プロローグ
彼は自分が人間から蔑まれている最弱の魔物であることも、自分がダンジョンの中でリポップして生まれたということも、今自分が生きている場所が翡翠の迷宮と呼ばれる中級ダンジョンであることも何一つ知りはしない。
網目の粗い服を着ている緑色の体躯は人間のようだが、その顔は醜悪そのものだった。黄ばんだ歯はギザギザと尖り、歪んだ口は耳の近くまで裂けている。右手には粗末な鉈、左手には木製の盾、そして腰には粗末な麻の袋という格好をするその生き物は世界で最もポピュラーで愚かな魔物であるゴブリンそのものだった。
しかしその魔物は普通のゴブリンとは違った、彼には考える頭があったのだ。
もちろん彼の小さい脳では考えたことなどすぐに忘れてしまう。少しだけ考えることが出来るのを除けばその他はなんら普通のゴブリンと変わらない。本来の種より少しだけ優れた個体ではあるが、しかしユニークや亜種と判断するほどの差異はない。そんなほんの少しだけの違いが後に世界を揺るがすことになることを、まだ誰も知らない。勇者が封印した魔王でさえも。世界を救い、そして世界に裏切られた勇者でさえもまだ、それを知らない。
名もなきゴブリンはその日もまた考えていた、どうして人間はあれほど強いのだろうかと。手から炎を出し同胞を焼き焦がし、手に持った武器でいとも容易く数匹の仲間を切り裂いてしまう。
自らの数少ない情報と、忘れていないかすかな記憶の欠片から洞察した結果彼は答えを出した。きっとあの強さの秘密は彼らのいる場所にあるのだろうと。彼らはここではないどこかからやって来て、そしてすぐにどこかへ消えてしまう。自分がいるこの場所ではないどこかにその秘密はあるに違いない。彼らの真似をすれば強くなれるかもしれない。名もなきゴブリンはこの自分なりの答えを会心の出来だと思ったが、遠くから香るかぐわしい血の臭いを嗅いだ瞬間、彼の頭は今日のエサを得ることでいっぱいになった。
それは決して表には出ない舞台の幕引きだった、表に出してはいけない類の出来事だった。
「う……ぐっ……」
広く薄暗い洞窟にうずくまり腹を抱えている男は金色の髪を地面に擦り付けながらもがいていた。しなやかにしてたくましい筋肉は白銀の鎧に覆われ、胸に抱えるように抱いている剣は深瓏龍の逆鱗で出来た鞘にしっかりと収まっている。
その身に纏う武威、身に付けた武具、その体から発される魔力、どれを取っても一級品。地面に倒れこみ、虚ろな目を見開かせながらもその身から発される闘気はただごとではない。迷宮でも特に浅い階層であるこの始まりの迷宮の第二階層の魔物は根源的な恐怖を感じ彼から自然と距離を取っていた。
苦しそうな呻き声を漏らす彼の名はスウィフト、齢二十五にして己の役目から解放された勇者であった。そして今彼はその人生からも解放されようとしている、自らが信じ救った世界からの手痛い裏切りという形で。
「う……ううっ‼」
万夫不当と謳われた彼は今、地べたに額を擦り付けながら涙を流している。無様に這いつくばる自分の弱さを呪いながら。
全身に回る万兜蛇の毒は体を千々に引きちぎるかのような痛みを感じさせる神経毒だ。しかし彼の名誉のために言っておくのであれば今彼が泣いているのは自らを襲う精神を壊しかねないほどの痛みでも、未だかつてないほどに近づいた死への恐怖でもない。
スウィフトが涙を流すのは、ただ悲しかったからだった。自分が必死になって救った世界が彼の奉公を仇で返したことが、信じて信じて戦ってきたこの五年間に意味など無かったのだということが。
勇者、それは魔を誅し世界を救うもの。救世主として、英雄として、そして護国の守護神として期待されるその錦の御旗として選ばれたのは、齢二十の既婚者である一人の農民だった。姓すら持たぬスウィフト青年は、ひょんなことから神託を受け世界を救う旅へ向かうことを余儀なくされてしまったのである。鋤を持っていたその手で血なまぐさい剣を持つことを強制され、子供作りを考えていた妙齢の妻ニナと離れ離れにさせられた。
別れ際、発育がそれほど良くない彼女はスウィフトを見上げながら不安げに瞳を揺らしこう言った。
「……待ってます、ずっと」
その言葉を、彼女の肌の温もりを思い出しながら、辛い修行にも必死になって耐えた。
名すら知らぬ自国の王に召し抱えられ、覚えたくもない剣技と魔法を覚え込まされ、無理矢理戦いに駆り出される。魔物を屠れば屠るほど強くなれた、強くなどなりたくもないというのにその身はどんどんと強靭になっていく。
