常識なんて 3
そこにいたのは赤色の体躯をした竜だった。ドラゴンは口から炎を漏らしながら、先ほどから音を鳴らすなんらかの魔法を使っているらしいウィリスめがけて一目散に飛んできている。どうして自分からあんな厄介な化け物を呼び寄せるのだとパルマとしては文句が言いたい所だった。だがドラゴンの咆哮があまりにも強烈なせいで、声をあげたとしても聞こえないだろう。
驚きと恐怖からあまり詳しいサイズを把握することは出来そうにないが、恐らく亜竜の一種だと思われる。
下半身が震え、背中のあたりが恐怖からか少し痺れた。彼自身ドラゴンを見た経験は何度かあるが、これほど身近にその存在を見るのは初めての経験である。
全身は赤色、その鱗の一枚一枚がまるで燃え盛る炎のように鮮やかなオレンジ交じりの赤く染まっている。口から飛び出す乱杭歯の一本一本が、下手をすれば人間の子供ほどのサイズがあると思われる。口から炎を漏れ出させながら少し口を開くと、一度大きく喉を鳴らしてから咆哮を発した。その瞳は瞳孔が細く、金色の中に黒い一本線が入っているように見える。悠々と空を飛ぶためについている翼の先端には自分達が着ている毛皮など容易く貫いてしまうだろうと思えるほどの鋭さがあった。翼膜は薄く虹色に光り幻想的であるが、その所々には明らかに体色と異なる赤黒い血痕が残っているのが見える。鱗は所々が逆立つように反り返っていて、その一枚一枚が武器として使えそうなほどの硬度を持っていると思われる。
空の覇者、そして自分達にとり身近で、それ故にどこか遠い存在であったドラゴン。その中で最も位の低い亜竜ですら、見るものすら寄せ付けないと言わんばかりの圧倒的なプレッシャーを放っている。
エレメントドラゴンを余裕をもって殺してみせ、自分達に提供しさえするバルパという男。彼が自分という矮小な存在よりも遥かに高みにあることをパルマは今この瞬間、本当の意味で理解した。自分の体格を優に越え、空を飛び、一撃が自分達よりもよほど大きな攻撃力のある魔物相手に対抗しようとすること自体が間違っている。昨日、一昨日とその肉を食らい、そのあまりの旨さに目を輝かせ、自分もいずれドラゴンを狩り、そしてプロポーズを……などと考えていた過去の自分を殴ってやりたいという衝動に駆られるパルマ。
大きさの違い、生物としての格の違い、そして圧倒的に開いている戦闘力の差。こんな魔物に戦いを挑める人間は、どこか頭のおかしい存在に違いない。そこまで考えたところで、ドラゴンが自分達と目と鼻の距離にまで近付いた。
そして一瞬にして、体全体が炎に包まれた。そのまま呻き声を上げながら落下するドラゴンの体が不自然に浮き上がり、パルマ達のいる場所のすぐ隣に安置される。
既に鳴き声をあげてはおらず、先ほどまで見えていた金色の瞳は、高温により熱され白く濁った肉の塊へと変わっていた。赤かった鱗は黒ずみ、所々が燃えて炭へと変わってしまっている。どこからどう見ても、ドラゴンは既に息絶えていた。
「……はぁ?」
思わずそう口に出してしまったのはパルマだけではなかっただろう。圧倒的な存在により命を刈り取られたかと思えば次の瞬間にはその存在が自らを上回る何者かによって殺されてしまったのだから。
あたりを見渡しても新手の存在は見られない、その答えが示すところは一つである。
「私の勇姿、しっかりと目に焼き付けたかしら?」
自慢げに鼻を鳴らすウィリスを見て、彼女の強さが自分が想定していたものよりもずっとずっと高かったことを知るパルマ。
ドラゴンが一瞬にして死んだ、そんなどこか現実感のない出来事を起こしたのは、これまた現実感のないような美貌を持つ人間の少女。どこかお伽噺めいた成り行きについて思いを馳せ、そしてすぐに幻想であることを否定する。これは紛れもなく現実だ。
ドラゴンに殺されかけたのも、自分が敵わないと本能で察知した相手をウィリスが一瞬で殺してしまったことも。
現実がパルマの想像力を飛び越えて彼を襲う。彼は今自分がどこに立っていて、何をしているか一瞬わからなくなりかけた。そんな彼の足場を確固たるものにしたのは、やはりウィリスの叫び声だった。
