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幸福の守り手

作者: 餡蜜

それにはなにもかも、名前さえもなかった。

存在すること自体が望まれなかった。

誰にも気付かれずすぐに死ぬはずだった。



まどろみから覚めて体をゆっくり起こす。

首を左右にコキ、と慣らしてから立ち上がる。

窓を開けるとカーテンが朝の風をまとってふんわりと膨らんでしぼむ、を繰り返す。

寝起きではっきりとしない目と頭を起こしながら着替えを済ませ、朝食を買おうと机の上の財布を手にした時かさりと音がした。

こんなところに何かを置いた記憶はない。

音の正体は小さな紙だった。

『私はエレオノラ。貴方の名前は?』

机に置かれた紙にはそう書かれていた。

はあ、とため息をつく。

しかし無視するわけにはいかないので適当な紙に

『名前なんてないよ』

と書いた。

教える名前がない。

少しぶっきらぼうかもしれないが書き直す気力もないし必要もないだろうとエレオノラの紙の隣に置く。

衣装ダンスにしまっているリボン——手に取ったリボンは赤いリボンだった——で肩ぐらいの長さの髪を結び外に出た。

水の都と呼ばれるその街には水路が張り巡らされ、太陽の光を浴びてキラキラ煌めいている。

「美味しいトマトはいかが? 採れたてですよー!」

「魚介類の旨味を閉じ込めた軽めのピッツア! 朝食におススメだよ!」

商店街か店が並ぶ通りでは売り子が商品の宣伝をする。

しかし特に興味を惹かれるものも食欲もない。

結局何も買わずに帰ることにした。

「ただいま」

誰もいない玄関に響く声。

靴を揃えて並べ部屋に戻る。

本棚でぐるっと囲まれた壁に机と椅子とベットが1つずつのシンプルな部屋。

開けていた窓とカーテンを閉める。

結んでいた髪をほどき雑に机の上に放った。

そしてベットに倒れ込む。

窓の外でミーンと蝉が鳴いたのを聴きながら意識を手放した。



いつまで寝ていたのだろうか。

数時間かもしれないし2、3日経っているかもしれない。

体にかかっていたタオルケットをどけて立ち上がる。

机を見るとまた紙があった。

『なら名前をつけましょう! そうね、エドなんてどうかしら? エドワードのエド!』

と書かれていた。

『名前なんてないんだから好きに呼べば?』

とまた適当な紙に書いた。

そういえば名前、というものは意味があるらしい。

調べられるものは無いかと本棚を見回すと買った覚えは無いが名前辞典というのを見つけたので開いて調べてみる。

『エドワード。古英語のead(幸福、富)とweard(守り手)からなる』

幸福の守り手。それがエレオノラから与えられた名前だった。



『たまにはお散歩でもしてみたらどうかしら? きっと気持ちいいわよ』

特にすることもなかったエドはエレオノラに言われた通り(といっても紙に書かれているだけで厳密には言ったわけではないが)外に出た。

相変わらず街は眩しい。

しばらく歩いているといい香りがエドの鼻をくすぐった。

どうやら街から少し外れた森から来ているらしい。

香りに惹かれるように、付いていくようにエドは森へ入った。

太陽が真上にあり照らしているというのに木と木の葉がそれを覆い隠すように生えていて木漏れ日だけが地面を照らす。

光は薄い緑に染まっている。

土を踏みしめる音は響きまるで他の命あるものはいないような、そんな気分になる。

さらに歩くとしばらくして木の間から光が漏れ出ているところを見つける。

足を踏み入れた瞬間、光が雨となって降り注ぐ。眩しすぎて思わず目を瞑る。

そろり、と目を開くとそこは。

「う、わ……」

辺り一面花畑になっていた。

黄色とオレンジで纏められた花たちは風に吹かれ気持ちよさそうにゆらゆら揺れている。