各地を転戦し、何度も死にかけながら戦い続けた五年間は彼にとって地獄でしかなかった。化け物に世界が滅ぼされても構わないと何度も思った、こんな世界など壊れてしまえと何度も考えた。いくら気立ての良い女性を用意されても、美を体現したかのような王女様の覚えがめでたくとも彼の心はなんら晴れなかった。ゼルキア王国で勇者である自分と寒村の村娘であるニナの立場はあまりにも違いすぎた。神前で行ったはずの彼女との結婚はなかったことにされ、彼女を人質に取られながらも彼の戦いは続いた。
世界の敵である魔王さえ殺せば解放してくれるという国王の言葉だけが彼がすがることの出来るよすがだった。時折ニナの無事を確認しに故郷へ返る時を除けば、睡眠時すら気の抜けないような時間を五年間過ごし、彼はとうとう魔王の討伐に成功した。
世界は湧いた、人間は救われたのだと。勇者様のおかげで世界に平和がやってきたのだと。城下町に住む人々の笑顔を見ても心動かぬスウィフトは脅しのような形で王と契約を交わし自由の身を得た。魔物との戦いが終われば人同士の戦いが始まるのは目に見えている、ある程度の平和が担保できた以上自分の役目は終わりだと苦楽を共にしてきたパーティーを解散させた。そしてその足でふるさとへと帰り、ニナと再会した。
五年という月日が経過してもその相貌にはいささかの衰えもない、いやむしろ五年前より美しくなっている気さえする。若木が育ち年輪を蓄えた大樹になるように、少女だったニナは女性へと変わっていた。彼女の成長を傍で見ることが出来なかったことは悔しかったが、今自分が彼女の下へ帰ることが出来たのだからそれで良いと思えた。過ぎた時を巻き戻すことは出来なくとも、これから過ごす時を共に刻むことは出来るのだから。
幸い何もせずとも食べていけるだけの蓄えはある。大切な人を守るだけの力を、自分達に害を及ぼそうとする人間を追い詰めるだけの力を彼は手に入れていた。
スウィフトが救国の英雄からただの農民へと戻ったその瞬間、彼の世界は壊れてしまった。他でもないニナの手によって。彼女は彼の食事に万兜蛇の毒を混ぜこんだのだ。耐性装備をつけず久しぶりにニナの手料理が食べられると浮かれていたスウィフトはそれを碌に毒味もせずに食べ、そして倒れた。
朦朧とする意識の中、彼は泣いているニナの姿を見た。そして毒を盛ったことが彼女の意に沿っていない何者かの謀略であることを悟る。自分の体に聖魔法をかけるも、毒は消える事が無かった。恐らく食事の中に回復魔法を阻害する類いの何かが入ってたのだろう、用意は万全だったというわけだ。彼の死を確かなものとするためだろう、玄関から複数人の足音が聞こえてきた。このまま放っておかれても死ぬのは間違いないだろうに心配性な奴等だと内心で苦笑する。既に視界はほとんど零に近く、平衡感覚すら失っていたが彼は腐っても勇者だ。咄嗟の事態にも体は反射的に動き、全身を魔力の渦が包み込んだ。瞬間移動の魔法を使った。ニナへ別れを告げられず、その一件の首謀者を割り出すことも出来ずに。
彼は自分がどこにいるのかもわかってはいなかった。そこがザガ王国は南部にある中級ダンジョン翡翠の迷宮、まだ子供だった時分に彼が内緒で入り込み自分がまだ幼かった頃ニナと一緒に入り大ケガをしたその場所だということも。毒を盛られても尚変わらないニナへの恋慕と、そして何にも煩わされず二人で過ごすことの出来た昔の思い出が彼をその場所へ連れてきたのだ。
彼は回らなくなる頭で今自分がダンジョンにいるらしいことを理解した、常時発動している魔力感知は彼から離れる複数の魔物の反応を捉えている。
自分が最後に死ぬのがダンジョンであることは不幸中の幸いに思えた。ここならば何もせずとも自然にこの体は吸収され、死後も誰かに利用されることはないであろうから。
彼は自分に近寄ってくる一匹の魔物を確認した。最早目を開けるのも、指先を動かすのも億劫だった。その微弱な反応から考えるにそれほど強い魔物ではなさそうではあるが、本能に逆らいこちらにやって来るその存在にならば殺されても良いかもしれないと思えた。
誰にも知られず、ただ毒にかかって死ぬよりは魔物に殺され、そいつの経験値になった方がマシだ。自分を殺した魔物は膨大な経験値を獲得し、間違いなくユニーク個体になるだろうが知ったことではなかった。自らの人生を縛り、最愛の女性に涙を流させるこの世界などなくなってしまえば良い。