「こいつを一人で討伐する、それがここ半月のあんた達の目標よっ‼」
無理難題だ、そう否定しようとする誰かの声を遮り彼女は続けた。
「私も前はこんなこと出来なかったわ、でも今なら出来る。…………ねぇそこのあんた」
「は、はいっ‼」
急に指を差されびっくりするパルマを見ながら、ウィリスはキツい目で彼を睨んだ。
「どうして出来るようになったか、わかる?」
「……バルパ、さんに手助けしてもらったからでは?」
「違うっ‼」
パルマはいきなり耳の奥をざわつかせるような声を聞き面食らった。まさかいきなりキレられるとは想像もしていなかった。どうやら答えは間違っていたらしい。
教えてくれるものと思って待っていると、彼女が大きく足を踏み鳴らした。どうやら自分の答えを待っているらしい。
どうしてなどと言われても、答えるのは難しい気がした。まだほとんど狩りの経験のないパルマにとって出来ることとは、彼女の考えを自分の思いと重ねてみることだけだ。
強くなった理由、強くなれた理由。きっと彼女が求めているのは実際的な手段の話ではなくてもっと精神的で、ともすればあやふやな答えであるはずだ。
その時彼の脳裏に浮かんだのは、セプルの笑みだった。自分が強くなりたい、より良い獲物を狩りたいと思うその根本にあるのは、彼女への思いだ。
自分は彼女にどうして欲しかったのか、その答えを出すことは簡単だった。
「認めて欲しかったから……?」
「そ、そうよっ……」
なぜか吃り気味になるウィリスを不思議に思いながらも、自分の中の感情に整理をつけることにするパルマ。
彼が不機嫌になり、嫉妬から精神を病みかけていたのはとどのつまり、セプルが自分を認めてくれなかったからだ。だがそれは自分にしっかりとした強さと、彼女を認めさせるだけの何かがなかったせいであり、そこでバルパを恨むのは筋違いというやつだ。
本当に彼女が欲しいなら、それだけの努力をするべきなのだろう。彼女を振り向かせる努力を、彼女に認めてもらうための努力を。
どうせならバルパを倒し、セプルの関心を全て自分に集めてやる。それくらいの気持ちで挑まなくて何が男か。彼の中にあった雄としての何かが激しく燃え上がるのを、パルマは抑えなかった。
強くなり、認めてもらうためにならドラゴンだろうと殺す。それくらいの気概をもってやれば出来ないことなどないはずだ。
ドラゴンを倒すのはお伽噺? ドラゴンとは戦わないことが正しい、それこそが常識?
バカらしい。好きな女に振り向いてもらうためなら、常識なんぞゴブリンにも食わせてしまえば良い。
ウィリスは恐らく自分達に、どれほど苦しい思いをしようとも耐えてみせろと、そう言っているのだとパルマは理解した。彼女は自らが強くなったその道筋を教えることで、自分達を導こうとしているのだと考えれば、彼女の態度にも納得のつく説明が出来るような気がした。
ドラゴンを倒し、ドラゴンスレイヤーに。そんな夢物語を掴むための糸が、今自分の目の前に垂らされている。ならその糸がどれほどか細くとも、どれほど見にくくとも、それを掴もうともしないなどという選択肢があって良いはずがない。
手繰り寄せ、食らいつき、そして最後には強さとセプルを手に入れる。
そう考えればどれだけ辛い戦闘であろうが乗りきれる気がした。
ウィリスはそれ以上何も言わず、ミーナやルルを連れ海よりも深い溝の更に奥へと進んでいった。
パルマもまた愚痴一つこぼさず、彼女達の後へ続いていった。横を向けば自分と同じように何かを感じ取ったのだろう男達が、その目をギラつかせながら横並びになっているのが見えた。先ほどまではただ従っていただけのベテランの中年達も何か思うことがあったのか、虫を体外に出しながら意識を集中させているようだった。
これで俺達にもう、敵はいない。ドラゴンだろうとなんだろうと殺してみせる。そんな全能感に浸りながら、男達は前へ前へと進んでいく。
その感覚がただの錯覚で、亜竜を殺すまでの道のりがとてつもなく長く険しいものであることを知ることになるのは、エレメントドラゴンとの遭遇戦を終えてすぐのことであった。