それはとても美しく幻想的な風景だった。

エドはエレオノラにも教えてあげようと思ったが1つとして名前がわかる花がない。

それどころかここがどこなのかも詳しくはわからない。

それにもし教えたとしてもエレオノラが森を抜ける時に怪我をするかもしれない。

ちょっと考えて絵を描くことにした。

カバンからメモ帳とシャーペンを取り出し近くに座る。

鼻から、口から、毛穴から、花のいい匂いを吸い込んだ。

あまり上手くは描けなかったが最初だししょうがないな、とメモ帳を片付ける。

描き終えても時間が余ったので街へ戻った。

日が傾き赤く染め上げていく。

偶然通りかかった店のピッツアが美味しそうだったので入って食べた。

家に帰り寝て起きると『綺麗なお花畑ね! どこにあるのかしら』と書いた紙とメモ帳に描かかれた絵が写真立てに入って机に置かれていた。

それからエドは絵を描くようになった。



今日は天気がいいのでエドはカフェから街の風景を描くことにした。

スケッチブックや鉛筆、色鉛筆などの画材と財布を鞄に詰めて出かける。

どこにしようかと歩いていると朝日が差し込むテラスが綺麗なカフェを見つけた。

店内に入ってハムのサンドイッチとコーヒーを頼みテラス席に座る。

スケッチブックを取り出して絵を描き始めた。

だいたいのラフが終わった時「あら、珍しいわね。こんなところで会うなんて!」と声をかけられた。

顔を上げるとそこには1人のおばさま。

「ここのサンドイッチ美味しいものね〜あっ!」

おばさまの視線が髪をなぞる。

「今日は結わえてるのね〜! いつものおろしてるのも素敵だけどこっちも素敵だわ!」

「そうですか? 」

「ええ! それよりも今日は敬語なのね?寂しいわ〜」

「すみません」

エドに敬語で話すことを教えてくれたのはエレオノラだ。

敬語ならば女でも男でも使うので誤魔化しやすい。

「謝らなくていいのよ。それよりコーヒーなのね。昔は紅茶ばっかりだったのに派閥を変えたのかしら?」

「……私は紅茶派でしたか?」

「……? そうよ、前は少ないお小遣いをやりくりして高い紅茶を買っていたじゃない。忘れたの?」

「あっいえ、思い出しました。そんなこともありましたね」

「やだ、もうボケてきたの? 若い人でも油断しちゃダメよ」

「はは、そうですね。あ、サンドイッチ来たみたいですよ」

「ほんとだわ、じゃあまたね」

おばさまが離れた。

それを確認して描くのを再開する。

彼はすっかり絵を描くのが好きになっていた。



『それでねオリバーがたくさんのお野菜をくれたの! 何を作ろうかしら! それから2人で買い物に——』

あれから文通はずっと続いている。

最近は紙ではなく便箋に書くようになった。

エドはホットケーキを一口サイズに切り分けて口に運ぶ。

甘い香りが優しく包み込んでくれる。

甘いものは幸せにしてくれる、と誰が言ったかは知らないがその通りだとエドは思う。

だって今こんなにしあわせなのだから。

だから、だからなんでこんなにこの便箋を見て心臓がキュッとなるのかわからないのだ。

オリバーという名前を見たときになってる、とエドはなんとなく思った。

前の手紙と変わったところなんてそこしかない。

この名前は不吉な名前なのだろうか。

知らない男の名前を見ると心臓がキュッとなるものなのだろうか?

エレオノラは物知りだから知っているかもしれないとエドは筆を取る。

『——そういや知らない男の名前を見ると心臓がキュッってなるんだけどなんでだろう? 知ってる?」

満足したエドはホットケーキの皿を片付けて眠りについた。



『まあ! きっと女の人から出てきた男の人の名前でしょう? それは恋よ! 女の人が好きだから他の男の人の名前が出ると嫌でそうなるのよ。恋はいいわよ、人間を豊かにしてくれるから』