彼は自らを殺す存在を見てやろうと命の蝋燭を燃やしながら顔を上げる。
そこにいたのはゴブリンだった。そいつは他の例に漏れず粗末な腰布を身に纏い、手には石を紐でくくりつけただけの粗末な鉈を持っている。しかしその黄色の瞳には知性の色があるように思えた。
『俺は、強く……なれるか?』
ゴブリンの声が聞こえた、気がした。すぐさまありえないと自分の考えを否定する。
いくら自分が首に翻訳の魔導具を付けているとはいえ、魔物の声が聞こえるはずがない。魔王のような特殊個体でもない限り魔物が喋ることなど出来ないはずなのだから。
「…………なれるさ」
不思議とその質問に答えている自分がいた。
それは感傷だったのかもしれない、名も知らぬゴブリンに向けた言葉だったのかどうかも定かではない。
だがスウィフトはそう口にして、自分の背負う重荷が少しだけ軽くなるのを確かに感じた。それはきっと、さっきの言葉に感じ入るものがあったからだ。
強いか弱いかで言うなら、自分は間違いなく強い人間だった。最強と呼ばれていた魔王を倒したのだから最強であると言っても過言ではないだろう。
だが今自分はどこかもわからない洞窟で、最弱の魔物ゴブリンに殺されようとしている。弱い人間の策略にはまり毒を盛られ死にかけている。ということは自分を毒に冒すことに成功したニナが、自分を陥れた某が最強ということになるのだろうか。いやそうではないと、自分の発言を否定する。そして同時に確信する、自分は強くなどなかったのだということを。
スウィフトという人間は弱かった。武威はあったが、それに心は伴っていなかった。本当に強い人間ならそもそもの神託を無視することも、全てを擲ちニナと駆け落ちをするという選択肢も有り得たはずだ。それを選べずズルズルと現状に至っている時点で自分は強くなどなかったのだ。
自分は強くはなかった、様々なしがらみが、人との縁が自分を強いままでいさせてはくれなかったから。
だが魔物なら、強さこそ全てであり人間の細かい柵などに縛られず元来自由である魔物なら、本当の強さというものを手に入れることが出来るかもしれない。
濁っていく意識の中、スウィフトの前に笑顔の少女が現れた。それは十八才の頃の、まだ少女らしさを残していた頃のニナの姿だった。
(俺は……バカだ)
全部、全部投げ捨ててニナを選べば良かったのだ。たとえ世界が魔王に滅ぼされようと、魔物の脅威に国民が怯えようとどうでも良いと、死ぬその瞬間までニナと共にいれば良かったのだ。そうすればニナを泣かせずに済んでいた。この五年間、ニナを待たせる必要などなかった。
目の前に角が削れ鈍器と化している石の鉈が迫ってくる。ゴブリンは自分を殺すだろう。目の前の個体は弱かった自分を殺し、強者として生きていくのだろう。それこそが摂理、弱肉強食というシンプルで、それ故に強固な真理。
名も無きゴブリンは鉈を振るった。死にかけてもなお自分を遥かに超える強さを持つ存在に打ち勝とうと何度も何度も振り下ろしては振り上げる。自分が圧倒的な優位に立っているにもかかわらず、彼はまったく生きている気がしなかった。目の前の生き物は指先一つで、吐息一つで自分をバラバラに出来てしまうと本能で理解していたから。
どれほどの時間が経っただろう、肩で息をしながら鉈を振り続けていたゴブリンの頭上に青白い光が現れた。
それは生物が生物を殺した時に得られる光、他者の命を自らの糧とし、自らの存在をより強固なものにしていく生命の輝きだ。
光がゴブリンの周囲を包み、そして体内へと入り込んでいく。ゴブリンの体を作り変え、体力を、魔力を、あらゆる能力を充実させていく。本来なら低いはずの彼の知力は、勇者を殺したことで飛躍的に上昇した。それに伴い今まで彼が経験していた数々の出来事が、意味を持ち彼の中で有機的に繋がり始める。
それはまるでパズルのピースを填めていくかのようだった。自分で考えては忘れていた物事が知識として、経験として脳へと収まっていく感覚。
自分の認識、他者への認識がはっきりしてくると彼の脳内にははっきりとした欲望が浮かんできた。
強くなりたい、誰にも踏みにじられないほどに、強く。自らを何度も殺そうとしてきた人間達を倒すだけの力が欲しい、そして彼らのような強さが欲しい。
ゴブリンは下を向く、彼の足元には一つの人間の死体があった。
