方を向いた。彼の名前はバルパ、エルルを助けてくれた放っておけない男だ。
彼女は今度は少しだけ顔を上げ、目を細めなくてもよい程度にまで上げてから自分の身に起こった不思議を思った。
無表情な顔とは裏腹に、腹の底にある感情は豊かなエルルは、少し前のことを思い出していた。今からすれば信じられないような事態に見舞われていた、ほんの少しだけ過去のことを。
エルルはとある村、どこにでもあるような寒村の出身のどこにでもいるような村娘の一人でしかない。
実はやんごとない生まれの少女であるだとか、伝説の亜人の系譜を受け継ぐ可能性の塊だなどということもない。彼女は本当にただの人、良くも悪くも一般人以上の存在ではない。
顔は十人並みではあるが、その造形美はふらりと訪れた貴族が何がなんでも見受けしよう躍起にならない程度のもの。誰をも惹き付けるような愛嬌や、見るものに何かを抱かせるようなカリスマもない。居もしない想像上の王子さまに懸想したり、そんな白馬に乗った王子さまが自分を迎えに来てくれると妄想したりする、普通の少女。
未だ年若くつぼみでしかないその相貌は、確かに将来的には目もあやなほどの美しさを持った可憐な花になる可能性を秘めている。しかし将来の美人を青田買いしようとする物好きなど、女は一から自分色に染め上げねばならぬという執着を持つ道楽者程度なものだ。
そんなどこにでもいる少女の日常は、ある日壊れてしまった。
村で飢饉が発生し、食いぶちも貰い手もいない少女は僅かばかりの食料と交換される。
男よりも女が、まともに力仕事も出来ない童女がいっぱしの少女よりも先に送り出されるのは、至極当然のことであった。
納得が出来たわけではなかったが表面上はにこやかに、エルルは家族と離別した。身売りといっても奴隷契約ではなく、奉公のようなものであると聞かされていたため、それほど悲観はしていなかった。
彼女は食い扶持が足りていないというそれだけのことで売られてしまう自分の立場の弱さと、家族の絆の脆さを思いながら馬車に揺られた。その先に待ち受けているものが一体なんのかなど、考えもしないで。
そこで自分の身に起きたことがなんなのか、エルルはほとんど覚えていない。思い出そうとしても、まるで記憶に蓋でもされているかのように過去の情景が浮かばないのだ。誰に何をされてどうなったのか、まったく覚えていない。覚えている、というより身体に覚えこまされているのは痛みであった。
執拗なほど繰り返される何かと、それに伴って全身を襲う痛み。口からうわ言のように出てくるのは、ごめんなさいという謝罪の言葉だけだった。
生まれてきてごめんなさい、体が小さくてごめんなさい、村娘になど生まれてしまってごめんなさい。
エルルは自分がもはや何に謝っているのかもわからない状態で、何度も何度も謝り続けた。
時間の経過する感覚すら定かではなくなり始めた頃、彼女の痛みの種類が変わった。針や熱された釘を全身に打ち込まれるような身体の芯に残る痛みから、身体の表面を執拗に殴り付けるような鈍い痛みへと。
そこからの記憶はある程度はっきりとしている。殴られ、蹴られ、申し訳程度に回復される日々。種類も鋭さも変わっても、痛みは執拗に彼女から離れてはくれなかった。
急に意識が定かになった理由はわからなかったが、今更理由などどうでも良いとエルルは深く考えることを止めていた。
どうして誰も助けてくれないのと泣き叫んだのは一体どれほど前のことだったか、定かではない。本当に泣いていたのかもどうかも、覚えてはいなかった。
何もかもがあやふやで、曖昧で、現実味がない。目の前で自分を嬉々として殴っている男も、そいつに加勢する男も、全員が本物なのか疑わしかった。実は自分も含めて世界は全て偽物で、世界の一切は嘘で出来ているのではないか。そんな考えが頭をよぎる。
エルルは痛みを感じながらも、ふわふわと漂うような感覚を味わっていた。
そして唐突に、彼女の痛みは消え去った。
自分の名前も久しく呼ばれていない彼女は、気が付けば誰かに抱き抱えられていた。
そしてはっきりと意識が覚醒する頃には、閉じてしまっていた視界が再び開けていた。
何もかもがはっきりと見える、そんな当たり前のことが、エルルにはとても新鮮なことに思えた。
恐らく誰かが自分を治してくれたのだと重い頭で考えていると、彼女の目の前には鎧を纏った一人の男の姿がある。
彼はエルルを馬車の上へ乗せると言った、生きろと。
変なの、今私は生きてるのに。
不思議に思っていると、眼下で激しい戦闘が始まった。それは一方的な蹂躙で、戦闘と呼ぶことすら憚られるようなものだ。
自分を助けた彼もまた、自分を痛めつけた男と同じことをしている。自分より弱い者を倒すのは気持ちいいことだ。昔、自分が小さい頃に蟻を踏み潰して遊んでいた時のことを、エルルは思い出した。だがその時水面に映っていた自分の顔と今自分を痛め付けていた者達を殺して回る彼の顔は、全くの別物だった。
強い言葉を使っている男は、全然楽しそうに見えない。彼が浮かべている顔は散々自分を殴っていた男達とも違う。兜を着けているにもかかわらず、エルルにはその下の男の顔が見えていた。
彼はまるで、戦いながら泣いているみたい。その所作の一つ一つから、彼女は悲しみのような何かを感じ取った。実際に泣いてはなくとも、彼は心で泣いているのかもしれない。
そう考えていると、エルルは男の体が光っているのにようやく気付く。その光の源は、右手にある光の剣だ。
エルルはその光景を見て、以前聞いたとある昔話を思い出した。