エレオノラからの便箋を見てエドは2秒ほど固まった。



あれからエドは数日よく考えた。

そしてきっと、いや確実にエレオノラに恋をしているという結論に至った。

恋という感情はストンとエドの体に落ちて馴染んでいく。

そして右目から涙が流れて、流れて、流れた。

そのうち左目からも流れ始めて止まらなくなった。

大号泣していた。

エドはしてはいけない、決して叶わない恋をしてしまったと気がついたのだ。

ああ、エドが好きな人は、エレオノラは。




彼の名前はエド。少女エレオノラに宿ったもう一つの人格。



彼らは望んだ時に入れ替わることができる。

しかし意思の疎通は出来ずお互いが何をしているのか知ることができない。

エレオノラはエドにとってもう1人の自分、もう1人の人格。エドはもう1人に恋をしてしまった。

叶うはずもない、叶うなんてありえなくて哀しくなった。

物語で読んだ身分違いや禁断の恋も叶わない悲恋だと書き綴っていたがそんなものは可愛いものだ。

エドがいる時はエレオノラがいなくて、エレオノラがいる時はエドがいない。

どうしても会うことも話すことも見つめるだけでさえできない。

でもどうしようもなくエレオノラが好きだって気がついてしまった。

こんなに近くにいるのに、誰よりもそばにいるのに。

彼女の声も、仕草も、癖も、笑顔も何もかも知れない。

なのにこんなに恋い焦がれている。

苦しくてしょうがないな、とエドはその場にしゃがみ込んだ。

喉の奥がねじきれるような鳴き声を出し、その声で壁が緩やかに崩壊していきそうな、そんな勢いのある鳴き声を喉が潰れるまであげた。

そして気を失った。




神様、もしいるのならば体をください。

自分の声で、彼女に名前をくれてありがとうって言いたい。



「エド」

「エ、エレオノラ……?」

「ええ」

エドの顔がほころぶ。

「ずっと、ずっと会いたかったんだ」

「私もよ。ねえエド、花畑に連れて行ってくれない? 見てみたいの」

「もちろん! 森を抜けるから怪我しないようにね」

そう言ってエドは手を伸ばしエレオノラの手をにぎーー



握ったその時、目が覚めた。

エドの手は虚空を掴んでいた。

エドは虚ろな目で起き上がり無意識に髪をとかす。

エレオノラが大切にしている髪だからといつのまにか習慣になっていた。

立ち上がり手鏡を覗く。

そこにはエレオノラが写っている。

いつしかおばさまが髪をおろしている、と言っていたからこんな見た目をしているのだろう。

しかしこれはエドでありエレオノラじゃない。

ばたん、と背中からベットに倒れこんだ。



『最近絵を描いていないけどどうかしたのかしら?』

エドは紙を丁寧に折りたたんで机の引き出しの中に閉まった。

絵を描きたい。でも外に出る気にはならない。

こんな事ならいっそ

「死んでしまえたらいいのになあ……」

死は楽になる為の逃げ道。

神様からもらった命を返すだけのこと。

そこに恐怖はない。

そう思って死に逃げようとしたこともある。

けれどもいつも死のうとする直前エレオノラの顔が浮かぶ。

エドがこの体の命を神に返してしまったら彼女は……。

そう思うと足がすくんで結局実行に移せない。

「だっさいなぁ……」

苦しみと悲しみ、そして大きな恋心に押しつぶされそうになる。

『そうかな、じゃあ今度絵を描こうか。どこにしようかな』

そう弱々しく書いた。

ドロドロと溶けて消えていきそうな、そんな文字だった。





むくりとベットから体を起こす。大きく伸びをしてベットから降りる。

ぎゅる、とお腹が鳴った。

「また何も食べてないのね……」

エレオノラはため息をつく。

エレオノラがご飯を食べるから何とかなるものの、このままではよくない。

いつものように机の上の便箋を確認する。あった。

よかった、と長く息を吐き出す。

読み終わった手紙を引き出しの中にしまい、外に出る支度をする。

エドはきっと恋煩いに悩んでいるのだろう、ならどういうアドバイスをすればいいのかしらと考えながら。



「ないわねぇ……」

恋の指南書みたいなものがあれば手っ取り早いと思ったのだがない。

人の気持ちなんてものは人の数だけあるのだろうから当たり前ね、と諦めて帰ろうとした時ふと1つの棚が目に入った。

Manga(少女) delle() ragazze()……?」

一冊手にとってパラパラとめくる。イラストと人物のセリフで出来た本。

「それは少女漫画と言って少女向けに描かれた本なんですよ〜」

突然後ろから話しかけられた。驚いて肩がビクつく。

「え、えっと……」

「驚かれたみたいですみません。私は書店員です」

ほら、と名札を見せてくる。

「で、こちらなんですけど。この本、ずっと東にあるところから輸入したものを翻訳したもので少し高いのですが文字量は少なくその分イラストが多いので読みやすいですよ」

「あ、なるほど……」

たしかにそこには少女達が懸命に恋に生きる姿が描かれている。

「女の子向けだけど……まあいいでしょう」

ひとシリーズ適当に選んで購入した。



「なんだこれ……読んでみてって……」

手紙と6冊の少女漫画を交互に見てからぽすんとベットに座ってエドは少女漫画のページをめくりはじめた。

どうやら学校で先輩に恋した女の子の話のようだ。

『玉砕してもいい、この想いを伝えられればそれでーー』

『やっぱりダメだったなあ……でも告白してよかった。もやもやして苦しかった気持ちが楽になった』

「…………」

エドは漫画を閉じてベットに背中を預けた。

「言って楽に……」

言って楽になるなら手紙に書いてもいいかもしれない。

なんとかしてこの苦しみから脱したかった。

それに。

「避けたりよそよそしくなりようがないしな……」

ちりっとまた胸が痛んだ。



『エレオノラへ

言いたい、いや伝えたいことがあるから読んでほしい。突然ごめん。でもどうしても伝えたいから……』

手が震える。伝統工芸のガラスで作られたガラスペンがひんやり冷たい。

『実は僕には好きな人がいて、そのことなんだけど』

インクが滲んでしまいそうだ。

『僕が好きなのは、好きな人は』

一旦ガラスペンを置いて深呼吸した。そして一気に書き上げる。

『エレオノラ、君です』

エドは生まれて初めて交代するのが怖いと思った。



エレオノラはエドからの手紙を見て固まった。

今までそんな素振りはなかったのに。

「……いえ」

いや、本当にそうだろうか? 本当に、そんな素振りはなかった?

「あの時の、知らない男の名前は、オリバー……」

本当は気がついていたのではないか、目を逸らしていたのではないだろうか。

「そんなの、私だって……」

こんなのは辛いに決まっている。

でも自分の言ったことをきちんと実行する彼に、いちいちやったことを報告してくれる彼に、私のために身嗜みを整え絵を描いてくれる彼にどうしようもなく。

「私も好きよ、エド……」

ああ、こんなにも悲しいのにこんなにも嬉しい。(エド)が好きな人が(エレオノラ)でよかった。



これは違う人格を好きになった少女の話。

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