きっとあなたは誰よりも
ピリリが落ち着けるようになるまでは数分ほどの時間を要した、そしてその間に彼女がぐりぐりと頭を擦り付けてくるものだからバルパとの距離はどんどんと近づいてしまっている。結果として今、二人はほとんど抱き合うような状態で向かい合いながら顔と顔を近づけていた。しかし二人の間には甘い雰囲気などというものはない。彼と彼女との間を隔てる空間には、重たい沈黙が横たわっていた。
バルパはそれほどに言いたくないのならば別の機会でも構わないと言おうかとも思った。しかしそれはきっと、わざわざ緊張の面持ちで自分と向かい合っている彼女を否定してしまう行為だ。一度逃げれば、逃げ癖がつく。だが一度向き合えれば、向き合う癖もつくのだ。きっと大事なのは最初の一回、そこがやるかやらないかの分水嶺。バルパはじっと待った。彼女が普段はぽややんとしていても、決めるべきところではしっかりと決めることの出来る少女であることを、全く疑わないままに。
「ねぇ、バルパ」
「なんだ?」
「バルパはさ、亜人なんだよね?」
「亜人というか、魔物だな」
「あ、また出た。そのよくわかんない言い方」
彼としては事実を述べているのに過ぎないのだが、どうやら信じてはもらえていないようである。だがバルパとしても自分が魔物であることを彼女達に打ち明けるつもりはない。
自分がゴブリンだということが判明してしまえば、その奴隷である彼女達は軽く見られてしまうだろう。それが原因で面倒が起きるかもしれないし、その面倒はルルやミーナ達にも飛び火するような類のものかもしれない。だから亜人と勘違いしてくれているのなら、その誤解を解く気はまったくないのである。
ピリリはゆっくりと頭をバルパの腹のあたりに預けた。ずしりと重い感触が下半身を襲う、倒れてしまわないように胸を張って腰に力を入れる。
「私、ね……」
彼女はポツポツと話し出した。自分の故郷の話、自分がどうやって生まれ育ったかという話。そして……彼女が馬車の本来の持ち主達によって、どのような目に遭っていたのかという話。
「何度も何度もね、ぶたれたの。ご飯ももらえないからお腹も全然いっぱいにならないし、ずっとずっと痛くてお腹ペコペコで辛かった」
「出会ったときは随分と痩せている少女だと思ったものだ」
「私は傷の治りが早いからね、色々な人に暴力を受けたの。皆は私のこと、生きたサンドバッグだって言ってた」
「許せんな。ドラゴンに殺されていなかったのなら、俺が殺していたものを」
ピリリの手がバルパの鎧の繋ぎ目に向かい、中に着込んでいる鎧下に触れた。彼女の妙に高い体温が、バルパの体をゆっくりと温めていく。
「でね、ずっとずっと思ってたんだ。誰か助けて……誰か私を助けてよって。だからドラゴンに馬車が襲われたときにね、私思ったんだ。ああ、ようやく神様がお迎えにきてくれたんだって。もうこれ以上辛い思い、しなくても済むんだって。だから反撃とか攻撃とかは一応したけど、全然本気じゃなかったの」
「そうか」
バルパはなすがまま、彼女の全てを受け入れていた。指先の感触も、全身の震えも、その全てを。今彼女に攻撃をされればなす術もなく死ぬだろうが……そうなったらそうなっただ、と彼にしては珍しく防御姿勢を取ることはしなかった。
完全に日が暮れ、薄紫の空模様は漆黒の帳へと移り変わっている。
ピリリが顔を上げる。潤んだその瞳の中に、空に散りばめられている星達が映っていた。まるで世界の全てを彼女の目の中に入れ込んでしまったかのように、その光は美しく華麗だった。
「でね、死ぬってなって。黙って目を瞑ってたらね……バルパが来たの。来て、くれたの」
星々を映し出す瞳から、ポロリと一滴雫が落ちた。線になり頬を伝うそれを、バルパは取り出した布切れで優しく拭い取る。
「バルパは私を助けてくれた。それからご飯をいっぱいくれたし、私をぶたないし、嫌なこともしないの。それがどれだけうれしかったか……わかる?」
「殴るわけがないだろう、そんなことをしても楽しくないからな」
「昔おとぎ話で聞いた、騎士様みたいだって思った。お姫様の私を助けてくれる、カッコいい騎士の男の人だなって」
「馬鹿を言え、俺はそんな者ではない。俺は、俺だ。それ以上でも以下でもない」
「ふふ、わかってるよ。バルパは好きなようにやってるだけなんだよね」
「ああ、そうさ」
極論を言えば、バルパがやっていることは身内や見たものだけを救おうとする偽善でしかない。きっと粉骨砕身し、自分や周囲のことなど考えずに突っ走ればもっとたくさんの人間を、魔物を救えるだろう。だが彼はそうはしない。優先順位を決め、逸脱しない範囲でしか手を差し伸べない。
彼自身、その行為が過去の自分と弱者を重ねる代償行為であることは自覚している。下手に問題を起こすことになるのなら、もういっそ誰も助けず、今あるものを守れば良いのではないかという思いは常に彼の内に燻っている。
「でもね、バルパ。私を助けてくれたのはね……あなた、なんだよっ?」
鼻を鳴らすピリリの背中を、優しく擦った。彼女は嗚咽の声を漏らしながら、バルパのことをがっちりと握って放さない。
「私今ね、バルパのおかげで幸せなのっ……‼ 今、世界中で一番幸せな女の子はきっと、いや絶対に私なんだもんっ……‼」
「……そうか」
どこかで何かが違っていれば、彼女を助けていたのは自分ではない他の誰かだったのかもしれない。だが現実問題、彼女を助けたのは自分だ。自分の行動の源泉がどこにあったとしても、それは決して目の前の少女の涙の尊さを貶めることにはならない。
ピリリが、彼女自身が世界で一番幸せだと言うのなら、それで良いではないか。彼女がそう思うのなら、それこそが絶対にして唯一の正解なのだから。
自然、バルパの腕に力が籠った。するとピリリはトントンと彼の腕をタップする。
バルパは回しかけていた腕を中空に放り、彼女と改めて向かい合った。
流れた涙が頬を伝い、口の端に溜まっている。彼女が口を開けば、雫は更に下へ落ちていき地面の染みになった。
「バルパ、ちょっと……後ろ、向いてて」
「わかった」
ただの泣き顔ではない、彼女の強固な意思の宿る顔を見る。もう、下手に気を回す必要もなさそうだ。バルパは頷き、何が起こるか予想出来ぬまま後ろを向いた。