本能で生きてきたはずの彼は、気がつけば死体へと手を合わせていた。自分を殺そうと追い立ててきた人間と同じ種族であることは理解していたが、それと同時に彼こそが自分を今のように物を考えることの出来る存在へと高めてくれたということも理解していたから。
目の前の人間は、自意識というものがはっきりしていなかった自分のぼやけた問いにしっかりと答えてくれた。お前は強くなることが出来ると。ならば疑いを持つ必要はない。圧倒的強者の言うことは正しいに違いない、強さとは即ち正しさなのだから。
死体のつけている衣服は仕立ての良いものだったため、ゴブリンはそれを貰うことにした。すると人間の腰についたベルトに小さな袋が引っかけられていることに気付く。
自分が貰わなければ誰かに盗られてしまう、そう考えるとそれを置いていこうとは思えなかった。彼は圧倒的な強者であった目の前の人間へ敬意とでも呼ぶべき何かを感じていたのだから。ベルトとそれに入る袋、そして首にかけられたネックレスの全てを彼は装着した。すると頭の中に一気に情報が流れ込んでくる。今の自分にはそれがなんなのかはわからなかったが、どうやらこの小さな袋の中にはとんでもない量の物が入っているようだった。どれほど入っているのかは数の数えられない彼にはわからなかったが、たくさんだということだけは理解できた。
人間の衣服を頂戴し自分につけるとそして代わりに自分の着ていた粗末な布を彼に着せた。幸運なことに二人の体型は比較的似通っていたためにお互いに不都合は起こらずに済んだ。
辺りには未だ物音の一つも聞こえない、しかし自分がここを去れば同胞達はこの死体を餌にしてしまうだろう。それはなんだか嫌だった。
改めて腰に下げた袋を見る。これにはたくさん物が入る、それならもしかしたら目の前の強者の死体も入るのではないだろうか。中にいくつもの魔物の死体が入っているということも彼の考えが正解であることを後押ししている。
袋に死体を近づけ入れと念じるとスッと死体が消えた、そして袋の中に死体が入ったことを確かに感じとる。
これで当座の問題は全て解決したように思える。故に今彼の頭を占めているのは強くなるというその一事のみだった。自分は強くなった、しかしまだまだ弱い。それに自分が殺した圧倒的な強者でも死んでしまうのだ、強くなることに終わりなどないに違いない。
彼は考えた、自分が強くなるためにはどうすれば良いのだろうと。そして答えはすぐに出た、生き物をたくさん倒せば良いのだ。そうすればさっきのように強くなれる。ではどうすれば生き物をたくさん倒せる? その問いの答えも簡単だった。
人間だ、人間の真似をすれば良い。自分が殺した強者も、今日まで自分を苦しめてきたのも全て人間だ。ゴブリン同士の戦いでは負けなしだった自分に土をつけたのも人間だ。
人間は強い、その強さの秘密を自分は知っている。二つの出口だ。人間は自分が使えなかった二つの出口を使える、つまり自分が知らない場所を知っている。そしてきっとその場所こそが、生き物を殺し強くなるための場所なのだろう。
まずはゴブリンを殺しながら人間を観察しよう。そして人間よりも強くなったと思えた段階で二つの出口のどちらかに足をかける。それから向こうで戦いを続ければ良い、それからまた人間を観察し、同じことを続ければ良い。そうすればいつか人間と同じ強さを得ることが出来るはずだ。
勿論いずれは人間を超えなくてはいけない、だがその事を考えるのは自分がどんな人間より強くなれたと思えた時で良い。きっとその時はまだまだ先だろう、さっきの人間のあのプレッシャーを感じたあとだとその時が来るまで自分が生きていられるかどうかは怪しいものだ。
(……強く、なろう)
自分を強くしてくれたあの人間を超える、それを目標に定めながら名も無きゴブリンは出口へと向かっていく。もちろんそれは出口を使うためではなく、出口周辺から現れるであろう人間達を観察するためだ。幸い出口のうちの一つはかなり近くにあったため、ゴブリンはそちらを選んだ。
二つある出口のうちの一つは第一階層への登り階段であり、もう一つは下り階段であった。彼は登り階段を発見し、その近くにあった大きな岩に隠れ人間がやってくるのを待つことにした。
彼は知らない。自らが勇者を殺したことでゴブリンとしては異例の強さを得てしまっていることを。自らが目標と定めた人間が、世界を救い最凶の魔王を誅した勇者であることも。その勇者の持ち物の全てを譲り受けることが、一体どういう意味をもつのかということも。