虚実重ねて
「私は別にどんな奴でも面倒見るって訳じゃないよ。ミーナな成り行きでそうなっただけだ」
「知っています、大体の話は彼女から聞きましたから」
ここで話を切り出さなければ恐らく自分にチャンスは二度とやってこない、レイはこの貴重な機会を無駄にすまいと必死に食らいつくことにした。
自由はここにあるものでも、誰かに与えられるものでもない。自分の手で掴み取るものなのだ。羽根の生えた少女は捕らわれた籠から出ようともがき、足掻こうとする。
レイはただ、それ以上何かを言うことはなく膝をつき、床に額をつけた。
「止めな」
「止めません」
レイは顔のすぐ近くにある木製のタイルを見る、そしてどこか焦点の合わない瞳で床の底、地面の奥深くにあるであろう地面を幻視して思った。ああ、自分はなんて汚い女なのだろうと。
彼女は自慢げに話すミーナから話を聞いていた。自分の師匠であるスースは基本的にはぶっきらぼうに見えるが実際は優しく、なんやかんや身内には甘いところのある人間であると。だからレイはさして達者でない言葉ではなく、その行動でスースの心に訴えかけようとしているのだ。きっと彼女ならば、自分の夫の弟子の奴隷である自分達を身内と拡大解釈してくれるだろう。レイは普段から浮かべている微笑を引っ込めながら冷徹に計算する。
こうすれば無碍にされない、この感覚は間違いではないはずだ。これこそが最適解だと心のどこかでわかっている。
下手なことをされる心配はないのだから平気で頭でもなんでも下げられる、自分達にとって有利な結果が得られるならばこの程度安いものだ。こうしておけばウィリスの失礼な態度もある程度は見咎めずにいてくれるだろうという打算もあった。恐らく今もブー垂れているはずの彼女の姿を見られ心象を悪くされるくらいなら自分の無様で気を引いた方が良い。どこか透き通った思考の中、レイは真摯に、しかしどこか空虚に頭を下げ続けた。
頭を上げずにじっと待っているレイの耳に音が届く。床と靴の擦れる音が、自分目掛けて近づいているのがわかった。
「はぁ……一度許せばこうなるっていうのはなんとなくわかってたんだけどさ。ヴァンスはどうしてこういつもいつも面倒ばかり引き寄せるんだろうね。そこの……えっと名前は?」
「レイと言います」
「そうかレイ、顔を上げな」
大人しく上体を起こすレイ、すぐ近くに顔をしかめながら後頭部をボリボリと掻いているスースの姿が映った。その顔はどことなく不満げで、怒っているように見えた。
「良いかい、まぁ旦那の弟子の奴隷なんだから面倒見るくらいはしても良い。今更一人や二人生徒が増えようが変わらないし、幸いそれほど時間に切羽詰まってるわけじゃないからね」
スースが立ち上がれと手でジェスチャーをしたので、レイはすっくと膝を立て直立姿勢をとった。
「それはね、来る前から決めてたから良いんだよ。別にあんたに頼まれなくても引き受けるつもりだったんだ、エルフの高飛車お嬢にヘタレドワーフ、それからピリリもセットでね」
スースは首を左右に鳴らしてから深呼吸をし、そのまま右の拳を開いては閉じ、閉じては開いた。
その行動になんの意味があるのかわからなかったレイはきょとんと間抜けな顔を晒す。
「歯ぁ食い縛れっ‼」
右の頬に衝撃、そして一瞬意識が無くなり視界が暗転する。そして意識を取り戻し、自分の左半身がベッドに触れていることで自分が殴り飛ばされたことにようやく気付く。
右の頬はジンジンと痛み、少し腫れていた。一体どういうことだと少しキツい視線でスースを睨むレイ。そしてすぐに取り繕おうと顔を下に向けるレイ。短くはない奴隷生活で身に付けた仮面が、バルパに助けられたこととここ暫くは平穏な生活をしたことで剥がれかけていることに、今になってようやく気付き驚きを隠せないレイ。そんな彼女の素の表情を見て、スースはニカッと快活な笑みを浮かべた。
「良い顔出来るじゃないか、今のあんたすごく生きてるって感じがする」
「……」
再び微笑を浮かべようとすると、スースがスッと拳骨を振り上げた。表情筋を総動員し笑顔を消すと、握りが解かれ右腕が元の位置に戻る。
まるで出来の悪い娘にこんこんと説くかのように、スースは目を閉じながら語りかけた。
「人に物を頼む時はね、真摯にならなくちゃダメだ。うわべだけの誠意で取り繕っても、すぐに化けの皮は剥がれるもんなのさ。あんまりアタシを舐めるなよ、小娘」
レイは気が付けば、彼女の言葉にジッと聞き入っていた。今自分が話されている言葉の中にこそ、何か大切なことがあるような気がして。
「年に似合わない気色悪い愛想笑いと、誠意の欠片もなく頭を下げるのを止めろ。ここには意味もなく暴力を振るう奴はいない。ある程度ならアタシが守ってやる。だから年相応な顔して、ただ大人に従順なフリをしとけば良いんだよ。そんで裏で陰口を言い合って心の中で舌を出してれば良い。そんな死んだ心のままじゃね、強くなれるもんもなれないさ」
死んだ心、凍り付いた、否凍り付かせた心。
ただひたすらに自分と三人の身を案じ、酌をして愛想を振り撒いた。笑みを張り付け、男達のボディタッチを受け流して過ごしてきた。
そうしなければ誰かが傷ついた。だからレイは自らの心を凍らせて、傷つかないように作り替えた。
バルパと出会い奴隷という身分から解放される可能性を見た。そして十分な食事と睡眠を、襲われる危険性のない健やかな時間を手に入れた。
知らず知らずのうちに、氷は溶けていたのだろうか。ううん、きっと溶けていたに違いない。
自分はいつから作り笑いを浮かべるようになったのか、彼女には思い出せなかった。
辛いときこそ笑わなくちゃね、口癖のようにそう言っていた亡き母の教えを心の支えにしていた故なのだろうか。
自分も、母も、そして父もいつも笑っていて、自分の家は常に笑顔の絶えない家庭だった。懐かしさと同時父に会いたいと思う自分がいた。
自分はもう、下手に取り繕う必要はないのだ。私達はもう、不条理な力に脅える必要はないのだ。
そう考えるとレイは、自然頭を下げていた。今度はおべっかでも取り繕いでもなく、本心から。
そんなレイの願いを、スースは快諾した。
こうしてレイ、ウィリス、ヴォーネの三人は、次の日からスースに修行をつけてもらうことになった。




